こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

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幕間 第伍話:神業

 暗く、埃っぽい空気が淀む廃ビルの一角。

 壁はひび割れ、天井からは配線が垂れ下がっていた。

 窓も割れ、外の夕陽の残光だけが、かすかに差し込んでいる。

 

 森中花咲は、柱に繋がれていた。

 両手を高く掲げるように手錠で固定され、

 うっすらとした赤みのある液体が入ったガスを吸わされた痕跡が口元に残る。

 

 その目は焦点が定まらず、頭をガクガクと揺らしている。

 

「……っ……ん……」

 

 森中の意識は朧げだ。

 言葉にならない呻きが漏れるたびに、細い身体が震える。

 

 そして、その前に――

 まるで守るように立ちはだかっているのは、椎名唯華。

 

 スーツのジャケットは裂け、肩には鮮やかな血が滲んでいる。

 右足もかすかに引きずっており、戦闘の傷が明白だった。

 

 彼女の視線の先には――

 異様な風体の大男が立っていた。

 

 その目は濁っておらず、冷たく鋭く、まるで標的を品定めするように椎名を見下ろしていた。

 

 椎名は口角に血を滲ませながら、それでも笑っていた。

 

「……お前……朴家の人間やな」

 

 静かに、しかし確信をもって名を口にする。

 

「異端の術の開発して……

 中国のΣからも追われとるって話やんか」

 

 名を聞かされた大男は、表情を変えず、ただ一歩前に出た。

 

「……どいた方が身のためだぞ」

 

 その声は低く、地鳴りのようだった。

 

「その魔女は――我らの誇り高い血を穢した悪党なのだからな」

 

 森中はかすかにうわ言のように何かを呟いているが、言葉にならない。

 

 椎名は肩をすくめて鼻で笑う。

 

「お前にとっちゃ“悪党”でもな、

 うちにとっちゃ大事なスタッフなんや」

 

「どれだけイカれてようが、メシ代をちゃんと払う子や。

 そういう子を、うちは見捨てへん」

 

 その瞬間、大男が無言で床を蹴る。

 床が鈍い音を立ててめくれ上がり、

 彼の巨体が空気を裂くように椎名へ飛びかかってきた。

 

 ――ズドォンッ!!!

 

 その攻撃を、椎名はギリギリで受け流す。

 

 だが、大男の拳が空振りして地面に叩きつけられた瞬間――

 その一点から床が崩れ落ちた。

 

 ひび割れが一気に広がり、

 コンクリートが砕け、下の階が丸見えになるほどの大穴が開く。

 

 埃が舞い、鉄骨の軋む音が響き渡る。

 

 椎名はその場から距離を取りながら、崩れた床を見下ろし、

 目の奥に、静かに燃えるような怒気を灯していた。

 

 沈黙の廃ビルに、風が通り抜ける――

 

 椎名は、一瞬視線を落として、

 足元に転がっていた錆びた鉄パイプを拾い上げた。

 

「……こんなんしかあらへんな」

 

 手の中でその重みを確かめながら、

 パイプのバランスを微調整する。

 

 錆でざらついたその棒は、どこから見てもただの廃材に過ぎなかった。

 だが椎名は、まるで刀を抜くように静かに構えを取る。

 

 目の前の朴家の大男が、わずかに眉を動かす。

 

 ――その瞬間。

 

 ドンッ!

 

 巨体が地を蹴る。

 大男の拳が空気を裂き、鋼のような一撃が椎名に迫る。

 

 だが。

 

 カァン――!

 

 椎名は、鉄パイプをまるで刃のように振るい、拳を受け流す。

 

 踏み込み、体重移動、柄の角度、肘の捻り――

 全てが洗練された“型”に則っていた。

 

 椎名のその動きは、

 ただの即興武器で行うものではない。

 

 大男の目が僅かに見開かれる。

 

 ガン! ギィッ――!

 

 椎名は、踏み込みと同時に鉄パイプの柄を回し、

 次の拳を受け流しながら跳ね返す。

 

 その反動を利用し、

 一気に身体を反転させ――

 

「せぇっ!!」

 

 バシュ――ン!

 

 全体重を乗せたカウンターの一撃を、大男の胸部に叩き込む。

 

 ズドン!!

 

 音と共に、大男の巨体が数メートル吹き飛び、

 床に転がる破片を巻き上げながら、壁際まで滑っていく。

 

 一瞬の静寂。

 

 床を砕き、埃が舞い、沈黙が場を支配する。

 

 椎名は息を吐きながら鉄パイプを軽く下げる。

 

「ふぅ……ちょっと、ええの入ったやろ」

 

 だが――

 

 ギィッ……

 

 吹き飛ばされた先の影が、音を立てて起き上がる。

 

 大男は、胸元を軽く払うようにして立ち上がり、

 顔にうっすらと、皮肉のような笑みを浮かべた。

 

「まさか……その歳で剣術の心得があろうとはな」

 

 その言葉に、椎名は片眉を上げる。

 だが返答を待つ暇もなく――

 

「……だが、それだけで我が体を止められると思うな」

 

 大男は両の拳を組み直し、踏み込みの構えを取る。

 

 まるで武道の達人が使う“型”そのものだった。

 

 瞬間――

 

 ズンッ――!!!

 

 足音ではない。

 “圧”だった。

 

 大男が踏み込んだ次の瞬間、世界が傾いたような錯覚に襲われ、

 椎名は咄嗟に防御を構えるが――

 

 ドガァンッ!!!

 

 次の攻撃は、明らかに違っていた。

 

 一撃の質が、変わっていた。

 

 今度の拳は、一点集中の突き。

 空気の層を突き破るような、“槍”のような拳だった。

 

 鉄パイプで受ける間もなく、

 椎名の身体は――宙を舞った。

 

「――ッ!?」

 

 ゴシャアアァン!!

 

 後方の壁に、人型の凹みを作るほどの衝撃で叩きつけられる。

 

 瓦礫が崩れ、埃が舞い、鉄骨が軋む音が空間に響く。

 

 椎名は肩で荒く息をしながら、

 崩れかけた壁に背を預け、血の混じった唾を吐く。

 

 鉄パイプはその手から滑り落ち、転がっていった。

 

 目の前には、何一つ傷を負った様子のない大男が、無言で迫ってくる。

 

 その瞳は、冷たく、そして絶対に“情”を持たない殺意の色だった。

 

 床に膝をつき、崩れた壁にもたれかかる椎名唯華は、

 胸元を押さえて荒い呼吸を繰り返していた。

 

 肺に、鉄の味が混じる。

 内臓がずれたような感覚。

 だが――まだ意識はある。

 

「……っは……しつこいっちゅうねん……」

 

 そんな中。

 

 目の前に立つ大男の気配が――急激に、変わった。

 

 彼は静かに、両手を広げて構えると、

 手のひらに、ねっとりとした黒い“気”のようなものを集めはじめた。

 

 それは闇でも霧でもなく、

 見る者の精神を直接汚染するような――“怨念”そのものだった。

 

 大男の口が、重々しく開く。

 

「看我们的一族的方法…吧」

 

 低く、抑えた声が空気を震わせたその瞬間――

 

 ズバァァァ――ンッ!!!

 

 大男の両手が、椎名の前で――

 “空間”そのものを裂くように振り抜かれた。

 

 何も当たっていない。

 

 だが――

 

「――が……ッ!!?」

 

 椎名の背中が、ピクリと跳ねた。

 

 次の瞬間、彼女の身体が内側から真っ二つに裂かれたような感覚に襲われた。

 

 実際に体は無傷のまま。

 けれど、中身だけが斬られたような、

 奇怪な激痛が脳を突き抜ける。

 

「っ……ヤベっ……」

 

 その言葉を呟く間に、足元の力が抜けた。

 

 ガクン――。

 

 鉄パイプも、支えも、何もかもが崩れ落ちる。

 

 膝から崩れ落ちるように椎名はその場にへたり込み、

 両手を地面について必死に耐えるが、

 腕もガクガクと震え、言葉すら続けられない。

 

 痛みではない。

 “命の核”を裂かれたような――致命的な術。

 

 視界がにじむ。

 耳鳴りがして、身体の感覚がどんどん薄れていく。

 

 ――目の前の大男は、ただ無表情に、淡々と近づいてくる。

 

 その目には憐れみも、勝利の喜びもなかった。

 ただ静かに、“始末”の意志だけが浮かんでいる。

 

 立ち上がろうにも、指先すら言うことをきかない。

 視界は揺れ、心臓の音だけがやけに耳に響く。

 

 目の前で、巨大な影が動いた――

 

「終わりだ」と言わんばかりに、大男の拳が椎名に振り下ろされようとしたその瞬間。

 

 ――ドガァンッ!!!

 

 斧が振り抜かれた音が、廃ビルにこだました。

 

「っらあああああ!!」

 

 鋭い掛け声とともに、

 赤羽葉子が渾身の力で斧を振り抜き、大男の拳を弾き飛ばしていた。

 

 その一撃は重く、確かに直撃していた。

 しかし――

 

「いっっっったぁぁぁぁ!!」

 

 直後、衝撃が腕に返り、斧が赤羽の手からすっぽ抜けて、カランと音を立てて床に転がる。

 

 それでも――

 

 赤羽は、必死に椎名の前に立ち、

 振り返って苦笑しながら言った。

 

「しゅ……主役は……遅れて来るんすよ……!」

 

 ズタボロの制服に傷だらけの腕。

 それでも、口元は笑っていた。

 

 椎名は、その姿を見て――

 ぎり、と口を歪める。

 

「言っとる場合か!」

 

 その声に力が戻ってきていた。

 

 だが――

 

「小娘が……!」

 

 大男が、よろめきながらも立ち上がる。

 

 斧の一撃は効いたものの、

 彼の身体は未だに“化け物”のままだ。

 

「少しは霊能力を使えるようだが……」

 

 忌々しげに床を踏みしめて、拳を鳴らす。

 

「椎名家でもない人間が、我らの術を受け切れると思うでないぞ!!」

 

 そして――

 

 ズドンッ!!

 

 再び、大男の巨体が赤羽に向かって飛びかかってきた。

 

「……っうそでしょおおおお!?」

 

 赤羽は咄嗟に斧を拾おうとするが、間に合わない。

 

(ヤバい、死ぬ――!)

 

 その瞬間――

 

「どけぇ!!」

 

 椎名が、残された最後の力を振り絞り、

 血塗れの片手を掲げた。

 

「ぐっ……!」

 

 拳を振り下ろす寸前だった大男の身体が、

 急激に姿勢を崩し、床を転がって壁に激突する。

 

 ガシャアァン!

 

 壁が崩れ、土煙が舞う。

 

 空気が止まったような数秒後。

 

 椎名は、膝をついたまま、

 赤羽の肩に寄りかかるようにして、苦しげに笑った。

 

「……ばねさん……ほんまに、来るんやから……」

 

 崩れた壁の傍らで、荒い呼吸を吐く椎名を背に、

 赤羽は震える手で斧を拾い上げた。

 

 その柄を握った瞬間――

 

「ッッ……があああッ!!」

 

 再び、激痛が両腕を走る。

 

 掌から肘まで、何かが血管を逆流しているような痛み。

 血が滲み、肌がひび割れ、命の代償が赤羽の体を蝕んでいく。

 

 無言で、大男の前に歩を進める。

 

「……向かってくる度胸だけは認めるが……」

 

 大男は一歩後退し、

 その巨腕に再び黒きオーラを纏わせていく。

 

 嫌な音が空間を裂くように響き、

 膨れ上がる力。

 

 椎名は、目を見開いた。

 

「ま…待てや!! ばねさんにそれは流石に……!」

 

 血を吐きながら叫ぶ椎名。

 赤羽がその術を受ければ、どう考えても無事では済まない。

 

 だが。

 

「……え?」

 

 次の瞬間、

 大男が“空間を裂く動作”を再び繰り出したのに――

 

 赤羽には、まったく何の影響もなかった。

 

 その場に立ったまま、動じることもなく、

 まるで術そのものが“赤羽を避けた”かのように。

 

「なっ……に……?」

 

 それを見た大男の顔に、初めて――焦りが走った。

 

 椎名も、息を呑む。

 

 赤羽の表情は、無表情。

 何かを考えている様子もない。

 

 ただ静かに――

 

 斧を手放した。

 

 コトン、と床に落ちる音だけが響く。

 

 次の瞬間、

 赤羽の手に、“黒いオーラ”が湧き上がる。

 

 先ほどの大男のものと、よく似ている。

 だが――

 

 何かが決定的に違っていた。

 

 それはより濃く、より深く、より“本質”に近い。

 

 赤羽は静かに、両手を構え、

 まるで見よう見まねのように、大男と同じ動作を取った。

 

 ――“空間を裂く”動作。

 

 赤羽の両手が空を裂いた、その瞬間――

 

「グッ……!?」

 

 大男の身体が、音もなく吹き飛んだ。

 

 壁にぶつかるでもなく、

 見えない何かに貫かれたように、彼の身体は宙に浮き、数メートル後方へと弾け飛んだ。

 

 そのまま、ゴォンと鈍い音を立てて落ち、

 仰向けに倒れ――動かない。

 

 胸が上下しない。

 

 血を流しているわけではないが、

 力尽きたように、大男は意識を手放していた。

 

 赤羽は――何も言わずに立っていた。

 

 その手からオーラは既に消え、

 ただの少女の姿に戻っている。

 

「……な、に……あれ……」

 

 椎名の声は、かすれた囁きだった。

 

 まるで“同じ術”を使ったように見えて――

 違う何かが、そこにはあった。

 

 それは模倣ではない。

 

 それは模倣を超えた何か――

 あるいは“源流”。

 

 椎名は立ち上がれないまま、

 赤羽を見上げていた。

 

 崩れた床の中心――

 立っているのは、ただ一人。

 

 赤羽葉子。

 

 その少女の手には、再び斧があった。

 

 いや、今やそれはただの武器ではなかった。

 血塗られた代償と引き換えに顕現した、彼女の“存在証明”のようなもの。

 

 斧を握った手からは血が流れ、

 腕全体に黒い炎のような文様が這い、

 骨の軋む音が響く。

 

 それでも赤羽は、何の感情も見せないまま、

 倒れかけた大男の前に、静かに立ちふさがった。

 

「为什么……?」

 

 大男が中国語で呟く。

 その目には、理解できない恐怖が浮かんでいる。

 

「这种技艺只有极少数贵族才能掌握,

 即使在朴家也是如此。」

 

 ――この技は、選ばれし血筋だけに許されたもの。

 それがなぜ、目の前の少女に……?

 

 ……ありえない。この“娘”は、何者だ……?

 

 だが、赤羽は答えない。

 

 ただ静かに、斧を構える。

 

 構えの型は拙く、まるで素人のそれだ。

 

 だが――

 それでもなお、圧倒的な威圧感があった。

 

 その目に、怯えも迷いもない。

 

 大男の背筋を、得体の知れない寒気が走る。

 

「まさか……あなた様は……」

 その言葉を最後まで口にすることはなかった。

 

 その時――

 

「ばねちゃん……」

 

 と、くぐもった声が響いた。

 

 手錠に繋がれたまま、

 床に崩れ落ちていた森中花咲だった。

 

 まだ自白剤の効果が残る中、

 その目は涙に潤み、言葉も定まらない。

 

「もういいから……ばねちゃん……」

 

 優しい声だった。

 

 戦いの空気が、ふっと緩む。

 

 その声に――

 赤羽は、ようやく目を見開いた。

 

「あ……」

 

 一瞬で表情が変わる。

 

 さっきまでの“何かに憑かれたような顔”から、

 いつもの赤羽葉子へと。

 

「あ、ヤベっ……!」

 

 慌てて斧を手放し、パッと消し去る。

 消えた斧の残滓が空中で黒く揺らめいて、しばらくしてから静かに霧散した。

 

 赤羽は、バツの悪そうな顔で、森中の方へと振り返る。

 

「大丈夫ですか……?」

 

 その声は、どこか震えていて――

 でも、明るく笑おうとするような、いつもの赤羽だった。

 

「……世の中、物騒になったもんですね……」

 

 そう言って笑った赤羽の目には、

 ほのかに涙が浮かんでいた。

 

 

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