おまけ:抜錨乙女 1
笹木咲が目を覚ました時、最初に感じたのは妙な静けさだった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は柔らかく、部屋の空気はまだ少しひんやりとしていて、どこか懐かしい洗剤の匂いが漂っている。
その感覚に導かれるように薄く目を開けた笹木は、ぼんやりと天井を見上げたまま数秒ほど動かなかったが、やがてゆっくりと上体を起こし、寝癖のついた髪をかきながら小さく肩を回した。
ごき、ごき、と骨が鳴る。
その音がやけに大きく聞こえるほど、部屋は静かだった。
昨夜のことを思い出そうとしても、頭の中には薄い霧がかかっているようで、どこまでが夢でどこからが現実なのか判然としない。
閏時のことも、事務所のことも、赤羽や森中のことも、まるで遠い場所で見た長い映画のように感じられた。
笹木は欠伸を噛み殺しながらベッドの端に腰掛け、そのまま部屋の中へ視線を巡らせる。
見慣れた机。
可愛い色のカーテン。
壁に貼られたままの古いポスター。
そしてクローゼット。
開きっぱなしになっている扉の向こうには、昔の制服のブレザーが掛かっていた。
それだけではない。
何年も前に着ていたはずのパーカーも、その隣に並んでいる。
肩の部分の癖まで覚えている。
袖の折れ方も。
フードの潰れ方も。
まるで昨日脱いでそのまま掛けたかのように自然な姿でそこに存在していた。
笹木はしばらく無言でそれを見つめていた。
時間だけが巻き戻ったようだった。
東京へ出てからの出来事も、自分が大人になったことすらも全部存在しなかったことになって、ただ高校生だった頃の自分だけがこの部屋に残されているような錯覚が胸の奥に広がっていく。
窓の外からは近所の車の音が聞こえる。
どこかの家のテレビの音も聞こえる。
それらは昔から何も変わっていない。
変わっていないはずなのに、自分だけが何か別の場所から戻ってきてしまったような感覚が消えなかった。
ゆっくりと立ち上がった笹木は、部屋の隅に置かれた姿見へ視線を向ける。
鏡の中には、少し寝癖のついた髪のままパジャマ姿で立つ自分が映っていた。
顔立ちは知っている。
昔から何度も見てきた顔だ。
けれど、その姿を見つめているうちに、だんだん奇妙な違和感が胸の奥から湧き上がってくる。
それは見知らぬ他人を見る感覚にも似ていた。
東京で過ごした時間。
あの事務所。
そして、自分自身。
そうした全てを経験したはずなのに、鏡の向こうに立っている女は、そんなものを何一つ知らない昔の笹木に見えてしまう。
鏡へ近付きながら、笹木は無意識のうちに目を細めた。
映る自分も同じように目を細める。
その仕草にすら奇妙な違和感を覚えながら、彼女はじっと自分自身を見つめ続けた。
やがて、誰に聞かせるでもなく胸の内で呟く。
――お前……本当に笹木咲なんか?
その問いに答える者はいない。
鏡の中の女はただこちらを見返しているだけで、その瞳の奥に何があるのか、自分でも分からなかった。
もし昨日までの出来事が全部夢だったのだとしたら、自分は何者なのだろう。
逆に、あの東京での日々が現実だったのなら、今こうして昔の部屋で朝を迎えている自分は一体どこに立っているのだろう。
そんな答えのない疑問が静かに頭の中を巡る中、朝の光だけが変わらず部屋へ差し込み続け、クローゼットの中の制服とパーカーを淡く照らしていた。
その光景はどこまでも穏やかで、どこまでも懐かしく、それゆえに笹木の胸の奥へ得体の知れない不安をゆっくりと沈めていくのだった。
クローゼットの中に掛けられた制服を眺めているうちに、最初は胸の奥に引っ掛かっていた違和感も次第に薄れていき、代わりに笹木らしい雑な楽観が顔を出し始めていた。
そもそも考えてみれば、怪物だの怪異だの、訳の分からない連中と東京でわちゃわちゃしていた日々の方がおかしいのであって、こうして実家の自室で目を覚ましている今の状況の方がよほど自然ではないか――
いや、訳の分からない連中とわちゃわちゃしていたのは昔も変わらないが…
そんな結論に辿り着くと、彼女は一人で何度も頷きながら腕を組み、ついには満足そうな顔で声を上げた。
「そうやな! やっぱり夢か何かやったんや!」
そう言った瞬間、先ほどまで感じていた不安や戸惑いはどこかへ吹き飛び、笹木は勢いよくベッドから立ち上がると、着ていたパジャマを脱ぎ捨てるようにベッドの上へ放り投げ、そのままクローゼットから制服を引っ張り出した。
何年も前に着ていたはずなのに、不思議なくらい手が覚えている。シャツに腕を通し、ボタンを留め、スカートを履き、ブレザーを羽織る一連の動作は驚くほど自然で、まるで昨日まで毎日そうしていたかのようだった。
制服を着終えた笹木は、どこか誇らしげな顔で姿見の前へ歩いていく。
鏡の中には制服姿の自分が映っていた。
彼女はしばらく無言でその姿を見つめたあと、満足そうに頷く。
「うん……まだまだイケるな!」
言った直後、自分で自分にツッコミを入れるように眉をひそめた。
「いやいや! うちはまだ高校生やねんから、イケるとかないねん!」
鏡の中の自分へ向かって指を突き付けながらそう言い返し、なぜか一人で納得する。
そのまま横を向いたり後ろを向いたりしながら制服のシルエットを確認し、スカートの裾を軽く摘まんでみたり、ブレザーの肩を撫でたりしながら、どこか懐かしい気分に浸っていた。
「別に変なとこないよな……」
そう呟きながら身体をひねって背中を確認しようとする。
「うんうん」
今度は横向きになって自分のラインを確認する。
「よし」
正面に戻る。
「よし」
もう一度横を向く。
「よし」
何がどうよしなのか本人にも分かっていないが、とにかく満足したらしい。
やがて鏡の前から離れた笹木は、妙にテンションの高い足取りで部屋の出口へ向かうと、ドアノブへ手を掛けながら満面の笑みを浮かべた。
「さて! 今日も遊びに行くか!」
勢いよく扉を開く。
その瞬間だった。
廊下に立っていた森中花咲と、真正面から目が合った。
森中はちょうど部屋へ来たところだったらしく、片手には朝食らしき皿を持っている。
「ご飯……」
そこまで言いかけた彼女の口が止まる。
視線が笹木の顔から制服へ移動する。
再び顔へ戻る。
そしてまた制服を見る。
数秒。
沈黙。
森中の思考が完全に停止しているのが分かった。
一方の笹木も、自分が今どんな格好をしているのかを思い出し、反射的に顔が引きつった。
「あっ……違……」
そこまで言ったところで言葉が続かない。
何が違うのか自分でも説明できなかった。
夢だと思っていた。
制服があった。
着た。
それだけである。
あまりにも説明不能だった。
二人はしばらく廊下で見つめ合ったまま固まる。
やがて森中の肩が震え始めた。
最初は我慢しようとしていた。
唇を噛み締めていた。
だが無理だった。
「きっつ……」
吹き出した。
次の瞬間には顔を真っ赤にしながら腹を抱え、壁を叩く勢いで笑い始める。
「やっば……なにそれ……!」
「お前……っ……!」
笑いながら廊下を後退りし、そのまま逃げるように走り出す。
笹木の顔は一瞬で茹で上がったように真っ赤になった。
「待てや森中!!」
絶叫がアパート中に響く。
森中はさらに笑う。
笹木は慌てて追いかけ始めた。
制服のスカートを翻しながら廊下を全力疾走する光景は、どう考えても年相応の女子高生のそれだったが、追われている森中も追っている笹木も、そんなことを冷静に考えられる状態ではない。
「減給するぞ!!」
笹木が叫ぶ。
森中は腹を抱えたまま振り返り、
「店長の給料で脅されても怖くないから!!」
と言い返してさらに加速した。
追いかけっこの末にようやく落ち着きを取り戻した二人は、結局そのまま朝食へと引きずり込まれることになり、今は実家のリビングにある食卓を囲んでいた。
窓から差し込む朝の光は明るく、テレビでは平日の情報番組が流れ続けている。
焼き魚の香りと味噌汁の湯気が漂う、ごく普通の家庭の朝だったが、その中でただ一人だけ異様なほど視線を集めている人物がいた。
森中花咲である。
食卓の向かいに座った笹木の母親は、最初こそ「お友達?」という軽い反応だったものの、改めて森中の顔を見てからというもの、完全に興味を奪われてしまっていた。
「ねえねえ、あなた本当に綺麗ねぇ……」
母親は箸を持ったまま目を丸くし、まじまじと森中を見つめる。
「なんていうのかしら……テレビの中から出てきたみたい」
森中は味噌汁を口に運びかけたまま少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
「いやいや、そんな大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃないわよぉ」
母親は首を横に振る。
「お肌も綺麗だし、顔も小さいし、目もぱっちりしてるし……」
その視線は完全に森中へ固定されていた。
隣で焼き魚をほぐしていた笹木は、すでに不満そうな顔になっている。
「そんな森中ばっかり見んでもええやろ……」
口いっぱいにご飯を頬張りながらぼやく。
だが母親はちらりと笹木へ視線を向けると、制服姿を上から下まで一秒ほど確認しただけで興味を失ったように視線を戻した。
「まああんたはそんな変わらないわよ」
「雑っ!」
即座に抗議が飛ぶ。
しかし母親は気にも留めない。
「だってまだ卒業したの二年前でしょ?」
「二年やぞ!?」
「二年くらいじゃそんな変わらないって」
「変わるわ!」
「変わってないわよ」
あまりにも自然な返しに笹木は言葉を失った。
今朝あれだけ鏡の前で確認した努力が一瞬で否定された気分だった。
「いや、うち結構大人っぽくなっとるやろ……」
「そう?」
「そうや!」
「そうかしらねぇ」
まるで興味がない。
完全に娘への評価を終えた母親は再び森中へ向き直り、その目をきらきらと輝かせ始めた。
「それであなた、なんかそういうお仕事してるの?」
「読モです。最近のにはそんなに出れてないですけど…」
「ほらやっぱり!」
母親は勝手に納得した。
まるで宝石でも見つけたかのような目で森中を眺め続ける母親と、完全に居場所を失って黙々と朝食を食べる笹木。
制服姿で座る娘よりも、その隣の美人な友人の方が遥かに興味深いらしい。
その事実が地味に腹立たしかったのか、笹木は箸を握りながら頬を膨らませた。
「……なんやねん」
その呟きに反応したのは森中だった。
ちらりと横を見る。
制服姿の笹木は不満そうな顔をしながらご飯をかき込んでいる。
その様子がどこか昔のままで、思わず笑みが漏れそうになる。
すると笹木はその視線に気付いたらしく、じろりと睨み返してきた。