そんな二人は今、住宅街の外れを並んで歩いていた。
昼前の空はよく晴れており、古い一戸建てやアパートが並ぶ通りには、洗濯物を干す住民や買い物帰りの主婦の姿がちらほら見える。
都心のような喧騒はなく、どこか時間の流れが緩やかな街並みだった。
笹木は片手でタブレットを操作しながら歩いており、画面に表示された地図と周囲の景色を何度も見比べている。
「昔、この辺にアルカナって喫茶店があってな……」
視線はタブレットに向けたまま、ぽつりと話し始める。
「その店主、花畑チャイカの行方が分からないんや」
森中は横を歩きながら軽く眉を上げた。
「行方不明?」
「せや」
笹木は地図を拡大しながら続ける。
「正確には生死不明やな。消えたんか、逃げたんか、死んだんかも分からへん」
その言葉とは裏腹に、笹木の口調はあまり深刻ではなかった。
長い年月の中で何度も同じ話をしてきたのだろう。
どこか事務的な響きすらある。
やがて二人は通りの角を曲がり、一軒の喫茶店の前で足を止めた。
駅前にありそうな真新しい建物だった。
外観はガラス張りで、木目調の落ち着いたデザインが施されている。テラス席まで用意されており、若い客や会社員らしき人間が出入りしている様子も見えた。
休日らしい穏やかな空気が漂っている。
少なくとも、何か曰くがある場所には見えなかった。
笹木はそんな店を見上げながら、タブレットの画面を指先で軽く叩く。
「少し前から、ここは加賀美インダストリアルの敷地やな」
森中も店へ視線を向ける。
「ここが?」
「せや」
笹木は頷いた。
「夜見が『ここ押さえてたら捕まえられるかも』って言ってな」
少しだけ肩を竦める。
「それで夜見の『ご主人様』が買い取ったんや」
その単語に森中は小さく首を傾げた。
「ご主人様?」
聞き返された笹木は、逆に不思議そうな顔をした。
「加賀美インダストリアルの社長や」
当たり前のように答えたあと、じっと森中を見る。
「お前、幼馴染なのに知らんのか」
すると森中は数秒だけ考え込み、それから何か思い当たったように小さく声を漏らした。
「ああ」
納得したように頷く。
「お兄さんのことね」
二人の視線の先では、昼時の喫茶店へ新しい客が入っていき、自動ドアが静かに開閉を繰り返していた。
喫茶店を眺めていた笹木は、しばらく無言でガラス越しの店内を見つめていたが、やがて何かを振り払うように小さく首を振ると、肩を回しながら軽く息を吐いた。
「せや」
その声音には、先ほどまで実家や昔話に引っ張られていた意識を無理やり仕事へ戻そうとするような響きが混じっていた。
「何もホームシックで実家帰ってきたんとちゃうねん」
苦笑混じりにそう言いながら歩き出し、そのまま自動ドアへ向かう。
「せっかく帰ってきたんやから、やることやっとかなあかん」
森中は隣を歩きながら、その横顔をちらりと見た。いつものように気の抜けた調子ではあるものの、その目だけは僅かに真面目だった。
二人が店内へ足を踏み入れると、外から見た印象そのままの落ち着いた空間が広がっていた。木目調の床や壁は丁寧に手入れされており、照明も暖色系で統一されている。
コーヒーの香りがほのかに漂い、客席では数人の会社員らしき客が談笑しながら飲み物を口にしていた。
流れているジャズも耳障りにならない程度の音量で、全体として非常に洗練された雰囲気がある。
まるで駅前の人気店そのものだった。
その空気の中を進んでいくと、カウンターの奥からエプロン姿の店員が近付いてくる。
「いらっしゃいませ」
営業用の笑顔を浮かべたまま足を止める。
「2名様ですか?」
本来なら自然なやり取りだった。
だが笹木はその問いにすぐには答えず、どこか言いづらそうな顔で頭を掻いた。
「いや、その……」
一瞬だけ言葉を探すような間が生まれる。
そして周囲を見回してから少し声量を落とした。
「うち、笹木言うんやけど……」
店員の表情はまだ変わらない。
だが次の言葉が出た瞬間、その空気が僅かに揺れた。
「魔使さんって人おるか?」
営業スマイルがほんの少しだけ固まる。
それは本当に一瞬だった。
しかし森中にも分かるほど分かりやすい変化だった。
店員は反射的に視線を逸らし、それから再び二人を見る。
そして微妙に困ったような、何とも言えない顔を浮かべた。
笹木はその反応を見逃さなかった。
「なんや」
少し眉を上げる。
「嫌われてるんかその人」
冗談めかした口調だったが、店員は笑わなかった。
「いや……まあ……」
返答はひどく歯切れが悪い。
肯定も否定もしない。
むしろ何と言えばいいのか分からないような様子だった。
森中はそのやり取りを見ながら首を傾げる。
ただ名前を出しただけでここまで空気が変わるのは不自然だった。
店員は数秒ほど迷うような素振りを見せたあと、小さく息を吐いた。
「こちらへどうぞ」
そう言って客席とは別方向へ歩き出す。
二人も後に続いた。
店の奥へ進むにつれて、徐々に客の声や店内音楽が遠ざかっていく。
やがて厨房の裏手らしき通路へ入り、一般客が立ち入る雰囲気ではない場所まで進むと、そこには控室へ続くと思われる扉が並んでいた。
しかし案内はそこで終わらない。
店員はさらに奥へ進み、一見すると倉庫か何かにしか見えない重厚な金属扉の前で足を止めた。
その扉は喫茶店の設備としては妙に物々しい。
分厚く、頑丈そうで、簡単に破れそうな代物ではなかった。
店員は腰のキーホルダーから鍵を取り出す。
金属音が静かに響く。
複数のロックを解除するような手順を経て、ようやく扉がゆっくりと開かれた。
その向こうには小さな空間があり、さらに奥へ続く別の扉が見えていた。
だが、その扉は今までの景色とあまりにも不釣り合いだった。
古い。
異様なほど古い。
木製で、表面には長年使われてきたような傷が刻まれ、金属製の取っ手も鈍く変色している。
新築同然の喫茶店の奥に存在しているとは思えないほど時代から取り残されたような扉だった。
店員はその前まで二人を案内すると、どこか気まずそうな顔で振り返った。
「こちらでお待ちください……」
言葉の最後が僅かに弱くなる。
まるで中にいる人物について何か言いたいことがあるのに、それを飲み込んだような声音だった。
そしてそれ以上は何も説明せず、軽く頭を下げると足早にその場を離れていった。
重い金属扉が再び閉まる音だけが静かに響き、残された笹木と森中の前には、その古めかしい木の扉だけがひっそりと佇んでいた。
古びた木の扉の向こうへ通されてから、どれほど時間が経ったのか分からなかった。
最初のうちは「そのうち来るやろ」と気楽に構えていた笹木だったが、十分が二十分になり、二十分が三十分を超えたあたりから流石に我慢の限界が近付き始めていたらしい。
椅子にだらしなく腰掛けたままスマートフォンを片手で操作し、完全に暇潰しのゲームへ没頭している。室内は古びた木造の空間で、喫茶店の表側とはまるで別世界のようだった。
壁には年季の入った棚が並び、窓枠もどこか古臭い。差し込む陽光は暖かいものの、その光の中で舞う埃がやけに目につき、長年人の出入りが少なかった場所であることを感じさせる。
笹木はゲーム画面を睨みながら盛大にため息を吐き、椅子の背にもたれかかるように身体を預けた。
「森中……何か持ってないか?」
その声には暇を持て余した人間特有の覇気のなさが滲んでいる。
「何かって?」
向かい側に座る森中が首を傾げる。
「漫画とか、本とか、お菓子とかや」
「持ってない」
即答だった。
笹木は不満そうに唇を尖らせながら再びスマホへ目を落とし、それから天井を見上げる。
「てか、ここ喫茶店なのに水も出えへんやん……」
客として訪れたなら最低限のサービスくらいあるだろうとでも言いたげな声だったが、森中は呆れたように肩を竦めた。
「客として来たわけじゃないんでしょ」
「それはそうやけどなぁ……」
反論しながらも否定できず、笹木は再びスマホを操作し始める。しかし集中力も長続きしないらしく、数分おきに姿勢を変えたり窓の外を眺めたりを繰り返していた。
窓の向こうからは烏の鳴き声が聞こえる。
やたらと元気な声だった。
それに混じって猫同士が喧嘩でもしているのか、不機嫌そうな鳴き声まで聞こえてくる。
古い家屋特有の軋む音も時折混じり、妙に生活感のある騒がしさが漂っていた。
それなのに肝心の待ち人だけは一向に現れない。
やがて笹木はスマホをポケットへ突っ込むと、堪え切れなくなったように立ち上がった。
「いつまで待たせるんや!」
古びた室内に声が響く。
「もう帰ろかな……」
本気半分、冗談半分といった様子でそう零しながら身体を伸ばした、その時だった。
不意にすぐ目の前から。
「そんなつれないこと言わないでよ~」
間延びした声が聞こえた。
あまりにも自然だった。
まるで最初からそこにいたかのような声だった。
笹木は反射的に顔を上げる。
森中も同時に視線を向ける。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
白髪。
褐色の肌。
そして何より目を引くのは、その身に纏ったグレーのセーラー服だった。
妙な存在感があり、その少女自身の雰囲気と合わさって強烈な印象を生み出している。
少女はどこか楽しそうに微笑みながらこちらを見ていた。
対して笹木の反応は早かった。
少女の顔より先に制服へ目が行き、次の瞬間には露骨なほど嫌そうな顔になる。
「うわっ……」
それは再会を喜ぶ声でも驚きの声でもなく、心の底から面倒なものを見た時にしか出ない種類の反応だった。
白髪の少女が悪びれた様子もなく微笑みながら立っている一方で、笹木の方はまるで天敵と遭遇したかのような顔になっており、その露骨すぎる反応を見た森中が少し困ったように苦笑した。
「……そんな顔しなくても」
流石に初対面の相手へ向ける表情ではないだろうと思ったのだが、その言葉を聞いた笹木はますます頭を抱えてしまう。
「ああ、最悪や!」
額を押さえながら天井を見上げる。
「なんでまた黒曜崎の女の相手せなあかんねん……!」
その声には本気の嫌気が滲んでいた。
森中が何か言おうとした瞬間、笹木は勢いよくこちらへ向き直ると両肩をがしっと掴み、そのまま真剣な顔でぐいっと顔を近付けてくる。
「言ったやろ森中!」
妙な迫力があった。
「あとこの高校の制服見て分からんかったか!?」
森中は少し仰け反る。
「え?」
「黒曜崎や!」
さらに肩を揺さぶる。
「うち何回も言ったやろ!」
「え、何を?」
「黒曜崎と関わったらロクなことないねん!!」
まるで人生の教訓を語る老人のような勢いだった。
森中はしばらくその必死な顔を見ていたが、やがて何か思い出したように「あ〜……」と小さく頷いた。
「あの二人のとこだもんね」
その言葉に笹木の顔がさらに曇る。
「せや!」
即座に同意する。
「せやねん!」
どれだけ嫌な思い出があるのか分からないが、全力で肯定していた。
しかし森中はそこで少し首を傾げた。
「でも私もあの二人と同じ小学校だよ?」
森中を見る。
考える。
また森中を見る。
そして何とも言えない微妙な表情になった。
「……いや」
言葉を探す。
「いや……そういうことじゃないねん!」
必死だった。
「うち……あそこで……」
そこまで言って言葉が止まる。
脳裏に何か嫌な記憶でも蘇ったのか、顔色が若干悪くなった。
「解剖されそうに……」
ぼそりと漏れる。
「え?」
「いや」
慌てて首を振る。
「とにかく嫌やねん!」
結局説明を放棄した。
本人も上手く言語化できないらしい。
ただ本能的に嫌だという感情だけが強く残っているようだった。
そのやり取りを聞いていた白髪の少女は特に気にした様子もなく、自分の着ているグレーのセーラー服を見下ろしながら袖を摘まむ。
「私は好きだけどな〜」
のんびりした声だった。
制服の襟を軽く触りながら、どこか満足そうに微笑む。
「これ可愛いし〜」
すると森中も「んー」と頷いた。
「ああ〜……」
納得したような顔になる。
「笹木さんセーラー服着たことないのかぁ」
何か理解した気になっている。
「私も中高セーラーだったからなぁ……」
懐かしそうに言う。
だが笹木はがっくりと肩を落とした。
話が全然伝わっていない。
というより、そもそも誰も自分の言いたいことを理解しようとしていない気がする。
「そういうことでもないねん……」
力なく呟く。
笹木はしばらく恨めしそうな顔で魔使を見ていたものの、いつまでも制服の話を引きずっていても仕方がないと思ったのか、大きく息を吐きながら近くの椅子へ腰を下ろした。