その日の晩、部屋の照明に照らされたテーブルの中央には、昼間マオから押しつけられるように渡された木箱が置かれていた。
昼間の古びた部屋で見た時には周囲の雰囲気に馴染んでいたせいか、それほど異質には感じなかったものの、こうして夜の室内へ持ち帰り、見慣れた家具や日用品の中にぽつんと置いてみると、その古さだけが妙に際立って見える。
表面には細かな傷や黒ずみがあり、木目の隙間には長い年月を経たような汚れまで入り込んでいるというのに、どこかの骨董品のような風情よりも、むしろ触れてはいけないものを一時的に預かってしまったような居心地の悪さを漂わせていた。
森中はそんな木箱をテーブル越しにしばらく眺めていたが、やがて頬杖をついたまま隣にいる笹木へ視線を向けると、「これの中、何が入ってると思う?」と尋ねた。
「そんなんお前……」
笹木は呆れたように返しながら木箱へ手を伸ばし、両側から慎重に掴んで持ち上げてみたものの、その瞬間、予想していた重さとのあまりの違いに僅かに眉をひそめた。
「……軽っ」
木箱そのものを含めて、何かを保管している容器とは思えないほど手応えがなく、少し力を入れればそのまま片手でも持ててしまいそうだった。
笹木は試しにほんの少しだけ箱を傾けようとしたものの、途中で思い直したように動きを止めた。
中で何かが転がる音でもすれば多少は安心できたのかもしれないが、余計なことをして妙なものが出てきても困るという考えが勝ったらしく、先ほどまでの気軽な態度を引っ込めると、壊れ物でも扱うようにそっと元の位置へ戻した。
「……なんやろな、これ」
笹木は木箱から手を離して腕を組み、改めて考え込むように目を細めた。
呪物と聞いて真っ先に思い浮かぶものなら、いくらでもある。
誰かの髪の毛を束ねたものや、古びた呪符、人形の一部、爪や歯のような身体の一部、それこそ名前の書かれた紙切れひとつでも、曰くさえ付けばそれらしいものにはなる。
けれど、笹木にはどうにも腑に落ちなかった。
アルカナという喫茶店を営んでいた花畑チャイカという人物について、よく知っているからこそ、髪の毛だの呪符だのという、いかにも呪物らしいものが素直に出てくるとは思えなかった。
そんな在来な答えで済むような物を、わざわざ店の奥に残し、今になって夜見が自分へ回してくるだろうかという疑問もある。
「髪の毛……呪符……その辺が普通やろうけどなぁ」
笹木は独り言のように呟きながら、木箱の表面へ視線を這わせた。
「でも、なんかちゃう気ぃするわ」
箱は何も答えず、ただテーブルの上に置かれているだけだった。それなのに眺めているほど、中身の軽さそのものに何か意味があるような気がしてくる。
物としては取るに足らないほど軽いのに、それをわざわざ保管し続けなければならなかった理由があるのだとすれば、重要なのは中に入っている物そのものではなく、それに結び付いた何かなのかもしれない。
誰かの名前なのか、記憶なのか、約束なのか、それともアルカナの元店主にしか分からない何かなのか。
笹木はそこまで考えたところで無意識に口元を歪め、テーブルへ肘をつきながら木箱を睨むように見つめた。ありきたりな呪物ならば、その方がどれだけ気楽だったか分からない。
けれど、この箱がわざわざ自分のところまで回ってきた以上、もっと別の意味を持っているのではないかという予感だけが、夜が深くなるにつれて妙に鮮明になっていった。
木箱を睨んだまま考え込んでいる笹木の隣で、森中もまた何か答えが浮かぶのを待つようにじっと箱を眺めていた。
しかし、やがて延々と外側だけ眺めながら中身を想像していること自体が馬鹿らしくなったのか、何の前触れもなく椅子から身を乗り出すと、ごく自然な仕草で木箱へ手を伸ばした。
「開けてみよ」
「……は?」
あまりにも平然とした声だったため、笹木は最初、その言葉の意味を理解するまで一瞬遅れた。
しかし森中の指が既に木箱の蓋へ掛かっているのを見た途端、先ほどまで頬杖をついていた身体を勢いよく起こし、「いや待て待て待て! お前、呪物やぞ!?」と慌てて手を伸ばしたものの、森中はそんな制止を気にする様子もなく、「だって中身分かんないんでしょ?」と当たり前のことを言うように返しながら、そのまま蓋を持ち上げてしまった。
「そういう問題ちゃうねん! もうちょいこう……調べてからとかあるやろ! 写真撮るとか、夜見に聞くとか――」
笹木が森中の腕を掴もうとした時には、もう遅かった。
乾いた木の擦れる音とともに、長い間閉ざされていたような蓋がゆっくりと持ち上がり、室内の明かりが箱の内側へ差し込んでいく。
笹木は何か飛び出してくるのではないかと反射的に身体を引き、森中の肩越しから恐る恐る中を覗き込んだが、そこで二人が目にしたものは、髪の毛でも呪符でもなかった。
何もなかった。
木箱の底には古びた木目がそのまま広がっているだけで、紙切れ一枚どころか埃の塊さえほとんど見当たらず、隠し底らしき不自然な継ぎ目も、何かが入っていたことを示すような跡も目につかない。
あれほど中身について考えていたことが馬鹿馬鹿しくなるほど、そこにはただ空っぽの空間だけが残されていた。
「…………」
笹木は伸ばしかけていた手を宙に浮かせたまま、しばらく瞬きすらせず木箱の中を見つめていた。
森中も流石に予想外だったのか、蓋を持ったまま僅かに眉を寄せ、箱の中へ顔を近付けるようにして隅々まで確かめている。
その横で笹木はようやく我に返ると、恐る恐る木箱へ顔を近付けながら、先ほど持ち上げた時に感じた異様な軽さを思い出していた。
中身が入っているにしては軽すぎると思ったのではない。この箱の中には何も入っていなかったのだ。
「……ないやん」
笹木の口から、ようやく掠れた声が漏れた。
森中は箱の底から目を離さないまま、静かに答える。
「ないね」
「いや……ないね、ちゃうやろ……」
翌日の昼下がり、住宅街から少し離れた公園の片隅にあるベンチを囲むようにして、笹木と森中、それから昨日とは変わらずグレーのセーラー服を着たマオの三人が集まっていた。
平日の公園には人影もそれほど多くなく、少し離れた遊具では幼い子供を連れた親子が遊んでいる程度で、頭上では青々とした木々の枝葉が風に揺れるたびに木漏れ日が細かく形を変えている。
そんな穏やかな昼の景色にはいささか不似合いな古びた木箱がベンチの上に置かれており、その蓋は既に開け放たれていたものの、昨日の晩に確認した時と同じように、中には古びたお守りどころか紙切れ一枚すら残されていなかった。
笹木は木箱を覗き込みながら何度目か分からないほど眉を寄せ、箱を少し傾けて底を確かめたり、側面を指先で軽く叩いてみたりしたあと、それでも何の手掛かりも得られなかったらしく、隣に立つ森中へ困り切った顔を向けた。
「なんか解らんか? ほんまに何も入ってないんか?」
単に目に見えないだけで、霊的な何かが残っているのではないかという含みを持たせた問いだったが、その意図を汲むより早く、向かい側から木箱を覗いていたマオがあっさりと口を挟んだ。
「そりゃ無いんならないでしょ」
「いや……その……」
笹木はすぐには言い返さず、マオと森中の顔を交互に見ながら言葉を探した。自分自身、これから口にしようとしていることが普通の人間に聞かせれば相当に胡散臭い話になることくらい分かっているため、いつもの調子で押し切ることもできず、頬を掻きながら少し声を落とす。
「信じてくれへんかもしれんが……」
「ああ……」
そこで森中はようやく笹木が何を期待しているのか理解したらしく、特に驚きもせず納得したように頷いた。
笹木が気にしているのは物理的に中身が存在するかどうかではなく、目に見えない何かが残っていないかということなのだろう。そう理解すると、森中は木箱から視線を上げ、まるで自分の職業でも説明するような気軽さでマオへ向き直った。
「私、魔法使いだからさ」
そう言いながら片手を持ち上げ、人差し指を立てると、その指先に淡い緑色の光が炎となって静かに揺らめき始めた。普通の火とは明らかに違う鮮やかな緑色をした炎は風が吹いても消える様子がなく、森中の指先を焦がすこともないまま、木漏れ日の中で妖しく揺れている。
その光景を目の当たりにしたマオは目を丸くしながら顔を近付けた。
「へぇ〜……」
好奇心に満ちた声を漏らし、角度を変えながら緑色の炎を眺めるマオに、今度は森中の方が不思議そうな顔になる。
昨日、この少女がいつの間にか目の前へ現れたことを思い返せば、これほど物珍しそうに魔法を眺める反応の方が意外だった。
「あなたもじゃないの?」
「え?」
「転移魔法でしょ、昨日の……。急に私たちの前に出てきたやつ」
森中は指先の炎を揺らしながら当然のように尋ねたが、マオは何を言われているのか分からないという顔で何度か瞬きをすると、すぐに両手を振って否定した。
「えっ、違う違う」
先ほどまで興味津々だった緑色の炎と森中の顔を交互に見ながら、少し困ったように眉を下げる。
「魔法とか……よく分からないし……」
その返答に森中は僅かに首を傾げたまま、指先で揺れる緑色の炎越しにマオを見つめていた。