森中の指先で揺らめいている緑色の炎を眺めていたマオは、しばらくすると昨日のことを思い返したらしく、それまで好奇心に輝いていた目を僅かに伏せた。
自分が二人の前へ唐突に現れた時に使った力について考えているのだろうが、そこには得意げな様子も、自分の能力を誇るような雰囲気もなく、むしろ触れられたくないものを思い出してしまったような居心地の悪さが滲んでいた。
「あんまり好きじゃないんだよね……あれ」
マオはそう呟くと、詳しく説明する気はないのか、それ以上は何も言わずに視線を木箱へ戻した。森中もその表情から何かを察したらしく追及せず、指先に灯していた緑色の炎を静かに消すと、マオも気持ちを切り替えるように一度だけ首を振った。
「で……その魔法で解析すれば何かあるかもってこと?」
マオはそう言いながらベンチの上の木箱へ手を伸ばし、両手で持ち上げると、底や側面を確かめるように角度を変えながらじっと目を凝らした。
いくら眺めても目に映るのは古びた木目と細かな傷ばかりで、隠し蓋らしき継ぎ目も、妙な染みも、文字や紋様の類も見当たらない。
「んー……」
マオは箱を顔の近くまで持ってきて片目を細め、光へ透かすような真似までしてみたものの、結局何も分からなかったらしく、少し不満そうな顔で森中へ差し出した。
今度は森中が受け取り、箱の内側へ指を滑らせたり、底を軽く押してみたりしながら念入りに確かめていく。霊的なものを感じ取ろうとしているのか、時折目を細めて手を止めることもあったが、やがて彼女も首を傾げた。
少なくとも今ここにある木箱そのものからは、すぐに異常だと判断できるようなものは見つけられないらしい。
その様子を隣から黙って見ていた笹木は、最初こそ二人が何かを見つけるのを待っていたものの、やがて腕を組んだまま木箱へ視線を落とし、別の方向から考えるように眉を寄せた。
「……なあ」
笹木は少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「仮にやで。ほんまに『呪物』なんてもんがあるとして……そいつって、どうやって人を呪うんや?」
森中が木箱を持ったまま笹木を見ると、笹木は自分の考えを整理するように顎へ手を当てた。呪物という言葉から連想するものは幾らでもあるものの、よく考えてみれば、その作用の仕組みはひどく曖昧だった。
「例えば、見ただけで死ぬとか、触っただけで死ぬとか、持ったやつを呪い殺すとか……そういうもんやったとするやろ?」
笹木は森中が持っている箱を指差しながら、徐々に考えを深めていく。
「でも、それやったら最初に持っとった本人はどうなんねん」
その問いに、マオも木箱へ目を向けた。
「自分で作ったんか、誰かから貰ったんか知らんけど、呪物として使う以上は本人も触るやろ。見ることもあるし、持ち運ぶこともある。せやのに『見たら死ぬ』『触ったら死ぬ』だけやったら、他人を呪う前に自分がトリガー踏んで終わりやん」
そこまで口にしたところで、笹木は自分の中に引っ掛かっていたものが少しずつ形になってきたらしく、腕を組み直しながら木箱をじっと見つめた。
「つまり、もし本当にそういうもんがあるなら……そいつは何かしらの方法で、『本人』と『それ以外』を見分けとるってことにならへんか?」
単に触れた人間へ無差別に作用するだけの物なら、所有者も標的も区別できない。それでも誰かが長期間保管し、必要な時だけ他人へ害を与えられるのだとすれば、そこには必ず何らかの条件が存在するはずだった。
持ち主の名前なのか、血なのか、意思なのか、それとも物そのものへ刻み込まれた別の何かなのかは分からないが、少なくとも「誰が触ったか」を区別する仕組みがなければ成立しない。
笹木はそこまで考えると、昨日まで単なる空箱にしか見えなかった木箱を、今度はまるで何かの装置でも観察するような目で見つめた。
そこまで考えを口にした笹木は、森中の手に収まっている木箱を眺めながら、ふと別の可能性に思い至ったように目を細めた。そもそも自分たちは最初から「これは呪物だ」と聞かされているからこそ、目の前にある古びた木箱や、昨日その中にあったはずのお守りを必要以上に不気味なものとして見ているのではないか。
そう考え始めると、先ほどまで何らかの法則を備えた装置のように思えていた木箱が、急に何の変哲もない古道具に見えてくる。
「……でもな、そもそもの話やけど」
笹木はベンチへ深く腰掛け直しながら、少し考えるように木箱を指差した。
「『呪い』って、ほんまにその物自体に何か入っとる必要あるんか?」
森中とマオが揃って笹木へ視線を向ける中、笹木は地面へ落ちた木漏れ日をぼんやり眺めながら、自分の中で形になり始めた考えをゆっくりと言葉へ変えていく。
「こういうのってさ、『昔これ持っとった人が全員死にました』とか、『夜中に声が聞こえます』とか、『持ち主が必ず不幸になります』とか……そういう『言い伝え』だけで、物には勝手に付加価値が宿ることもあるやろ」
笹木はそう言いながら森中の手元へ身体を寄せ、木箱の角を指先で軽く叩いた。乾いた音が返ってくるだけで、そこに怪異らしい反応は何もない。
「これだって、紐解いてみたらただの木や。どっかに生えとった樹木を切って、乾かして、板にして、誰かが箱の形に加工しただけ。元々は山か森に生えとった木の一部やろ?」
そう言われてしまえば身も蓋もない話だった。古びて黒ずんだ木目も、細かな傷も、長い年月を感じさせる色合いも、それ自体には何ら超常的な意味などない。単に古いから古く見えているだけであり、人間が加工した木材が時間とともに劣化した結果でしかないとも考えられる。
「でも、そこに誰かが『これは呪われた箱です』って一言付けるやろ?」
笹木はそこで少し声を低くし、わざと怪談でも語るような調子を作った。
「『昔、この箱を開けた人間が死んだ』『中に入ってたもんを見たら帰ってこられへん』『持ち帰ったやつが三日後に消えた』……とか言われたら、急に触りたくなくなるやん」
先ほど森中が何の躊躇もなく箱を触っていたことを思い出したのか、笹木は少しだけ嫌そうな顔をしながら続けた。
「そうなった瞬間、ただの古い木箱が『呪物』に早変わりや。見た目は一ミリも変わっとらんのにな」
マオは森中の手にある箱へ改めて視線を落とした。言われてみれば確かに、目の前にあるものから「呪物」という前提を取り払ってしまえば、骨董品店の片隅に置かれていても不思議ではない古い木箱に過ぎない。反対に、一度そこへ曰くを与えれば、傷の一本や黒い染みの一つまで何か意味のある痕跡に見えてしまう。
笹木はその様子を見ながら、自分の考えをさらに先へ進めた。
「プラセボ……とはちょっとちゃうかもしれんけど、似たようなもんや。人間って『これはこういうもんや』って信じ込んだら、その思い込みだけで身体まで引っ張られることあるやろ」
そこで笹木は掌を上へ向け、そこに小さな何かを載せるような仕草をした。
「例えば、ここにただの砂糖菓子があったとするやん。ほんまは食っても甘いだけで、毒なんか一滴も入っとらん。でも、それを渡す人間がめちゃくちゃ真剣な顔して、『これは猛毒や』『食ったら死ぬぞ』って言って、周りの人間まで『それは毒だ』って信じとったら……食った本人はどうなると思う?」
森中は黙ったまま笹木の話を聞き、マオも先ほどまでの軽い表情を少し引っ込めていた。
「食った瞬間から心臓バクバクして、息が苦しい気がして、手ぇ震えて、冷や汗出てきて……身体のちょっとした違和感まで全部『毒が回っとる』って解釈し始めるかもしれへん。ほんまは砂糖しか入っとらんのにな」
笹木は自分の掌を見つめながら、そこに存在しない砂糖菓子を転がすように指を動かした。
「それがどこまで人を追い込めるかは知らん。でも、本人が心の底から『これは自分を殺すものや』って信じたら、ただの砂糖菓子でも、そいつにとっては人を殺せるほど怖い『毒』になり得るんちゃうか」
そして再び木箱へ視線を戻す。
「呪いも同じかもしれへん。物が人間を呪っとるんやなくて、人間が『これは呪われとる』って信じることで、自分から呪いを完成させとるんかもしれん」
「せやから、この箱もな」
笹木は木箱を見ながら、少しだけ眉を寄せた。
「ほんまに呪われとるから怖いんか、それとも『呪物や』って聞かされたから怖く見えとるんか……そこから疑った方がええんちゃうかな」
笹木の説明が終わっても、マオはすぐには何も言わなかった。
公園を抜けていく風が白い髪を揺らし、頭上の枝葉が擦れ合う音や、少し離れた遊具で遊んでいる子供たちの声が三人の間へ流れ込んでくる中、マオはベンチの上に置かれた木箱をじっと見つめていた。
先ほどまでそこに浮かんでいた好奇心はいつの間にか消え失せており、代わりに何か納得できないものを呑み込んでいるような不機嫌さが表情に滲み始めていた。
「……つまり、何もなくても、そう言われるだけで呪物になっていくって言いたいの」
やがてマオが口にした声は、それまでの気軽な調子より僅かに低く、確認というよりも笹木の言葉の意味をもう一度確かめようとしているようだった。
しかし笹木はその微妙な変化に気付かなかったのか、あるいは気付いたところで自分の考えを曲げるほどのことでもないと思ったのか、木箱を眺めながら軽く肩を竦める。
「まあ、そんなもんやな」
その返事を聞いた途端、マオの表情がはっきりと曇った。何か言い返そうとするように一度だけ口を開きかけたものの、結局そこから言葉が出ることはなく、眉間に僅かに皺を寄せながら唇を結ぶと、笹木から視線を逸らして立ち上がった。
「……帰る」
「は?」
笹木が顔を上げた時には、マオはもう話を続ける気を失っていた。グレーのセーラー服の裾を整えることもなく、そのまま踵を返して公園の出口へ向かって歩き始める。
先ほどまで木箱について一緒に考えていた人間とは思えないほど唐突な変化に、笹木はしばらく呆気に取られてその背中を眺めていたが、やがて訳が分からないとでも言いたげに眉を寄せた。
「なんやこいつ……」
呆れ混じりにそう零した笹木とは対照的に、森中は遠ざかっていくマオの背中をじっと見つめていた。
その顔には笑いも呆れもなく、むしろ先ほどの短いやり取りを頭の中でもう一度辿っているような真剣さがあり、やがて何かに思い当たったように小さく息を呑む。
「もしかして、何か地雷踏んだのかも」
「地雷?」
笹木が怪訝そうに振り返った時には、森中はすでにベンチから離れようとしていた。
「ちょ、お前までどこ行くねん」
笹木は反射的にその腕を掴もうとしたものの、森中はするりと身をかわし、そのままマオの後を追うように駆け出してしまう。
「おい森中! 待てって! 別に怒らせるようなこと言ってへんやろ!」
後ろから飛んでくる笹木の声を聞いた森中は、走る速度を緩めないまま一度だけ振り返った。
その表情には、先ほどマオが不機嫌になった理由を完全に理解した確信があるわけではなかったが、それでも放っておきたくないという意思だけははっきりと浮かんでいた。
「私も!」
距離が開き始めた笹木に届くよう、森中はいつもより大きな声を上げる。
「高校の話とか、すっごく嫌だったから!」
その言葉だけを残すと、森中は再び前を向き、すでに公園の出口近くまで歩いていたマオを追って速度を上げていった。
取り残された笹木は伸ばしかけた手を下ろすことも忘れたまま、遠ざかっていく二人の背中を見つめるしかなかった。
公園から実家へ戻った笹木は、自室の机の前に座り込み、持ち帰った古びた木箱を目の前に置いたまま、先ほどから何度となく同じ場所を眺め続けていた。
窓から入り込む昼の光が箱の角を淡く照らしており、こうして見れば見るほど、それはどこにでもありそうな古い木箱にしか見えない。
表面に残された細かな傷も、黒ずんだ木目も、長い年月を経てきたことくらいしか教えてくれず、超常的な何かを感じさせるような特徴は見当たらなかった。
笹木は椅子の背にもたれかかりながら腕を組み、改めて木箱が何のために使われていたのかを考えてみた。
元々はアルカナの店主が呪物を管理するために使っていた場所から見つかったという話だったが、だからといって、この箱そのものが呪物であるとは限らない。単なる保管容器だった可能性もあるし、逆に箱の中にあったお守りより箱そのものに意味があった可能性だって捨てきれない。
「……なんやねん、これ」
答えの返ってこない木箱を睨みながら頬杖をついた笹木だったが、考えれば考えるほど頭に浮かんでくるのは箱のことだけではなく、昼間の森中とマオの反応だった。
森中が高校の話を嫌がったことについても、笹木にはいまひとつ理解できていなかった。確かに自分だって学生時代を模範的に過ごした覚えなどないし、テストで酷い点を取ったこともあれば、授業を最初から最後まで真面目に聞いていたわけでもない。
朝から学校へ行くことを面倒に思った日だっていくらでもあったし、「学校が好きだったか」と真正面から尋ねられれば、胸を張って好きだったと言えるほどの思い入れもない。
それでも、高校という言葉を出されたくらいで腹を立てたり、露骨に話題を避けたりするほどではなかった。
楽しくない日もあったし、嫌なこともあった。それでも卒業してしまえば、そういうものも含めて昔の出来事として処理されていくものだと、笹木はどこかで思っていた。
だからこそ今朝、昔の制服を見つけた時にも懐かしさの方が先に立ち、勢いのまま袖を通して鏡の前ではしゃぐことまでできたのだろう。
しかし森中は違った。
「高校の話とか、すっごく嫌だったから」と言い残してマオを追っていった時の表情を思い返してみても、冗談で言っていたようには見えない。
単純に学校がつまらなかったという程度なら、あそこまで真剣な顔をするものなのだろうかと考えてみるものの、結局笹木には答えが出なかった。
「……別にうちも学校大好き人間やったわけちゃうけどなぁ」
机に頬杖をつきながらぼやき、指先で木箱の角を軽く押す。
そして、もっと分からないのがマオだった。
自分は呪いというものについて一つの仮説を口にしただけで、マオ本人を否定したつもりも、馬鹿にしたつもりもない。「呪物」という存在が本当に超常的な力を持っているとは限らず、人間がそこへ与えた意味や言い伝えによって、ただの物が呪物として扱われるようになる場合もあるのではないかと考えただけだった。
それなのに、「何もなくても、そう言われるだけで呪物になっていくって言いたいの」と聞き返した時のマオは明らかに機嫌を損ねていた。
「何があかんかったんや……?」
笹木は木箱を見つめながら、昼間の会話を頭の中で順番に辿っていく。
結局、考え続けたところで木箱の正体も二人の機嫌も何ひとつ解決せず、笹木は椅子の背へ深く身体を預けると、天井を仰ぎながら盛大に息を吐いた。
「どいつもこいつもカルシウム足りてへんやろ……」
ぼやきながら再び視線を下ろすと、机の上には相変わらず空っぽの木箱が何食わぬ顔で置かれている。
呪物の正体を考えていたはずなのに、いつの間にか人間の方がよほど分からないという結論へ辿り着きそうになっていることにも気付かないまま、笹木は不満そうに頬を膨らませて木箱を見つめ続けていた。