その日の夜、笹木は自室の布団へ潜り込んでから随分と時間が経っているにもかかわらず、なかなか眠りにつくことができずにいた。実家へ帰ってきたことで昔の記憶を掘り返されたうえ、アルカナに残されていた木箱の謎や、森中とマオの不可解な反応まで頭の中へ居座っており、目を閉じるたびに昼間の会話が順番を変えながら浮かんでは消えていく。
枕元のスマートフォンで時刻を確認する気にもならず、笹木は布団を頭近くまで引き上げて寝返りを打ちながら、いい加減何も考えず眠ってしまおうと強引に意識を沈めようとしていた。
ところが、ようやく身体から余計な力が抜け始めた頃、笹木は閉じていた目を薄く開いた。
誰かがいる。
物音がしたわけではなく、声が聞こえたわけでもない。それでも、自分以外には誰もいないはずの部屋の中に、いつの間にかもう一人分の存在が増えているような、妙に明瞭な人の気配だけが感じられた。
笹木は布団の中で眉を寄せると、身体を起こして部屋の中を見回した。机の上には例の木箱が置かれており、クローゼットには今朝見つけた昔の服が掛かったままで、窓も扉も閉じている。薄暗い室内を見渡しても人影などなく、家具の位置にも変化はない。
「……気のせいか」
ここ数日で考えることが増えすぎたせいで、とうとう神経まで過敏になっているのかもしれない。そう思った笹木は再び枕へ頭を沈め、息を吐きながら肩の力を抜いた。
その時、視界の上端に何かが映った。
自分の頭上、布団のすぐ向こう側に、少女が座っていた。
夜の薄暗さへ溶け込みそうなグレーを基調とした髪が静かに垂れ、どこか古風で落ち着いた印象を漂わせる少女は、まるで最初からそこが自分の居場所だったかのように笹木の枕元へ腰を下ろしている。しかし、その身体には生きた人間特有の確かな存在感がなく、輪郭の向こう側へ部屋の暗がりが僅かに透けて見える姿は、どう取り繕っても生者のものではなかった。
それでも笹木は悲鳴を上げることも、布団から飛び退くこともしなかった。怪異だの幽霊だのに今さら驚いていられるほど平穏な人生を送ってきたわけでもなく、ただ眠りを邪魔されたことの方が気に障ったように少女を見上げると、眠たげに眉を寄せた。
「……なんやお前」
少女はその反応が少しおかしかったのか、静かな微笑を浮かべながら笹木を見下ろした。
「ダメですよ、笹木先輩。幽霊見ても話しかけたりしたら」
「いや、お前から出てきたんやろ……」
笹木は半ば呆れながら返したものの、そこで一つ引っ掛かるものを覚えた。今、この幽霊は自分を「笹木先輩」と呼んだ。
「……うちの名前、知ってるんか」
眠気の残っていた目が少しだけ鋭くなり、笹木は上体を起こして少女の顔を改めて見つめる。どこかで見たことがあるような気もするのに、記憶の中からすぐに名前を引き出せるほど明瞭な面影ではない。
「どっかで会ったか?」
笹木の問いを聞いた少女は、少し寂しそうでありながら、それ以上にからかうことを楽しんでいるような微笑を浮かべた。
「つれないですね」
少女は自分の手を持ち上げると、思い出を数えるように一本ずつ指を折り始める。
「昔たくさん遊んだじゃないですか……古い倉庫とか、学校の地下とか」
「……は?」
笹木の表情から眠気が消えた。
古い倉庫。
学校の地下。
その二つの言葉が、長い間触れることのなかった記憶の奥底へ引っ掛かった。忘れていたというより、わざわざ思い返す必要がなかった出来事が、少女の声をきっかけに暗闇の向こうからゆっくり浮かび上がってくる。
そんな笹木の変化を見て取った少女は、どこか楽しげに身体を寄せた。冷たい気配が頬のすぐ近くまで迫り、グレーの髪が笹木の視界の端を掠めると、少女は昔の秘密を二人だけで確かめ合うように、その耳元へ唇を近付けた。
「こっち……こっち……って……」
囁きが耳へ入り込んだ瞬間、笹木の記憶の中で何かが繋がった。
夜見にからかわれた時の校舎。
植物園の底へ自分を誘う声。
姿も分からない何かを追うようにして歩いた、昔の記憶。
笹木は弾かれたように少女から顔を離すと、それまで眠たげだった目を大きく見開いた。
「お前……あん時の……!」
目の前に座るグレーの髪の少女を、笹木は今度こそはっきりと見つめた。
現れた少女が、かつて自分を古い倉庫や学校の地下へ誘っていた存在なのだと気付いた笹木は、驚きこそしたものの、しばらくその顔を見つめているうちに喉が渇いたことを思い出したらしく、ふと机の方へ視線を向けた。
薄暗い部屋の中、昼間から何度眺めても結局正体の掴めなかった古びた木箱がそこに置かれており、アルカナの倉庫から見つかったというその箱と、昔から古い倉庫や学校の地下といった場所に現れていた目の前の幽霊が、どうしても無関係には思えなかった。
「じゃあやっぱり、あれお前のもんなんか?」
笹木は布団から片腕だけを出して木箱を指差しながら尋ねたが、少女は机の方へ一度だけ視線を向けると、肯定するでも否定するでもなく、相変わらず楽しそうな笑顔を浮かべた。
「どうだろうね〜」
笹木は露骨に眉をひそめたものの、少女は何を聞かれても面白そうに微笑んだままで、その表情を崩そうともしない。
夜中の薄暗い自室で幽霊に枕元を陣取られ、意味深な笑顔を向けられ続けるのは流石に気味が悪い。
「何が面白いんや……」
半ば呆れながら笹木が尋ねると、少女は僅かに首を傾けた。
「いや別に。ただ、幽霊は笑ってた方が怖いって言うから」
「それ、心霊写真の話やろ……」
笹木はすぐに突っ込みを返しながら、布団の中で身体の向きを変えて少女を見上げた。
「笑ってるやつが一番アカン、本人の身体が消えてるのはもっとアカンってな」
笹木は大して怖がる様子もなくそう続けたが、その言葉を聞いた少女は、むしろますます楽しそうに目を細めた。
「昔からずっと笑って撮ってもらってたよ〜」
「……は?」
何気ない一言に笹木の眉が僅かに動く。
少女はその反応を楽しむように笑みを崩さず、どこか歌うような調子で続けた。
「笹木さん、ちゃんと撮った写真は一回見た方がいいんじゃないかな〜」
笹木は数秒ほど少女の顔を見つめたものの、やがて怖がるどころか面倒臭そうに鼻を鳴らした。
「そんなんで脅しても無駄やで」
そう言いながら布団を押し退け、身体を起こす。眠ることはもう諦めたらしく、乱れた髪を手櫛で適当に整えながらベッドから降りると、少女へ背を向けて部屋の扉へ向かった。
「隠キャやからな」
妙なところで胸を張るように言い切る。
「自分の写真なんか撮らんし、見たりせえへんのや」
自分自身の写真を見返す習慣などないのだから、心霊写真がどうこうと言われたところで怖がりようもないとでも言いたげに、笹木はそのままドアノブへ手を伸ばし、部屋から出ようとした。
笹木がドアノブを捻って部屋から出ようとしたところで、背後から少女の声が追いかけるように届いた。
「そういえば、昔……私の友達がいて、名前はなんて言ったかな……」
何かを思い出そうとしているような、ひどく曖昧な声音だった。
笹木は一応足を止めたものの、振り返ってまで付き合うほど興味を惹かれなかったらしく、半分ほど開いた扉の向こうへ身体を出したまま、「お前の友達なんて知らんわ」と面倒そうに返した。
そもそも何年も前に少し関わった幽霊の交友関係など知るはずもなく、今さら昔話を聞かされたところでどうしろというのかと、そのまま特に気にも留めず扉を閉じた。
廊下へ出た笹木は、
「………」
「………」
扉を開く。
暗い部屋が広がっている。
ベッドも、机も、クローゼットも、そして机の上に置いた木箱も先ほどと変わらない。しかし、枕元に座っていたはずのグレーの髪の少女だけが、綺麗さっぱり姿を消していた。
笹木は部屋へ入り、左右を見回した。ベッドの陰を覗き込むような真似までしたものの、当然ながら誰もいない。
――昔からずっと笑って撮ってもらってたよ。
――ちゃんと撮った写真は一回見た方がいいんじゃないかな。
笹木は慌てて壁のスイッチを押した。
ぱっと室内が明るくなる。
先ほどまで暗闇に沈んでいた家具の輪郭が一斉に浮かび上がり、見慣れた自室へ戻ったことに僅かな安心を覚えたものの、それでも額には薄く冷や汗が浮かんでいた。
「……写真、写真……」
笹木は昔の物をしまっている棚へ向かい、奥からアルバムを引っ張り出すと、その場で床へ座り込んで勢いよくページを開いた。
家族と一緒に撮った写真、子供の頃の写真、学校行事で撮られた集合写真、友人たちと並んだ写真と、普段ならわざわざ見返そうとも思わない過去の自分が次々と現れる。
笹木は一枚ずつ目を凝らし、自分の後ろに知らない顔がないか、窓や鏡に妙な影が映っていないか、端に不自然な手や顔が覗いていないかまで確認していった。
途中からは自分でも何を本気になっているのかと思い始めたものの、一度気になってしまえば途中で止める方が怖く、ページを捲る手だけは止まらない。
しかし、何冊か確認してみても、あの少女の姿はどこにもなかった。
笑顔でこちらを見ている幽霊もいなければ、自分の身体の一部が消えているような写真もない。どれも普通の写真ばかりで、強いて気になるところを挙げるなら、写真に写る自分が今見ると少し恥ずかしいという程度だった。
「…………はぁぁ……」
笹木はようやく大きく息を吐き、全身から力が抜けたようにその場へ座り込んだ。いつの間にか本気で身構えていたことに気付き、額の汗を手の甲で拭いながらアルバムを閉じる。
何もない。
少なくとも、目につく限りでは何もなかった。
その事実に安堵した途端、今度は別の感情がじわじわと込み上げてきた。
「あいつ……!」
わざと意味深なことを言い残して消えたのではないかと思えば思うほど腹が立ち、笹木は閉じたアルバムを膝の上へ置いたまま眉間に皺を寄せた。
幽霊相手にまんまと乗せられて、夜中に冷や汗をかきながら昔の写真を片っ端から確認していた自分の姿まで思い返すと、先ほどまで感じていた恐怖はほとんど苛立ちへ変わっていた。
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その頃、森中は人気の少なくなった夜道を一人で歩きながら、片手に持ったスマートフォンを耳へ当てていた。昼間の熱気がようやく引き始めた住宅街には一定の間隔で街灯が並び、白っぽい光がアスファルトの上へ細長く落ちている。
時折脇を通り過ぎる車の走行音や、遠くから聞こえてくる電車の音を除けば辺りは静かなもので、森中は歩調を緩めることもなく、電話の向こうにいる夜見へ今日までに分かったことを順番に説明していた。
「それで、頼まれてた呪物のことなんだけど、笹木さんと色々考えてたの。そもそも呪物が本当にあるとして、どうやって持ち主と他人を見分けるのかとか、触っただけで作用するなら持ち主自身はどうして平気なのかとか……まあ、色々ね」
森中は横断歩道の手前で足を止め、赤信号を眺めながら話を続ける。
「その途中で笹木さんが、そもそも『呪い』って本当に物そのものに入ってる必要あるのかって言い出してさ。『言い伝え』だけで物には付加価値が宿る、それが毒だと言われれば、単なる砂糖菓子でも毒になる……みたいな説を考えてたんだけど」
「ふーん」
返ってきた夜見の声には、特に驚きも感心もなかった。森中が少しだけ眉を寄せるものの、夜見は構わず聞いているらしい。
「それを聞いた魔使さんが、なんか急に機嫌悪くしちゃって。『何もなくても、そう言われるだけで呪物になっていくって言いたいの』って確認してきて、笹木さんが肯定したら、そのまま帰っちゃった」
「ふーん」
「……興味なさそうだね」
「聞いてるよ?」
夜見は悪びれた様子もなくそう返すと、少し間を置いてから、話題を本来の目的へ戻すように問い掛けた。
「じゃあ、木箱の件はお手上げ?」
その言葉に森中は僅かに口元を緩めた。
「まさか」
ちょうど信号が青へ変わり、森中は再び歩き始める。
「手掛かりくらいはあったよ」
森中は昼間、自分の手で木箱を調べた時の感触を思い返していた。今は何も入っていないからこそ、かえって箱そのものに残された痕跡へ目を向けることができた。
「中には物がぶつかったり、多少無理に入れた形跡なんかもある。底とか内側の角とか、外側の経年劣化とはちょっと違う傷が残ってた」
森中は記憶の中にある箱の内側をなぞるように、空いている方の手の指先を動かした。
「だから、最初から空っぽだったってことはないと思う」
夜風が髪を揺らす中、森中は街灯の下を通り過ぎながら、今度は少し考え込むように声を落とした。
「少なくとも、昔は『何かが入ってた』。そして、それを出し入れしてたんじゃないの」
単に一度だけ何かを納めて封じた箱なら、内側に何度も物が当たったような傷が残るとは考えにくい。多少無理に押し込んだような痕跡まであるのなら、この木箱は何かを恒久的に封印するための器というより、必要に応じて何かを保管し、取り出し、また戻すために使われていた可能性がある。
森中はそう考えながら、暗い住宅街の先へ視線を向けたまま、電話の向こうにいる夜見へ自分が見つけた手掛かりを伝えていた。