マオはその間も写真から完全には視線を離していなかった。自分の母親が大切にしていた場所だと分かっていても、そこに並ぶ顔は自分にとって知らない人間ばかりであり、とりわけ夜見によく似た少女の写真には、どうしても生理的な気味の悪さを覚えてしまうらしい。
そんなマオの様子を横目で見ていた森中は、祭壇の端にあった物を元の位置へ戻すと、少しだけ間を置いてから静かに問い掛けた。
「嫌いなの? 先生の……お母さんのこと」
言いかけた途中で、自分にとっての呼び方とマオにとっての関係が違うことを思い出したらしく言い直しながら、森中は祭壇の前にしゃがんだままマオの方へ顔を向けた。
森中からそう尋ねられた瞬間、マオはすぐには答えなかった。祭壇に飾られた写真から目を逸らし、何かを押し殺すように唇を強く噛み締めると、それまで写真に向けていた嫌悪とは明らかに質の違う感情が表情へ浮かんでくる。森中にとって潮留あずさは今でも「先生」と呼ぶ人物であり、だからこそマオも最初は何かを言うことを躊躇っているようだったが、やがて抑え込んでいたものが耐え切れなくなったように顔を上げた。
「嫌いだよ」
その声には、迷いよりもずっと長い時間をかけて積み重なった拒絶が滲んでいた。
「だって僕、ママに虐待されたんだよ!」
部屋の静けさを引き裂くような怒鳴り声が響き、森中は何も言えないままマオを見つめた。祭壇に飾られた写真も、丁寧に並べられた供え物も、つい先ほどまで森中の中にあった懐かしさも、その一言を境にしてまるで違うものへ見え始めていた。
そして森中の脳裏には、かつて潮留あずさと初めて直接会った時の姿が蘇っていた。
テレビの中で見ていた頃の彼女とは、あまりにも違っていた。
記憶の中にある潮留はもっと生気に満ちていたはずなのに、実際に会った時には随分と衰えており、画面越しに知っていた人物と同じ人間なのかと戸惑ったほどだった。その頃には彼女が怪しげな施設へ出入りしているという嫌な噂も耳に入っていたが、森中は深く踏み込もうとはしなかった。
尊敬する相手について根拠の曖昧な噂を信じたくなかったという気持ちもあれば、本人の事情へ不用意に立ち入ることへの躊躇もあった。
けれど、今になって目の前の娘から「虐待された」という言葉を聞かされると、当時は互いに繋がっていなかった記憶が、ひどく嫌な形で一本の線になっていくように思えた。
「……そういうことか」
森中は小さく呟き、マオから目線を逸らした。
昨日の公園で、笹木は呪いについて一つの仮説を口にしていた。何の変哲もない物であっても、周囲から「呪われている」「曰く付きだ」と意味を与えられ、それを信じる人間が増えていけば、やがて本当に呪物のような価値を帯びていくのではないか。
毒ではない砂糖菓子ですら、「これは毒だ」と信じ込まされれば、人を害するものになり得るのではないか――笹木が言いたかったのは、あくまで呪いという概念の成り立ちについてだった。
だが、マオには違う意味に聞こえていたのかもしれない。
もし潮留の変貌や、あの怪しげな施設へ出入りしていた一件にマオ自身が深く関わっていたのなら、母親が変わっていく姿を最も近くで見ていたのは、おそらく娘である彼女だったはずだった。
昨日マオが「何もなくても、そう言われるだけで呪物になっていくって言いたいの」と念を押すように聞き返した時、森中には単に笹木の仮説が気に入らなかっただけに見えていたが、今ならその言葉に引っ掛かった理由を別の形で想像できる。
何もしていないのに、誰かから悪い意味を与えられる。
何もないところへ恐怖や忌避を貼り付けられ、それを繰り返されるうちに、まるで最初からそういう存在だったかのように扱われていく。
それが物ではなく、自分自身だったとしたら。
母親から虐待を受け、その母親が異様なものへ傾倒していく様子を間近で見続けていたマオにとっては、「母にとって自分は呪物だった」「自分が呪物だと思われていた」と感じていてもおかしくない。
実際に潮留が何を考えていたのか、森中にはまだ分からないし、ここで勝手に決めつけることもできなかったが、少なくとも昨日の笹木の言葉がマオ自身の記憶へ触れてしまった可能性はある。
森中は祭壇へ向き直り、そこに並ぶ写真や供え物を見つめた。自分にとっては師と仰いだ人間が大切にしていた場所であり、懐かしい記憶に繋がる場所でもある。
しかし、その同じ人物を母親として知るマオにとって、ここに残されているものが同じ意味を持つとは限らないのだと、今さらながら思い知らされる。
それからしばらくして、森中は一階の居間へ戻り、先ほど玄関まで迎えに来てくれた老婆と向かい合うようにして座っていた。
古びた洋風の家具に囲まれた居間には午後の柔らかな日差しが差し込み、使い込まれて艶の出た木製のテーブルや、少し色褪せたソファ、壁に掛けられた古い時計までもが、この家で積み重なってきた時間の長さを静かに物語っている。
その一角にはマオも座っていたが、先ほど二階で感情を露わにした時とは違って今はすっかり口を閉ざしており、老婆と森中の会話へ積極的に加わるつもりはないらしく、どこか所在なさそうに二人の話を聞いていた。
「もう何年になるかしらね……あずさがいなくなったのは」
老婆は昔を数えるように目を細めながら、膝の上で両手を重ねた。そこに浮かぶ表情は娘を懐かしんでいるだけのものではなく、長い年月を経ても答えの出なかった疑問や後悔まで混ざり込んでいるようだった。
「テレビに出て、結婚して……お兄ちゃんの方は赤ちゃんの時から取材を受けて」
森中は黙ってその話を聞いていた。テレビの中にいた頃の潮留あずさについては自分にも記憶があり、だからこそ、後に直接会った彼女の衰えた姿との落差が今になって鮮明に思い返される。
「それで……おかしくなっちゃったのかしらね」
老婆はそう言うと、何度考えても分からないというように深いため息を吐いた。
森中はすぐには次の質問を口にできなかった。先ほど二階でマオ本人から聞いた話が頭に残っているうえ、その本人が今はすぐ隣に座っている。
本人を前にして過去の虐待について家族へ尋ねることには流石に躊躇いがあり、森中は一度マオを横目で見てから、言葉を慎重に選ぶように老婆へ向き直った。
「あの……魔使さんのことなんですけど」
老婆は森中が何を尋ねたいのか察したのか、僅かに表情を曇らせた。
「この子、自分でボロボロで裸足でここまで来たのよ」
その一言に、森中の視線が老婆へ戻る。
「突然玄関のところにいてね。服も酷い状態で、足も汚れてて……『ママに虐待されてる、変な機械で痛いことされてる』って」
老婆の声音には、当時の光景を思い出すだけでも辛いという感情が滲んでいた。
森中はその説明を聞いていたが、「変な機械で痛いことをされていた」という言葉が耳へ入った瞬間、その表情が不自然なほど固まった。
呼吸が一瞬だけ止まり、膝の上に置いていた指先にも力が入る。
古めかしい研究室での記憶。
頭の奥に、忘れたつもりなど一度もなかった記憶が唐突に触れてくる。それが何であったのかを口にすることも、今この場で掘り返すこともしたくないのに、老婆の何気ない説明が記憶の扉を勝手に開こうとしてくるようで、森中は視線を落としたまま動けなくなった。
その変化に気付いたのはマオだった。
マオは何も言わなかったが、隣に座る森中へ静かに視線を向け、その横顔をしばらく見つめていた。
先ほど二階で自分の過去を聞いた時とは明らかに違う反応であり、単に同情している人間の顔ではないことくらいは分かったものの、それでも何があったのかを尋ねることはせず、ただ黙って様子を見ている。
森中はしばらくして小さく息を吸い、ゆっくり吐き出した。無意識に強く握っていた手を緩め、服の裾を軽く整えるようにしてから背筋を伸ばすと、先ほどまで浮かんでいた動揺を押し込めるように表情を整えた。
「……その後、先生は?」
老婆は答える代わりに、ゆっくりと首を横へ振った。
それだけで十分だった。
マオがこの家へ逃げてきたあと、潮留あずさがどうなったのか、少なくともこの家の人間にも分からないのだろう。森中は何か続けて尋ねようとして僅かに唇を開いたものの、結局言葉にはせず、老婆の表情を見つめてから静かに目を伏せた。
「……そうですか」
それ以上の言葉は出てこなかった。
森中は老婆の小さく首を横へ振る仕草を見つめたまま、それ以上何を尋ねればいいのか分からなくなり、膝の上で重ねた自分の手へ静かに視線を落とした。自分が最後に潮留あずさと会ったのは、それほど遠い昔のことではない。
少なくとも、今老婆から聞かされた、幼いマオが裸足でこの家まで逃げ込み、母親から虐待を受けていると訴えた一件よりは、ずっと後のことだったはずだった。
ならば、自分が最後に会ったあの時の先生は、もう既に娘を手放した後だったのだ。
森中はその事実を頭の中で反芻した途端、胸の奥を強く締め付けられるような感覚に襲われた。娘だけではないのかもしれない。かつて大切にしていた友人たちも、ここにいる母親も、それまで築いてきた生活も、テレビの中で多くの人間から知られていた自分自身さえも、何もかもを捨て去った後だったのではないか。
そう考えると、最後に会った時の衰え切った姿が、当時とはまるで違う意味を持って記憶の中へ蘇ってくる。
自分が師と仰いでいた女は、一体何のためにそこまでしたのだろう。
何を得たかったのか。
何から逃げたかったのか。
どうして、自分の娘にまでそんなことをしたのか。
森中にとって潮留あずさは、ただ名前を知っているだけの有名人ではなかった。自分が先生と呼び、その「おかしくなった」後に確かに何かを教わり、その背中を見ていた人だったからこそ、単純に切り捨てることもできない。
しかし、その理由を知りたいという気持ちを抱けば抱くほど、傍に座っている人々の存在が重く感じられた。
これは自分が踏み込んでいい話なのだろうか。
母と娘の間で起きたことを、かつての教え子だったというだけの自分が掘り返していいのだろうか。
何かできることがあるのならしたいという思いは確かにあるのに、実際に話を聞けば聞くほど、それは自分の好奇心や未練を満たすために、他人の家族の傷を勝手に覗き込んでいるだけなのではないかという気持ちまで湧いてくる。
森中は何も言えなかった。
老婆もまた娘のことを思っているのか、静かに俯いており、居間には古い時計が時を刻む音だけが規則正しく響いていた。
その沈黙を破ったのはマオだった。
マオはしばらく森中の横顔を見ていたが、やがて何かを決めたように僅かに視線を逸らし、老婆とは反対側へそっぽを向いたまま口を開いた。
「ごめん、おばあちゃん」
先ほどまでとは違い、その声音は妙に普段通りだった。
「私たち、お仕事受けてんだよね」
森中が僅かに顔を上げると、マオはそちらをまともに見ることもなく立ち上がり、いかにも今になって予定を思い出したというような調子で続けた。
「だからこんなところで油売って、早く行かないと」
家を出てからしばらくの間、森中とマオの間に会話らしい会話はなく、二人は夏の日差しに照らされた住宅街の道路を並んで歩いていた。
振り返ればまだ先ほどの家の屋根が見えていたものの、角をいくつか曲がり、古い住宅の並ぶ一帯から少しずつ離れていくにつれてその姿も見えなくなり、森中の胸に重く残っていた老婆の言葉も、遠ざかる家と一緒に少しだけ現実感を失っていくようだった。
それでも「ママに虐待されてる」「変な機械で痛いことされてる」という言葉だけは妙に鮮明に耳へ残っており、森中は隣を歩くマオへ何か声を掛けようとしては、結局何を言えばいいのか分からず口を閉ざしていた。
そんな森中の様子を気にしているのかいないのか、少し前を歩いていたマオは不意に歩調を緩めると、正面を向いたまま「森中さんもさ」と声を掛けた。
「人に聞かれたくない過去とかあるんでしょ」
唐突に核心へ触れられ、森中は僅かに目を見開いた。マオはそれでもこちらを見ず、道路脇の塀に落ちる木々の影を眺めながら、「確かに高校の話したとき、ヤバそうだったもんね」と、あの喫茶店の一室でのことを思い返すように続ける。
その言い方は随分と軽かったものの、森中には、それが先ほど居間で自分が固まってしまったことまで含めて言っているのだと分かった。
「えっ……」
森中は足を動かしたままマオの横顔を見つめ、それからようやく、この少女があの家から自分を連れ出した理由に思い至った。
数歩先へ進んだところで「なんかさ」と声を上げると、今度は歩きながら身体だけをこちらへ向けた。
「昔こうしたとかさ、昔こうだったとかさ」
白い髪を揺らしながら、わざと年寄りが昔話でもするような調子を作ってみせる。
「なんかおばさん臭くない?」
マオはもう前を向いて歩き出しており、やがて近くの停留所へバスが入ってくるのを見つけると、森中へ説明することもなくそのまま乗り込んでしまう。森中も「ちょっと、待ってよ」と後を追って乗車し、空いていた席へ二人で座ってから、窓の外へ流れ始めた住宅街を眺めているマオへ顔を向けた。
「どこ行くの?」
「どっか」
「どっかって何よ」
尋ねても、マオはそれ以上行き先を教えようとはしなかった。森中も仕方なく座席へ身体を預け、窓の外を眺めていると、バスは次第に住宅の密集した一帯を抜けていき、緑の多い郊外へと進んでいった。
その途中、マオが何気ない調子で再び口を開いた。
「笹木さんさ」
「ん?」
「呪物も元は木から切り取ったもので、大したことないって言ってたじゃん?」
「……ごめん」
小さく呟いた声には、昨日のことだけでなく、今日この家を訪ねて過去を掘り返したことへの申し訳なさまで混ざっていた。
しかし、マオは何も責めなかった。
代わりに森中の肩を軽く叩いた。
森中が顔を上げると、マオは窓の向こうを指差している。つられるようにそちらへ視線を向けた瞬間、森中の目の前からそれまで続いていた木々が途切れ、その向こうに広大な水面が姿を現した。
大きな湖。
陽光を受けた水面が遠くまできらきらと輝き、対岸は薄い霞の向こうにぼんやりと見えるほど離れている。バスが湖畔に沿う道路へ入ったことで、それまで住宅や木々に遮られていた景色が一気に開け、青い空と湖が視界の大半を占めていた。
森中が思わずその景色へ見入っていると、隣のマオは窓の外を見たまま、先ほどの話を続けた。
「それって、人間でも同じなのかなって思ったの」
森中はゆっくりとマオを見る。
湖畔近くの停留所でバスを降りると、二人の前には車窓から眺めていた時よりも遥かに大きな湖が広がっており、陽光を細かく反射する水面は対岸まで青白い光を散らし、岸辺に立つ木々からは夏の蝉の声が絶え間なく降り注いでいた。
森中はどうして自分が突然こんなところまで連れてこられたのかと半ば呆れながらマオの後について歩いていた。
当のマオはすっかり機嫌を取り戻しているようで、湖から吹いてくる風に白い髪とグレーのセーラー服の襟を揺らしながら、「人間も、昔に何かあったとか、昔にどんな思い出があったとか、そんなの全部取り除いたら、ただのタンパク質じゃん」と、先ほどバスの中で口にした疑問の続きを何でもないことのように話した。
森中はあまりにも情緒のない表現にどう反応したものか分からず、僅かに眉を寄せながらマオを見た。
「だってそうじゃない? この人は昔こういうことをしたとか、この人にはこういう思い出があるとか、誰かの娘だとか、誰かの友達だとか、そういうの全部なくしたら、残るのって身体だけでしょ」
そこまで言うと、マオは難しい話をすることに飽きたように手を下ろし、湖の方へ顔を向けた。森中もそれ以上は何も言わずに隣を歩いていたが、マオは少しして何か懐かしいことでも思い出したらしく、「思えば私、夜見と会った時もこうやって連れ出したんだよね」と話し始めた。
「夜見さんを?」
「うん。なんか色々あったっぽかったからさ。それで『綺麗なもの見れば嫌なことも忘れるでしょ』って話したら、本人も気に入ってくれてさ」
マオはそう言って湖を指差した。森中はきらきらと光る水面を眺めながら、随分と単純な理屈だと思ったものの、同時に、先ほどあの家から自分を半ば強引に連れ出した理由も結局は同じだったのだろうと気付いた。
嫌な過去を詳しく聞くでもなく、無理に慰めるでもなく、とにかくその場所から離して別の景色を見せるというのが、マオなりのやり方なのかもしれなかった。
やがてマオは湖岸に設けられた貸しボートの乗り場を見つけると、急にそちらへ進路を変えた。水際には何艘かの小さな二人乗りボートが並べられており、家族連れや若い男女が受付を済ませて湖へ出ていく姿も見える。
マオはその光景を見て楽しそうに笑うと、自分のセーラー服の襟を指先で摘まみながら森中を振り返った。
「セーラー服でボート乗ると、ちょっとそれっぽくね?」
その言葉に森中は苦笑しながらも結局その後についていき、二人で乗り場まで歩いて受付を済ませた。
料金を払い、係員に案内された二人乗りのボートへ足を踏み入れると、岸へ係留するために付けられていた重りを係員が外してくれたことで、船体が水面の揺れに合わせてゆっくりと岸から離れ始める。
森中は揺れる船体に少し身体を取られながら座席へ腰を落ち着け、マオも向かい側へ座ると、二人でそれぞれオールへ手を掛けた。
最初は左右の動きが噛み合わず、ボートが妙な方向へ首を振るたびにマオが笑い、森中が「そっち合わせてよ」と文句を言っていたものの、何度か漕いでいるうちに少しずつ呼吸が合い始め、岸辺から離れるにつれて周囲の人の声も遠ざかっていった。
湖面へ差し込む陽射しが細かな波に砕け、二人を乗せた小さなボートの周囲で無数の光となって揺れている中、マオは一度オールを動かす手を休めると、いつの間にか随分と遠くなった乗り場の方へ振り返った。
岸辺には先ほどまで自分たちのボートを繋ぎ止めていた重りが残されており、ここからではもう小さくしか見えないそれを眺めながら、マオは何かに気付いたように目を細めた。
「過去なんてあんなもんなんだよ」
森中もオールから手を離し、マオの視線を追うように岸の方を見た。あれほど近くにあった乗り場は少しずつ遠ざかり、重りそのものはもうほとんど景色の一部にしか見えなくなっている。マオはそんな岸辺を眺めたまま、先ほどまでより静かな声で続けた。
「きっと、ママはあの重りを外せなかったんだ」
その言葉を口にしても、マオの表情に先ほど家で見せたような怒りは浮かばなかった。許したわけでも、理解したわけでもないのだろう。ただ、自分なりに母親という人間を遠くから眺め直そうとしているように見えた。
「だから平気で今あるものを投げ捨てて、過去に自分を繋ぎ止めようとしたんだ。私のことも……あの近藤さんって人に似た夜見のことも傷だらけにして」
そこでマオはようやく岸から視線を外し、向かいに座る森中を見た。
「だから森中さんのことも、今こうして傷つけてる」
森中は何も答えられなかった。
ボートの縁へ視線を落とせば、澄んだ水が船体を撫でながら絶えず後方へ流れていく。オールを動かしていない間にも風と僅かな流れに押され、景色はゆっくりと形を変え続けており、その透明な水を眺めているうちに、森中は自分まで少しずつ洗い流されていくような不思議な感覚を覚えた。
今日、老婆――マオの祖母から聞いた言葉の一つ一つは辛かった。
自分の師が変わってしまっていたことも、マオが虐待されていたことも、怪しげな機械の話も、それらを聞いた瞬間に自分の中から引きずり出された記憶も、どれもできることなら触れたくないものだった。
それでも一言一句が胸に突き刺さるように感じられるのは、過去そのものが今も自分の中に居座っているからなのかもしれない。
昔のことなのだから忘れればいい、などという単純な話ではない。
忘れられないから過去なのではなく、忘れられないものを抱えたまま、それでも今の自分がどこへ向かうかという話なのだろう。
「そう」
森中の考えを見透かしたわけでもないだろうに、マオは小さくそう呟くと、遠くなった岸辺をもう一度振り返った。
「船を繋ぎ止めておく、重いもの。それを解かない限り……」
湖を渡る風が吹き抜け、白い髪とセーラー服の襟を揺らす。マオはそこで森中へ顔を戻すと、今度はいつものような明るさを僅かに取り戻して笑った。
「抜錨しなきゃ、未来には進めないんだよ」
その言葉を聞きながら、森中は祭壇に飾られていた一枚の写真を思い出していた。
近藤という少女。
名前しか知らないその少女は、確かに夜見とよく似ていた。
写真を見たマオ自身が「夜見が死んでるみたい」と嫌悪するほど似ているのだから、単なる他人の空似として片付けるにはどこか引っ掛かる。
そして、そんな夜見とマオは今では当たり前のように連絡を取り合い、ゲームをする約束を優先するほど親しい。
もしかすると夜見にも、自分が知らない事情があるのかもしれない。マオの母親と、祭壇の写真と、近藤という少女との間に何があったのかも、森中にはまだ分からなかった。
けれど今の二人は、そんなものとは別の場所で生きている。
一緒にゲームをして、くだらないことで笑い、連絡を取り合い、次に遊ぶ約束をする。それは傍から見れば何でもない日常でしかないのだろうが、過去に何があったとしても、その何でもない時間まで過去のために差し出す必要などないのかもしれない。
写真の中に残された誰かに似ているからでも、誰かの娘だからでも、過去に何をされた人間だからでもなく、今ここにいる人間同士として付き合っている。
そう考えると、森中には不意に、その当たり前がとても尊いものに思えた。
湖面では今も絶え間なく水が流れ、二人の乗ったボートは岸に残した重りから離れたまま、風に押されてゆっくりと先へ進み続けていた。