その日の晩、笹木は自室の机に向かい、ここ数日散々頭を悩ませてきた古びた木箱を目の前に置きながら、ノートパソコンに調査結果らしきものをまとめていた。
結局のところ、昼間まで森中とあれこれ推理したところで決定的な答えには辿り着けず、木箱は相変わらず何食わぬ顔で机の上に鎮座しているだけであり、笹木は開け放った空っぽの内部をもう一度覗き込んでから、「まあ……これ自体はよう分からんかったな」と、数日間付き合った割には随分とあっさりした結論を口にした。
すると笹木の肩越しから画面を覗き込んでいた森中が、呆れたように「依頼失敗してんじゃん」と指摘してきたため、笹木はむっとした顔で振り返り、「分からんもんは分からん。エセ霊能者じゃないんやから、それはそれでええねん」と返した。
分からないものを無理矢理それらしい怪談へ仕立て上げる方がよほど無責任であり、少なくとも自分たちが実際に確認できた範囲を報告すればいいのだと割り切ると、再びキーボードへ指を置いて文章を打ち込んでいく。
木箱の内側には、過去に何かを入れていたと考えられる傷や、物を多少無理に押し込んだような痕跡が存在していることから、特定の一つの呪物を恒久的に封じるための箱というより、変わる替わる複数の呪物を入れて保管し、その都度取り出して調べるようなケースとして使用されていた可能性がある。
ただし、かつて具体的に何が収められていたのか、昨日見たはずのお守りがなぜ消えたのか、そして箱そのものに何らかの異常な性質があるのかについては不明――笹木はその辺りまで打ち込むと、一度手を止めて考え、それから思い出したように文章を一行付け加えた。
――なお、当該木箱を自室で保管していた晩、室内に霊と思われる少女が出現した。
笹木は少し読み返したあと、これでええやろとばかりに送信ボタンを押した。メールが送られたのを確認して椅子の背へ身体を預けたところで、隣から妙に低い声が聞こえてくる。
「……出たって何よ」
森中は目を見開き、つい先ほど笹木が書き足した一文を指差していた。
「何って、霊や」
「いや、それは読めば分かるけど……いつ?」
「昨日の夜」
「なんで今まで言わなかったのよ!?」
森中が思わず声を上げても、笹木は大したことではないというように肩を竦め、「ホンマに出たんやて。ウチの夢じゃなければな」とさらりと答えた。
その温度差に森中はますます納得できない顔をしたが、笹木にとっては昔にも遭遇したことのある幽霊だったため、今さら大事件として騒ぐほどのことでもなかったらしい。
しかし、そこまで話したところで笹木はふと口を閉じた。
「……今もいるんかな」
「え?」
「この部屋で出たんやけど……」
笹木は椅子に座ったまま、何気なく部屋の中を見渡した。昨夜少女が座っていた枕元、クローゼットの隙間、机の下、閉じられた窓、そして二人の背後に広がる部屋の暗がりへ順番に視線を向けていく。その仕草につられて森中まで反射的に周囲を確認してしまい、何もいないと分かっていても背中にじわりと冷たい汗が滲んだ。
「ちょっと、やめてよ……」
森中は嫌そうに声を落としながら、それでも背後が気になるのか完全には振り返らず、横目だけで部屋の隅を窺っていた。
笹木は森中が妙に警戒しながら部屋の隅々へ視線を走らせているのを横目に、昨夜のことを思い返しているうちに、恐怖よりも先に少女へ対する苛立ちが蘇ってきたらしく、机の上に頬杖をつきながら露骨に眉間へ皺を寄せた。
写真を見た方がいいなどと散々意味深なことを言われ、その直後に何の説明もなく姿を消されたせいで、自分は夜中にわざわざ昔のアルバムを引っ張り出し、心霊写真が紛れ込んでいないか一枚ずつ確認する羽目になったのである。
「あいつ……マジで次会ったら除霊したるからな……」
幽霊相手とは思えないほど恨みの籠もった声で呟く笹木に、森中は先ほどから気になっていたことを尋ねるように、「どんな霊だったの?」と聞いた。
昨夜この部屋に現れたという以上、木箱と無関係とも言い切れず、単なる怪談として聞き流すには調査対象との距離が近すぎる。
笹木は「あー……」と記憶を辿るように天井へ視線を向けると、昨夜枕元に座っていた少女の姿を思い浮かべながら、苛立ちの残る声で答えた。
「なんかなぁ……変なやつやで。いきなり人の枕元に座っとるし、昔会ったやろとか言ってくるし、写真見ろとか意味深なこと言って消えよるし……」
「見た目は?」
「グレーの髪で、眼鏡っ子で、セーラー服着とったなぁ。あとは…」
笹木が何気なくそう言った、その瞬間だった。
森中の手からスマートフォンが滑り落ちた。
硬い床へぶつかった端末が乾いた音を立てて跳ね、画面を上にしたまま二人の足元で止まる。それまで幽霊の話を怖がっていた森中だったが、今の反応はそんな軽い怯え方とは明らかに違っていた。
顔から血の気が引き、目を見開いたまま笹木を凝視し、落としたスマートフォンを拾おうとすることさえ忘れている。
「……なんや?」
笹木も流石にその様子を訝しみ、頬杖を解いて森中へ身体を向けた。
森中は答えなかった。
いや、すぐには答えられなかった。
頭の中には昼間までいたあの家と、二階の部屋に設けられていた海外式の祭壇が鮮明に浮かんでいた。
供え物や小物の間に置かれていた古い写真、その中で二人並んで写っていた少女たち、そして自分がマオへ説明した名前が、笹木の口にした特徴と結び付いていく。
グレーの髪。
眼鏡。
セーラー服。
偶然だと片付けようとするには、その姿があまりにも記憶の中の少女と重なっていた。
「それ……」
ようやく森中の口から出た声は、本人が思っていた以上に震えていた。
笹木は怪訝そうに眉を寄せる。
「それがなんやねん」
森中はゆっくりと机の上の木箱へ目を向け、それから昨夜少女が現れたという笹木のベッド、その枕元へと視線を移していった。つい先ほどまで何もないと思っていた部屋の暗がりが、急に別の意味を持って見え始める。
「あの祭壇の……」
森中は昼間に見た写真を頭の中でもう一度確かめるように、恐る恐るその名を口にした。
「語部……紡……さん…?」
昼間に見た祭壇の写真と、笹木が昨夜この部屋で見たという少女の特徴があまりにも綺麗に重なってしまったことで、それまで単なる古道具に近いものとして扱っていた木箱まで急に異質なものへ見え始め、床へ落としたスマートフォンを拾うことさえ忘れたまま、開け放たれた箱の内部へ視線を吸い寄せられていた。
昨日までは何度覗き込んでも何も感じなかった空っぽの内部が、今は暗い穴のように思えて仕方がなく、もしこの箱と語部紡の霊に何らかの繋がりがあるのなら、自分たちは何も知らずにそれを持ち歩き、開け、触り、挙げ句の果てには寝室にまで置いていたことになる。
そんな恐怖に囚われながら木箱を見つめ続けていた森中だったが、やがて内側に刻まれたいくつもの傷のうち、比較的大きく削れている箇所へ目が止まった。
これまでは中に入れられていた何かがぶつかった跡、あるいは無理に物を押し込んだ際にできた傷だと考えていたのだが、室内の照明が斜めから当たったことで、その一片一片が、それぞれ周囲とは僅かに色合いが違っていることに気付いたのである。
「……あれ」
森中は恐る恐る木箱へ顔を近付けた。傷そのものが新しいというわけではない。
それでも、周囲の木材が経年によってくすんだ色をしているのに対して、削れた部分から覗く木の色には微妙な違いがあり、単純に表面が削れたから明るく見えているだけなのか、それとも別の理由があるのか、すぐには判断できなかった。
その時、森中の頭の中に、数日前に笹木が公園で口にした言葉が蘇った。
――これだって、紐解いてみたらただの木や。どっかに生えとった樹木を切って、乾かして、板にして、誰かが箱の形に加工しただけ。元々は山か森に生えとった木の一部やろ?
あの時は、呪いという付加価値を取り除いてしまえば木箱など所詮は加工された樹木に過ぎないという話だった。森中自身も、その前提に疑問を持たなかった。
だが、もしこれが、「そうでなかった」ら。
森中の表情から恐怖とは別の緊張が滲み始めた。
この木箱が、最初から一つの木箱として作られたものではなかったとしたら。
今は底板や側板として組み合わされている一片一片の木材が、それぞれ別の場所で、別の形で使われていたものだったとしたら。
そして、その一片一片が箱になるより前から、既に何らかの曰くを持った「呪物」だったとしたら。
森中は木箱の内側に残る傷を目で追った。
自分はこれまで、傷の向きも深さもろくに疑わず、「中に何かが入っていた証拠」だと思い込んでいた。しかし、その傷が箱になってから付いたものだという保証など、どこにもない。
木箱の中で物が擦れた跡なのではなく、板になる以前、全く別の用途で使われていた時代に付いた傷だったとすれば、それを後から切り出し、寄せ集めて箱の形へ組み直した可能性だって理屈の上では存在する。
その考えに辿り着いた瞬間、森中の頭に一つの言葉が浮かんだ。
――蠱毒。
複数の毒を持つものを一つの器へ集め、互いに食い合わせ、最後に残ったものへ毒を集約するという、古い呪術の話。
もし、それを生き物ではなく「呪物」でやったら。
一つの器へ呪物を集めるのではない。
それぞれ異なる曰くを持った物を壊し、その一部を切り取り、それら自体を材料として一つの物へ組み上げる。人間が「呪われている」と信じ、恐れ、物語を与えてきた複数の品を寄せ集めて、一つの新しい器を作ったなら、それは一体何になるのだろうか。
もしこの品が、そんな使われ方をしていたら。
「…………」
森中はそこまで考えたところで、背筋を這い上がってきた寒気に耐えられなくなったように目を閉じ、ゆっくりと首を横に振った。
(バカなこと考えるのはよそう……)
そもそも根拠がない。傷の色が少し違って見えただけであり、この木箱が複数の呪物から作られている証拠など一つも見つかっていない。語部紡の霊が現れたことと木箱の関係すら、まだ確定したわけではないのだ。
森中は浮かんだ考えを無理矢理胸の奥へ押し込み、それ以上先へ進めないようにした。