朝の陽が差し込む台所には、焼きたてのトーストの匂いと味噌汁の湯気が漂っていた。
ブレザーの制服に袖を通した赤羽葉子は、食卓で湯気の立つお味噌汁を啜りながら、
昨夜とは打って変わったように落ち着いた表情で朝食を口にしている。
パタパタとキッチンで動いていた母親が、ふと手を止めて赤羽の背を見ながら話しかける。
「こないだ……泣きながらご飯食べてたけど……」
少しだけ声に迷いがあり、
それでも気になっていたことを聞かずにはいられないようだった。
「大丈夫……?嫌なことでもあった……?」
赤羽は一瞬だけ箸の動きを止めたが、すぐに小さく笑って首を振る。
「うん。もう大丈夫。」
顔を上げて母親の目を見て、どこか吹っ切れたような、晴れやかな声で続ける。
「ごめんね、心配かけて。」
その言葉に、母親は少し驚いたような顔をしてから、
安心したように笑みを浮かべた。
「そう……良かった……」
気まずさを紛らわすように、母親は流れるような手つきでお饅頭の箱を取り出してくる。
「そういえば、これ食べる?」
白地に紅い花柄の包みに包まれたお饅頭を見せながら、ぽつりと呟く。
「なんか、うちに仏壇があるからって、お隣さんがお供え物くれたのよ……
やっぱり……こういうことになるとなんだか申し訳ないから、これ処分しようかしらね……」
赤羽はその言葉を聞いても、特に表情を変えず、
お味噌汁を飲み終えたあと、お饅頭の包みを開けながら答える。
「まあ、そうかもね〜。でも、おいしいならいいじゃん」
ひと口、お饅頭をかじる。
ほんのり甘くて、しっとりしたあんこが舌の上に広がる。
その味わいは、昨日までの出来事がまるで夢だったかのように、
平凡で、穏やかな日常の味だった。
その横顔に、母親はもう何も言わず、
少しだけ安心したようにキッチンに戻っていった。
家を出て門を閉め、いつものように制服の裾を直して歩き始めた。
吐く息に白さはなくなっていたが、空気にはまだ冬の冷たさが微かに残っている。
通学路の先――
東の空からは、朝日がビルの隙間を縫って差し込み、
葉子のブレザーの肩にやさしく触れる。
街の音は穏やかだった。
遠くでバイクの音がして、近くでは小学生の笑い声がする。
少し先には制服姿の生徒たちがちらほら見えはじめていた。
その日常の音に包まれながら、
赤羽は静かに目を伏せ、胸の奥に問いかけるように、ゆっくりと歩く。
(たとえ――
たとえこの命が、「救われた命」だったとしても。)
(あるいは、「呼び戻された命」だったとしても。)
(……それでも私は――)
地に足をつけて。
一歩ずつ、今日を歩く。
逃げたくなる日があってもいい。
不安で泣きたくなる夜があっても、きっと大丈夫だと。
そう自分に言い聞かせるように、赤羽は靴音を鳴らして歩く。
朝の光が顔にかかると、葉子は一度立ち止まり、
空を見上げた。
透き通った空に、白い雲が流れていく。
それを見て、葉子は小さく息をつき――
「……今日も、行くかぁ」
と、どこか照れくさそうに笑いながら、また歩き出した。
その歩幅は、昨日よりも少しだけ、力強かった。
同じ時刻。
朝の光が高層ビルのガラス越しに差し込む中――
椎名唯華は、事務所のパソコンの前に座っていた。
首には「店長代理」と書かれたプラスチックのカード。
そのカードと同じ文字が、隣のソファに置かれたパンダのぬいぐるみにもぶら下がっている。
「んー……」
椎名は背筋を伸ばし、モニターに映る画面をしばらく見つめた後、
キーボードをカタカタと叩き始める。
件名:件のご依頼について
宛先:依頼者のメールアドレス
先日の暗号について、ご報告します。
当方のバイトスタッフが現場を調査した際、橋に近づくだけで体調に異常を来したとの報告があります。
また、近隣の施設職員によると、「何年か前に“何か”があった場所」とのこと。
現場には現在も不穏な気配が残っており、当事務所では調査を継続する方針です。
以上、進展があればまたご報告いたします。
宜しくお願いいたします。
「……っと。送信っと」
Enterキーを軽く押すと、画面に小さな送信音が鳴る。
椎名は肩を回しながら、くつろぐように椅子へ深くもたれかかる。
「ま…野次馬君にはこんなもんでええか」
そして横目で、隣のぬいぐるみを見る。
「事実陳列罪やなぁ……ばねさん、体調崩してたのはほんまやし……
“何かあった”も、“橋がやばい”も、否定してへんしな」
ぬいぐるみは何も答えない。
ただ、ぽすんと座ったまま、朝の光に照らされている。
「うちの文章力、ええ味出してるやろ?」
と、誰にともなく笑いかけ、コーヒーを啜る。
事務所の中。
椎名唯華は、パンダのぬいぐるみを傍らに、背もたれに深く沈み込んでいた。
画面のカーソルは点滅を続けたまま、椎名は一向にキーボードへと手を伸ばさない。
ふと、昨晩の光景が脳裏に蘇る。
──引き裂かれるような痛み。
──大男が誇った朴家の秘術を、素人の赤羽が無傷で耐え切ったこと。
──さらに、その術を再現し、返したこと。
椎名の目が、鋭くモニターの端を見つめる。
それに続いて思い出す。
赤羽が言っていた、「死にたくない」と願ったあの瞬間の記憶。
そして、「異形の怪物と契約した」と語った、曖昧な過去。
──だが、それはおかしい。
たとえ死の間際に契約をしたとしても、
それだけで死んだ人間が蘇るなどという理屈が通るわけがない。
椎名は手元のマグカップを持ち上げかけて、途中で止める。
それは、かつて見た新聞の見出しのことが頭を過ったからだ。
「赤羽葉子、死亡確認」
「下半身と首部が別の場所で発見」
…死んでるんや、あいつは。確実に。証拠もある。
それでも今、赤羽葉子は「生きている」。
意思を持ち、斧を振るい、霊術すら操っている。
霊能力を超えた、異質な“何か”。
椎名は、ぽつりと呟いた。
「……あいつ、なんて言っとったかなぁ……」
手元の記録メモをめくりながら、
赤羽のあの時の言葉がゆっくりと、頭の中に浮かび上がってくる。
「死にたくないって願ったら……聞こえたんだよ、“その願い、叶えよう”って」
「異形の怪物がいた。そいつが“寿命を貰う”って言った」
椎名は眉をひそめ、ゆっくりと呼吸を整える。
契約を持ちかけたのが怪物なら。
そして、命と引き換えに霊能力を渡し、赤羽を“再構築”したのもそいつなら。
椎名は顔をしかめて、首を横に振った。
再構築やない。もっと根本的な……
そこで言葉が止まる。
ふと、恐ろしく単純で――しかし致命的な仮説が、椎名の頭に灯った。
「……もしかして――」
「ばねさんそのものが、契約した“そいつ”なんやないか?」
思わず背筋が冷たくなる。
“契約して力を得た”んやない。
そいつこそが、「ばねさん」。
亡き少女に成り代わった霊能力者「赤羽葉子」その人。
赤羽葉子の“魂”が助けられたんじゃない。
赤羽葉子の“命”が戻ったんじゃない。
──その赫い死神こそが、あの女子高生。
椎名の手が、震える。
「……えげつないこと、考えてもうたな」
椎名は小さく吐き出す。
揺れる朝の光の中。
椎名は黙ったまま、再び背もたれに沈み込んでいく。
ぬいぐるみのパンダだけが、何も知らぬ顔で、
「店長代理」の札をぶら下げて隣に座っていた。