第一章 第一話:カフェオレ
廃ビルの外れ、人目のつかない裏路地。
人気のないその場所に、夜の帳が深く降りていた。
月明かりさえ遮られるような暗がりの中、
ただ一つ、人工の明かりが鉄のような光を地面に落としている。
その光の中に、先日の大男の亡骸が転がっていた。
首から上は無く、斬られた断面からはまだ温かさの残る血がじわじわと染み出し、
コンクリートに濃い影を作っている。
そのすぐ傍――
まるで何もなかったかのように、
一人の少女が腰を下ろしていた。
桃色の髪は夜でも仄かに光を放ち、
毒々しいほどに澄んだ青色の瞳が、静かに夜を見つめている。
その手には、近未来的な質感を持つ剣。
メタリックで、どこか生物のような脈動を感じさせるその刃には、
返り血が鈍くこびりついていた。
少女は淡々と、血を拭おうともせずに剣を立てかけ、
右耳に装着した通信機へと手を伸ばす。
「……うん。わかった。もう戻るよ。」
無線からの何かの指示に、少女は涼しげな声で応じると、
まるで日常の散歩から帰るかのように立ち上がった。
剣を背に収め、
血の跡を踏むことなく路地の闇へと消えていくその背には、
どこか冷たく、異質な気配が残されていた。
風が一度、吹き抜ける。
血の匂いを運んで、夜の底へと消えていった。
駅前の路地を少し外れた場所にある、年季の入った広めの蕎麦屋。
木の扉を開けると、出汁の香りがふわっと漂い、静かな夜の空気をほんの少しだけ暖かくしてくれる。
その一角。
黒いフリルのスカートに、フードの大きなパンダ柄のパーカーを着た笹木咲が、カウンター席に座っていた。
前には湯気の立つうどん、そして横には二つの稲荷寿司。笹木は箸を動かしながら、不満げに眉を寄せる。
「……ちょっと、おじさん! うちのエビ、一つ足りへんやんけ!」
声を上げると、カウンターの向こうから店主が顔を出す。白髪まじりの頭に手ぬぐい、年配だがどこか気の抜けた表情。
「昨日、一つサービスしただろ。今日はそれで我慢しな」
その声に、笹木は目を見開いて、
「はぁぁ!? そんなん……エビ前払いされただけやんけ…!」
と文句を言うも、それ以上食い下がるでもなく、ふてくされた様子でうどんをすする。
ずるずるっ、と。
店内には数人のサラリーマンがぽつぽつといるだけで、テレビの音と湯が沸く音が静かに重なる。
外では、終電に急ぐ人たちの足音がリズムのように響いていた。
「……まあ、エビ一つで喧嘩すんのも、アホらしいしな……」
そうぼやいて、笹木はまた一口、うどんを啜った。
うどんのつゆはちょっと濃いめ。けど、それが妙に美味く感じる、そんな夜だった。
蕎麦屋の戸をガラガラと開けて出ると、夜の冷たい風がフードを揺らす。
笹木は小さく「さみぃ…」と肩をすくめながら、スマホを確認する。
「……ん? 着信……?」
液晶には、森中花咲からの不在着信が3件。メッセージは未読が5。
「なんやねん……人が楽しく夕飯食ってる時に……」
不満げに口を尖らせつつも、しぶしぶ発信ボタンを押す。数コールの後――
『何回電話させんのよ!!』
開口一番、怒鳴り声が飛んでくる。思わずスマホを少し離す笹木。
『あなたがいない間に事件起きて終わったんですけど!!』
「……うち……ゲームで忙しかってん……」
と苦し紛れの言い訳を返す笹木だったが、
『私、誘拐されて死にかけたんですけど!?
マジで店長、何やってたの!?』
怒鳴り声に、さすがの笹木も「あ……マジか……」と声を詰まらせる。
目を伏せて、「そりゃ……悪かったな……」と少し反省の色を見せると、
しばらくの沈黙の後、森中はトーンを落として、
『今回、ばねちゃん大活躍だったからね。お給料、多めにあげなさいよ。
……誰でも受け入れられて、人の気持ちになれるのが店長の良いとこなんだから』
その言葉に、笹木はスマホを耳に当てたまま、少しだけ笑みを浮かべる。
「せやろ〜? うちは誰でも大歓迎やからな〜?」
すぐさま返ってきた声は、呆れと怒気が入り混じったものだった。
『そうやってすぐに付け上がるのが店長の悪いとこ!!』
プツンッ
一方的に通話が切れ、通話終了の画面がスマホに浮かぶ。
「……なんやねん。褒めてくれたと思ったら、すぐ落とすんやから……」
そうぼやきながらも、笹木の表情はどこか嬉しそうだった。
翌日。
午後の陽射しが少しずつ傾き始めた放課後、公園のベンチには制服姿の女子高生二人。
柔らかく揺れる木々の隙間から射し込む光が、穏やかな日常を照らしていた。
赤羽葉子は、手元のコンビニのカフェオレのストローを軽く咥えながら、隣に座る友人の話に耳を傾けていた。
「うん……うん、そっか……それって、めっちゃ大変だったね」
と、真剣な表情で頷きながら、相槌も忘れずに。
友人は少し湿った声で、最近の悩みを語っていた。
人間関係のこと、進路のこと、将来のこと――。
重すぎず、それでも赤羽にはちゃんと伝わってくる、その“素直さ”に、彼女はしっかりと向き合っていた。
でも――。
……ああ
気づけば、友人の横顔を見つめる目が、ある一点に吸い寄せられていた。
綺麗にカーブを描く耳。
整った輪郭、柔らかそうな感触。
わずかに揺れるアクセサリーの下で、そこだけが妙に光を集めているように見える。
あの耳に……カフェオレ、入れてみたいなぁ
思考がふわりと逸れる。
目の前の悩みごとは、まだ途切れることなく続いているのに、赤羽の脳内だけが別の世界を歩き始めていた。
ちゃんと入るかな……でも、体温でちょっと温まったら、美味しくなるかも……
ていうか、耳って、飲み物入れられたら、どんな反応すんだろ。
ストローを回す手が一瞬止まる。
「……ばねちゃん?」
呼ばれて、赤羽ははっと我に返る。
「え? あっ、ごめんごめん、聞いてた聞いてた! 続きどうぞ〜!」
と笑顔でごまかすが、その目の奥にはまだうっすらと「耳カフェオレ」の名残が潜んでいた。
日常は戻ってきたが、赤羽葉子の思考だけは、どこか現実の外側に少しだけ踏み出していた。
赤羽は、友人の話をひと通り聞いたあと、コンビニのカフェオレをそっとベンチに置き、ゆっくりと口を開いた。
「うーん……でもさ、それって、りりむとせっちゃんがちゃんと我慢してたから、今までうまくやれてたってことでしょ? それにさ、無理に仲良くしようって思わなくてもいいんだよ。ちゃんと距離とって、自分が疲れない範囲でやりとりすればいいと思うな」
その言葉に、友人は目を丸くして、それからふわっと笑う。
「ありがとう! ばねちゃん、ほんと、カウンセラーさんみたいだよ!」
その言葉に、赤羽は「えへへ〜」と照れ笑いを浮かべて頭をかく。
けれど――。
……耳にカフェオレ……
さっきまで真剣だったはずの思考の隅っこに、ふいにそんなワードがひょこっと浮かぶ。
あの、綺麗に湾曲した耳。
ピアスがわずかに揺れるたびに、そこへカフェオレが静かに注がれていくという、なんとも常軌を逸した光景が脳内に蘇る。
やば……今、完全にふざけてる……
赤羽は一瞬、目線をそらして内心で苦笑いを浮かべる。
人の悩みにちゃんと答えた後に考えることじゃないでしょ、これ……
自分でもバカらしいと思いながらも、その妄想が完全に頭から離れてくれず、ほんのり罪悪感が芽生えてくる。
それでも――
「ありがとうね、ばねちゃん!」
という友人の笑顔に、赤羽はしっかりと応えるようにうなずき返す。
心の中で謝りながら、赤羽はストローをチュッと吸って、カフェオレを一口飲んだ。
ほんのり甘くて、少しだけ、現実に引き戻される味だった。
蛍光灯の静かな明かりが休憩室の天井から降りてくる。
事務所の脇にある小さな休憩室、その角の机で赤羽はカフェオレの紙パックを指先でくるくると回しながら、分厚い問題集を開いていた。
ページの隅には細かな文字で書き込みがされ、真面目にペンを走らせている。
椎名はその様子を通りがかりにちらりと見て、ため息交じりに口を開いた。
「……勉強なら、他でせえや。うちは予備校ちゃうで」
赤羽は、ペンを止めて顔だけ上げる。
「他だとなんだか落ち着かないんですよ…」と気まずそうに笑いながら答えた。
そしてページをめくりながら、ポツリと呟く。
「どうせリアル二度目の人生なら、せめて良い所行こうと思って」
その言葉に、椎名は一瞬だけ立ち止まる。
赤羽の横顔を見て、どこか真剣なその目に何も言わず、ただ「ふーん」とだけ呟いて、懐から財布やら印鑑やら、ありとあらゆる日常品を着物の内側に滑らせて準備を整えはじめる。
そして、暖簾をくぐる前に、ふと後ろを振り返って一言。
「ほな、そんなら戸締りよろしくな」
その一言に、赤羽は一瞬ピクリと反応して、勢いよく椅子を引いた。
「どこ行くんですか!?」
ペンを置いて立ち上がり、慌てて聞く。
椎名は振り返りながら、いつものようにニヤニヤと笑って、
「今日は店長の奢りやからな……」とだけ言って、赤羽の目を見つめる。
赤羽は最初きょとんとしていたが、数秒後にその意味を理解して、ぱぁっと顔を明るくし、
「行きますっ!!」と弾んだ声で答え、カフェオレを机に置いて椎名のあとを元気よく追いかけていった。
ジューッと鉄板の上で肉が焼ける音が響く。
煙が立ちのぼり、タレの香ばしい匂いが鼻をくすぐる中、テーブルにはすでに何皿もの肉が積み上がっていた。
「店員さん、上カルビとハラミとミノ追加で」
椎名が涼しい顔で注文を重ねる。
その横で、笹木は顔を引きつらせながら、伝票の数字をちらりと見て、乾いた声を漏らした。
「ちょっと……もうちょっと遠慮してくれてもええんやけど……」
「え?聞こえんな」
椎名はわざとらしく耳に手を当てて笑う。
赤羽は黙々と焼き上がった肉を頬張っていたが、そんな笹木に気づき、箸を止めると申し訳なさそうに「すみません…」と小声で言う。
笹木は慌てて笑顔を作って手を振る。
「ば、ばねちゃんはたくさん食べてええんやで……!うちは…うちが払うんやから…っ」
その苦笑いを見て、森中は呆れたように溜息をつきつつも黙ってレモンサワーを飲み続けていた。
椎名はそんなやりとりを見ながら、タレをたっぷりつけたロースを頬張って満足げに一言。
「てか、ばねさんも別に大学受験なんかせんでええねん。うちみたいに適当に働いてりゃええやろ?」
「せやせや。みんなで一緒にニートやろうや、楽しいで?」
笹木もつられるように笑うが、どこか目が泳いでいる。
その横で、森中は突如として顔をしかめて、箸をテーブルに置いた。
「ちょっと、やめてくれない?」
いつになくピリついた声に一同が静かになる。
「私はちゃんと大学出てるから」
グラスの水をひと口飲んで、静かに言い切る。
一瞬沈黙が流れたが、椎名は「せやっけ?」ととぼけてみせると、赤羽が小さく笑いを漏らし、テーブルの空気がほんの少しだけ和らぐ。
「ちょっとやめや、椎名!」
笹木が笑いながら、焼けたタンをひっくり返す手を止め、肩を寄せて小声で囁く。
「かざちゃんのことおちょくったりすると…後が怖いで」
椎名はその言葉にニヤリと笑い、ビールを一口飲んでから、わざとらしく目を見開いて返す。
「あぁ〜…まあ、また『騎士様』に聞かれたら怖いねんからなぁ…」
その響きに反応したのは、隣でカフェオレを飲んでいた赤羽だった。
「え…?」
頬をうっすら赤らめ、目をきらきらと輝かせながら聞き返す。
「騎士様って、何ですか!? 森中さん、いつからその“騎士様”と一緒にいるんですか!? 見たいです、その人!」
赤羽の目は、完全に乙女漫画モードに突入していた。
笹木も口元を押さえて笑いながら、からかうように言葉を乗せる。
「確かに…あいつ怒らせると面倒くさそうだから、この辺にしといたるわ〜」
森中はその様子にげんなりとした表情で、焼き上がったハラミを口に運びながら一言。
「……あいつ怒んないよ、そんなことで」
それだけ言って、手元のグラスの氷を転がすように揺らすと、淡々と付け加えた。
「あと、女だからね。“その騎士”って奴」
「え……つまんな……」
赤羽はあからさまに肩を落とし、赤らめていた頬も一気に元に戻る。
「せっかく、イケメンが出てくるかと思ったのに……」
その様子に、笹木も椎名も噴き出し、森中はため息をつきながら「ほんと、変なとこだけテンション高いんだから…」と呟いた。
焼肉のタレが鉄板で焦げて、香ばしい匂いが漂う中、笹木は骨付きカルビをかじりながらふと口を開いた。
「……あの耳長ゴリラ、どうしたんやろな……」
まるで思い出したかのようにぽつりと呟くと、隣でおちょこを傾けていた椎名が、日本酒の香りを漂わせながらゆるく首を振る。
「わからん……夜見と二人で探してんねんけど……なーんも分からんわ……」
ゆらり、とグラスの中で揺れる酒。椎名の目元は酔いに滲み、どこか現実味のない遠さを帯びていた。
その名前を聞いた瞬間、笹木はピクリと顔を引きつらせ、口にしていた肉を一瞬止める。
「うわ……」
明らかに苦手な相手の名を聞いたときの反応だった。椎名は気にも留めず、ただぼんやりと箸を進める。
森中は、コーンバターをつついていた手を止めて、その会話に微笑む。
「懐かし……その名前、久しぶりに聞いた」
どこか遠い目をして呟く森中。椎名の方に顔を向けると、少しだけ声音を柔らかくして尋ねる。
「元気? 夜見さん」
椎名は焼酎のグラスを手にしながら、軽く頷いて答えた。
「夜見さん…って誰なんですか?」
箸を止め、好奇心に満ちた声で赤羽が聞くと、笹木はその瞬間、小さく肩をすくめて「なあ、もうやめへんか…その話」と低く呟いて箸を置く。
空気が少しだけ重くなる中、森中は何かを振り払うように鼻で笑って「なんか…変な子だったよ」と呟いた。
「私、夜見さんとは同じ小学校だったからさ。あの子、目がすっごく綺麗だったの覚えてる」
一度視線を遠くに投げるようにしてから、森中は淡く続ける。
「そっか。今も元気なら、もう19か…」
静かに語るその様子に、笹木は何も言わず手元の水を飲むだけだった。
そのとき、椎名が酒の入った手でスマホを森中の方へ差し出した。
「ほれ」
森中がそれを受け取り、画面を覗き込む。
「これどこ?」
と問うと、椎名は椅子にだらりと身を預けながらニヤリと答えた。
「マチュピチュやて。近くに村もあって、温泉も入れるんやて。すごいやろ?」
写真の中には、石造りの神殿のような場所を背景に、どこかの観光客らしき女性の姿が写っていた。後ろ姿だけのその人物は、暗い髪を風になびかせており、どことなく寂しげな雰囲気を漂わせていた。
森中はその画面を見ながら、どこか気の抜けた返事をした。
「ふーん…」
しかしその眼差しの奥には、ほんのわずかな警戒と、懐かしさが滲んでいた。