放課後の空は、もう夕方に差しかかっていた。
赤羽葉子は、人気のない路地裏を一人で歩いていた。
表通りから一本外れただけで、空気ががらりと変わる。
割れたアスファルト、積み上げられたままの瓦礫、風に転がる空き缶。
ビルとビルに挟まれた細い裏道は、昼間だというのに薄暗く、どこか湿った匂いがした。
「……ほんと、場所選びセンスないよなぁ……」
ぼそりと愚痴りながら、赤羽は足元を気にしつつ進む。
制服の靴底が、砕けたガラス片を踏んで小さく鳴った。
路地の奥、さらにビルに囲まれた袋小路のような空間が見えてくる。
その先に、ぽつんと取り残されたような古い建物――
色あせた看板と、割れかけたガラス窓。かつては使われていたであろう「待合室」だった。
「……ここ、だよね」
スマホのメッセージをもう一度確認し、赤羽はその建物の前で立ち止まる。
約束の時間は、少しだけ過ぎていた。
中を覗いてみるが、人影はない。
椅子は埃をかぶり、蛍光灯は点かず、外の明かりだけがぼんやり差し込んでいる。
「……ちょっと遅かったかな……」
肩を落とし、赤羽は小さくため息をついた。
やっぱり来るんじゃなかったかもしれない、そんな弱気が胸をよぎった、その時――
とん。
背後から、軽く肩を叩かれた感触。
「えっ……?」
びくっと肩を跳ねさせ、赤羽は慌てて振り返る。
――誰もいない。
「……え、ちょ、今……」
心臓が一気に早鐘を打ち始める。
気のせいだと言い聞かせ、もう一度周囲を見渡すが、裏路地には自分以外の気配がない。
その瞬間。
「――こんなところに、何しに来たの」
耳元ではなく、背後から。
はっきりとした声。
「ひっ……!」
思わず息を詰め、赤羽は勢いよく振り返る。
だが、そこにも――誰もいなかった。
「な、なに……!? ちょ、やめてよ……!」
声が少し裏返る。
背中に冷たい汗が伝い、無意識に一歩後ずさった。
「いるなら、出てきてよ……! 驚かせるの、趣味悪いから……!」
必死に周囲を見回すが、瓦礫も、ビルの影も、沈黙したまま。
ただ、空気だけが、わずかに重くなったような気がした。
赤羽は唇を噛みしめ、意を決したように古びた待合室の扉に手をかける。
「……もう、いい……。入るからね……?」
軋む音を立てて扉が開く。
中は外よりもさらに暗く、埃と古い油の匂いが鼻をついた。
それでも赤羽は、一歩、また一歩と中へ進んでいく。
背後の気配を何度も振り返りながら――
「……誰か、いるんでしょ……」
その声は、自分を奮い立たせるためのものだったのか、
それとも、聞こえない“何か”に向けたものだったのか。
待合室の奥へと、赤羽葉子は静かに足を踏み入れていった。
待合室の奥へと進むにつれ、床の感触が微妙に変わっていく。
コンクリートだったはずの足元は、いつの間にか白く、ざらついた素材に覆われていた。
壁に目をやって、赤羽は思わず足を止める。
――繭。
それも一つや二つではない。
通路の両側、天井近くまで、不規則な間隔で張り付くように、白く膨らんだ繭のようなものがいくつも連なっている。
中には、微かに脈打つように見えるものさえあった。
「……うっわ……」
赤羽は顔をしかめ、思わず腕をさする。
「良い趣味してるわ……ほんとに……」
そう呟きながらも、引き返すという選択肢はなかった。
この奥に“何か”があることだけは、直感的にわかってしまったからだ。
繭に触れないよう、身体を縮めるようにして通路を進む。
歩くたび、衣擦れの音がやけに大きく響く。
――いや、違う。
かさ、かさ、と。
自分の足音とは別の、何かが擦れるような音が、微かに混じっていた。
「……聞こえない、聞こえない……」
半ば呪文のように言い聞かせながら、赤羽は通路の終わりへと辿り着く。
次の瞬間――
ぱっと、視界が開けた。
柔らかい白光に満たされた、大きめのホール。
天井は高く、壁も床も、すべてが白を基調とした空間だった。
そして。
空を、舞っている。
白い蝶。
白い蛾。
羽は陶器のように滑らかで、光を反射しながら、静かに羽ばたいている。
よく見れば、羽の付け根や胴体には、金属質の関節や極細の配線が覗いていた。
「……なに、ここ……」
あまりの光景に、赤羽は言葉を失ったまま立ち尽くす。
無音ではない。
微かな駆動音。
羽が空気を切る、ほとんど聞き取れない振動。
その幻想的で異様な光景に、ただ唖然としていると――
「もしかして、迷子の人?」
不意に、耳元で囁かれた。
「っ……!!」
全身が跳ねる。
赤羽は反射的に振り返った。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
柔らかな桃色の髪。
穏やかな笑み。
けれど、その目は、どこか人形めいて感情の読めない光を湛えている。
「そこ……結構、繊細な場所だから」
彼女は困ったように微笑みながら言う。
「あんまり入ってほしくないかも」
そう告げると、赤羽の横をすり抜け、ホールの中へと歩いていく。
白い蝶たちは、彼女を避けるように、あるいは導くように、ゆっくりと道を空けた。
赤羽は一瞬呆けたまま、その背中を見つめ――慌てて後を追う。
「ちょ、ちょっと待って!」
ホールに足を踏み入れながら、改めて周囲を見渡す。
「これ……全部、あなたの蛾なの?」
白い蝶が頭上をかすめる。
羽ばたきは滑らかで、まるで生き物のようだった。
「機械っぽいのに……ちゃんと動くのね」
思わず、少し感心したような声が漏れる。
少女は歩みを止めず、軽く振り返って答えた。
「うん。本物も混ざってるけどね」
その一言。
「……ひっ」
赤羽の背筋を、ぞわりとした悪寒が走った。
思わず鳥肌が立ち、肩をすくめる。
「ま、混ざってるって……え、どれが……?」
問いかけようとした瞬間。
白い蛾の一匹が、赤羽のすぐ目の前を、音もなく横切った。
その羽ばたきは――
あまりにも、自然だった。
赤羽は、白い蝶と蛾が舞う光景を見上げたまま、ふと何かを思い出したように目を見開いた。
「……ていうか、そうだ!」
突然、腹の底から声を張り上げる。
「ねえ!!」
勢いよく少女の方を向き、身振りまでつけて叫んだ。
「私さ、ここに来てくれってバイト先の人に言われて!」
一拍置いて、さらに声が大きくなる。
「そう……騎士様! 騎士様に会わないといけないんだよ!!」
ほとんど独り言に近い大声だった。
その瞬間――
ホール内に静かに漂っていた蝶と蛾が、一斉にざわめいた。
ばさっ、ばさばさっ、と羽音が重なり、
まるで驚いた鳥の群れのように、白い影が四方へ散っていく。
天井近くへ、壁際へ、奥の暗がりへ――機械音と羽音が入り混じり、ホールは一瞬だけ騒がしくなった。
「……あ」
赤羽が口を閉じたときには、すでに遅かった。
逃げていく蝶たちを目で追いながら、小さくため息をつく。
半目になり、少し困ったような表情で赤羽を見た。
「それ……かざちゃんが言ってたの?」
その言い方は、責めるというより、どこか諦めに近い。
続けて、声のトーンを落として言う。
「あと……あんまり大声出さないでくれる?」
「この子達も、驚くから……」
少女の足元をかすめるように、数匹の蛾が遠巻きに旋回している。
まるで様子をうかがっているかのようだった。
その様子を見て、赤羽ははっと我に返る。
「あ……ご、ごめん」
ばつが悪そうに肩をすくめ、声を落とす。
「なんか……テンション上がっちゃって……」
少し間を置いてから、今度は首を傾げる。
「え、でも……かざちゃんって……」
赤羽は目を瞬かせ、思い当たった名前を口にする。
「……森中さんのこと?」
一気に点と点が繋がったように、顔を上げる。
「じゃあ……あなたが、騎士様!?」
驚きと半信半疑が混じった声。少女は、その問いにすぐには答えず、ホールの奥へ視線を向けた。
白い蝶たちが、少しずつ戻ってきているのが見える。
そして、ぽつりと。
「……かざちゃんが、そう言ってる人なら」
ほんの少し考えるような間を挟み、
「多分……そうだと思う」
そう答えた。
断言でも否定でもない、曖昧な言葉。
けれどその一言は、赤羽の胸に、妙な重みを残した。
白いホールの中、再び静かに舞い始める蝶と蛾の影が、二人の足元をゆっくりと横切っていた。
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白いホールを抜け、再び荒れた街はずれの道へ出る。
瓦礫の残る路地、ひび割れたアスファルト、遠くで鳴る車の音。
さっきまでの異様な空間が嘘のように、現実の匂いが戻ってきた。
赤羽は前を歩きながら、小さく肩を落とす。
「……まさか、騎士様が子供だったなんて……」
ぼそりと呟き、ため息をひとつ。
「もっとこう……なんかこう……」
「守ってくれそうで頼れそう、みたいなの想像してたんだけどな……」
ちらりと横目で見る。
「年齢とか……近かったりするんですかね」
「私、赤羽葉子って言います。17歳なんですけど…」
探るような問いかけだった。足元を見ながら歩きつつ、少し考える素振りを見せてから答える。
「私は……16歳かな」
その一言。
赤羽は立ち止まりかけ、露骨に肩を落とした。
「しかも年下なんて……」
「騎士様って肩書き、どこ行ったの……」
失望を隠そうともせず、がっくりした声で続ける。
「私、今日一日で理想ってものを全部壊された気がする……」
少女は何も言わず、ただ静かに歩調を合わせていた。
やがて、荒れた道は少しずつ様子を変えていく。
割れた路面は整備されたアスファルトに変わり、街灯も増え、人の気配が濃くなっていく。
コンビニの看板、バス停、ビルの外壁――都会の輪郭が戻ってきた。
赤羽は、ふと少女の服装に目を留める。
「……というか」
制服をじっと見ながら言う。
「見ない制服ですけど」
首を傾げ、素直な疑問を口にした。
「どこの高校ですか?」
一瞬きょとんとした顔をしてから、自分を指差す。
「私?」
そして、何でもないことのように答えた。
「碧星院高校」
その名前を聞いた瞬間、赤羽の表情がすっと冷める。
「……見たことも……」
半目になり、ぼそり。
「聞いたこともない……」
都会のざわめきの中、
赤羽葉子は改めて、“騎士様”という存在が、自分の想像とはまったく違う場所にいるのだと実感していた。
都会の通りから少し外れた雑居ビルの一角。
赤羽は慣れた手つきで古い扉の前に立つと、軽くノックもせずに取っ手を引いた。
「こちらです〜」
ぎぃ、と気の抜けた音を立てて扉が開く。
中は、見慣れたはずの事務所だった。
簡素な机、積まれた書類、壁際のロッカー。
けれど――人の気配は、どこにもない。
赤羽は靴を脱ぎながら、少しだけ声を張って言った。
「今日は、店長いないですけど……」
言い切る前に、背後から控えめな声が返ってくる。
「今日も……じゃないの?」
少女は、きょろきょろと事務所を見回しながら、困ったように眉を下げていた。
「私……ここの店長と、逢ったことないけど……」
その一言に、赤羽は一瞬だけ固まる。
――が、次の瞬間。
「あ、今日も、ですね!」
ぱっと表情を切り替え、吹っ切れたように笑顔で言い直した。
「そっかそっか! 今日“も”いない、でした!」
ははは、と乾いた笑いを添えてみせる。
だが、少女の反応は薄い。
「……」
視線だけが、静かに事務所の奥をなぞっている。
その空気に耐えきれなくなったのか、赤羽は慌てて付け足す。
「……さ、さっきまで、いたんですけどね……」
言いながら、誰もいない机の横を通り、
引きつった笑顔のまま、事務所の中を案内する。
「ほら、ここが作業スペースで……」
「こっちは資料置き場で……」
声が、ほんの少しだけ上ずっていた。
奥にある簡易的な仕切りを引き、区切られた小部屋に入る。
古びたソファが一つ置かれた、打ち合わせ用のスペースだ。
「どうぞ、ここ……座ってください」
赤羽はソファを指し示し、少女――いや、“騎士様”を促す。
少女は一瞬だけ周囲を見渡し、それから素直に腰を下ろした。
柔らかく沈むクッション。
その仕切り越しに、事務所の静けさがじわりと伝わってくる。
赤羽は一度、軽く咳払いをした。
※追記(1月1日):物語の展開に必要な要素を微調整をしました。