痕跡と異常を追跡し、ビルの谷間を疾走する魔女の視界の端で、境界対策課の情報センターからの無機質なシステムログが網膜を滑っていく。『――目標地点、変電区画C-4。残存電力低下を確認。ハウンド、迅速に原因を排除せよ』
「……黙っててよ。うるさいわね」
“交戦開始”の信号を送り通信機の受信音量をオフにする。彼女の舌先は既に「異物」の味を捉えていたからだ――空気が粘ついている。 本来、電気は川のように流れるものだ。だがこの区画の空気には、無理やりせき止められ、一箇所に溜め込まれた「腐った水」のような淀みがある。
「見つけた……お行儀の悪い植物ね」
ケリーは迷いなく、疾走していたビルから飛び降りた。落下速度を殺すためのグレイプニルが壁を掴み、火花を散らす。着地したのは、再開発の途中で放棄された資材置き場。その中心に、それはそびえ立っていた。
――準Ⅲ号級送電樹ヴァルカロス。
それは、文明に対する冒涜的な模倣だった。錆びた鉄骨が幾重にも捩じれ、一本の巨大な「幹」を形成している。樹皮の代わりに、黒いケーブル被覆が血管のようにのたうち、絶縁材の断片が鱗のように張り付いている。 本来、空中に張られるべき送電線は「枝」となり、重力に逆らって夜空を侵食していた。
枝の先に実っているのは、果実ではない。彼方此方から奪ってきた、まだ火花を散らす小型変圧器や配電盤だ。それらが拍動するたび、青白い放電が樹液となって地面に滴り、アスファルトを白く灼いている。
「……くだらない。電力を生命だなんて勘違いするから、こんな不細工な形になるのよ」
ケリーが近づこうとした瞬間、周囲の空間が震えた。常時形成された《放電防壁》。数万ボルトの電界が、彼女の皮膚を刺し、銀紫の髪を逆立たせた。だが、ケリーは歩みを止めない。彼女の瞳が、嘲笑うように細められる。
「いい度胸……でも、私の前で電気の所有権を主張するなんて、百万年早いわ」
グレイプニルがケリーの足元から蠢き出した。ふと、ヴァルカロスの「根」に目を向けたケリーの動きが止まる。地面を這う太い主幹ケーブル。その末端が、数人の作業員たちの身体に深く突き刺さっていた。
「……あれが『延長ケーブル』ってわけ?」
人間たちは死んではいない。強制的に神経系へ電流を流し込まれ、意思を奪われた彼らは、ヴァルカロスの指示に従うまま、痙攣しながら配電網の調整を行っている。人間という「生きた部品」。
ケリーはそれを見て、眉一つ動かさなかった。憐れみも怒りもない。ただ、効率の悪さに対する冷徹な批評だけが口をついて出る。
「無駄が多いわ。生身の人間にそんな高圧を流したら、抵抗値が上がってロスが出るじゃない」
ケリーはリミッターを指でなぞり、魔力の出力ダイヤルを思考で一段階、引き上げた。青白い電界が、彼女の周囲で「紫」へと染まっていく。
「全部、引き抜いてあげる。……
次の瞬間、ヴァルカロスの枝が一斉に反応した。ケリーという餌の接近により、強烈な飢餓感を覚えた巨大な樹木が、その獲物として都市で最も密度の高い
「――導通。さあ、焼き切らせて」
紫の閃光が、鉄の森を真っ二つに切り裂いた。
降り注ぐ高圧ケーブルの豪雨を、ケリーは最小限の動きで回避する。足元のグレイプニルが盾のように旋回し、直撃した放電を全て磁気で逸らしていく。
「……あー、もう! 邪魔なところに立ってるんじゃないわよ!」
ケリーは毒突きながら、ヴァルカロスの「根」に囚われた作業員の一人へと肉薄した。助けるつもりはない――そのはずだった。だが、彼らが「部品」として組み込まれている限り、ヴァルカロスの計算ノードは安定し、中枢核へのパスが遮断され続ける。
「効率のために、どかしあげるわ」
ケリーは作業員の胸倉を掴むと、首筋に刺さったケーブルに直接指をかけた。常人なら即死する高電圧。だが、ケリーの指先からは、それ以上の電圧を持った「逆位相の電流」が流れ込む。
バチィィッ!と激しい火花が散り、作業員の身体を媒介していたヴァルカロスの支配が焼き切られた。男が糸の切れた人形のように倒れ込むと同時に、ケリーはグレイプニルの一本を男の衣服に絡め射出。戦域の外、放電が届かないガレキの陰へと乱暴に放り投げた。
「一人目。……次!」
ケリーの動きは、救助というよりは障害物の撤去に近い。しかし、彼女が一人を「切断」するたびに、ヴァルカロスの枝葉が怒りに震え、さらに狂暴な電撃が彼女を襲う。
ヴァルカロスは学習していた。目の前の少女が、自分たちの
「お返しよ、この出来損ない!」
ケリーは地を蹴り、垂直の「幹」――鉄骨の塊を駆け上がった。背後から迫るケーブルの触手を、空中で反転しながらグレイプニルで迎撃。切断されたケーブルの断面から、青白い樹液が飛散する。
ケリーは跳躍の頂点で、ヴァルカロスの主幹にグレイプニルを深く突き立てた。
「《グレイプニル・インダクション》――誘導開始!」
鎖を通じて、ケリーの加虐的な魔力がヴァルカロスの内部へと逆流する。本来、人間を部品化するための「生体送電」の回路を逆利用し、ケリーはヴァルカロス自身の伝導網を掌握し始めた。
「ほら、お望みの電気でしょ? ……たっぷり、飽和するまで飲ませてあげる!」
ヴァルカロスの枝に実った配電盤が一斉に赤熱し、過負荷で爆ぜ始めた。樹木を模した鉄骨の巨体が、内側からの熱に耐えかねて悲鳴を上げる。
だが、ヴァルカロスも死に物狂いだった。地下のケーブル網から、非常用電力を無理やり吸い上げ、その全てを
ケリーの目の前で、幹の中央部が白熱し、巨大な荷電粒子の光球が形成されていく。零距離からの全放出。
「……ふぅん。抵抗するんだ」
迫りくる光の奔流を前に、ケリーの瞳が愉悦に細まる。彼女はリミッターの奥で脈打つ、本物の「破壊」の味を思い出し、口元に凶悪な笑みを浮かべた。零距離で膨れ上がる白熱の光球。街一つ分の電力が、ヴァルカロスの「心臓」へと収束し、臨界点を超えようとしていた。
「ハウンド、離脱しなさい!出力計が振り切れている!直撃すればリミッターごと蒸発するぞ!」
強制的に通信をオンに切り替えた通信機から響くセンターの警告を、ケリーは笑い声で踏み潰した。
「蒸発? ……誰が?私を誰だと思ってるのよ」
彼女は逃げない。逆に、白熱する魔樹の心臓へと手を伸ばした。指先が光球に触れる。皮膚が焼け、髪が紫電の余波で逆巻く。だが、ケリーの瞳には恐怖など微塵もなかった。あるのは、自分以外の何かが「電気の支配者」を気取っていることへの、我慢ならない不快感だけだ。
「吸い上げなさい、グレイプニル!私に断りもなく流れる電気なんて、一滴も残さないわ!」
――《捕食導線・全点導通》
ヴァルカロスの放つ膨大な電気エネルギーが、ケリーの手を介して彼女の全身へと流れ込む。常人なら一瞬で炭化する奔流。だが、ケリーはそれを己の回路へと強制変換し、さらには衣服の下のグレイプニルへと流し込んだ。
ヴァルカロスの巨躯が、痙攣するように激しく震え出す。奪っていたはずの電力が、逆にケリーという底なしの蓄電池へと急速に吸い取られていく。
「……あはっ、すごい。街中の電気が、私の中に溶けてくる……!」
ケリーの背後の虚空に、紫の鎖が翼のように展開された。十分に「充電」は完了した。同時に吸い上げた全てのエネルギーを、グレイプニルの一点――主幹ケーブル束の深層にある核へと叩き込むために集中させた。
「――おやすみ、不細工な盆栽」
《ネクロ・コンダクター》が発動する。
鎖がヴァルカロスの深部、最も脆い主幹ケーブルの隙間へと滑り込んだ。次の瞬間、ケリーが溜め込んだ膨大な電荷が、指向性を持って内側から爆発した。
バチィィィィィィィィッ!!!
鉄骨の幹が内部から赤熱し、血管だったケーブルが次々と破裂する。擬態再生を試みようとした構造物も、分子レベルで焼き切られ、再生の連鎖が断ち切られた。凄まじい爆発音と共に、界異の根が灰へと変わっていく。過負荷に耐えきれなくなった窓ガラスが、宝石の雨となって夜の街に降り注いだ。
ヴァルカロスは、断末魔の放電を空に向けて放ち――そして、全ての光を失った。
巨大な鉄の樹が、音を立てて崩れ落ちる。瓦礫となった鉄骨と、ただのゴミに戻ったケーブルの山。その頂点で、ケリーはゆっくりと着地した。周囲には、彼女が事前に弾き飛ばした作業員たちが、意識を失いながらも「生きたまま」転がっている。
「……ふぅ。……熱っ。やっぱり、ちょっと欲張りすぎたかな」
ケリーは荒い息を吐きながら、自身の体温を下げるために首元のリミッターを冷たい手で触った。肌からはまだ、紫色の火花がチリチリと爆ぜている。その顔には、正義を成し遂げた達成感など微塵もない。ただ、強大なエネルギーを「御し、壊した」ことへの、背徳的なまでの愉悦だけが、その薄い唇に刻まれていた。
崩壊したヴァルカロスの残骸から、一本の焼け焦げた光ファイバーが、まるでケリーを嘲笑うように不自然に揺れていた。その断面には、先ほどの通信と同じ「悪意」の味が、微かに、だが確実に残っている。
「……ふぅ。いい準備運動だったわ」
彼女は髪をかき上げ、消えゆく火花を眺める。 だが、その視線の先。完全に沈黙したはずのヴァルカロスの残骸の中に、彼女は「あるはずのないもの」を見つけた。焼け焦げた基板の奥に、不自然に守られたデータストレージ。 そこには、彼女がかつて地獄に変えた施設――「ハイゼンベルクガス」の紋章が刻まれていた。
ケリーの瞳から、一瞬にして快楽の残滓が消え、猟犬の冷徹な光が戻った。