八敷一男という男
数年前、東京都H市にて、とある奇妙な噂が人々の間で囁かれた。
いつ付いたのかも、どうやって付いたのかも分からない。まるで獣の噛み跡のような赤い痣。
それが付いた人物は、やがてゆっくりと記憶を壊され、最期には無惨な死が待っているという
こういった地域に根付いた所謂『都市伝説』と呼ばれるものは、H市に限った話ではなく、日本中の至るところで確認されている。
どこへでもありふれていそうな噂。ましてや、こんな噂を本当の事だなんて信じる人はいないだろう。
取るに足らない噂。だが、そんな噂によって多くの人が亡くなった事を、俺は、八敷一男は知っている。
事実、『呪いの痣』によって俺自身は記憶を奪われ――実の妹も
呪いの痣を人間に刻み、人を死に追い詰める異形の存在『怪異』。
痣を刻まれた時から、俺は彼らの存在を認めると共に、死が蔓延る裏側の世界へと、まるで底無し沼に沈められるように堕ちてしまったのだ。
すでに『シルシ事件』は一男を含めた痣を刻まれた『印人』たちの協力により終焉を迎えたが、この事件で失われた命が戻ってくることはない。
そしてそれは、こうして妹の命日が訪れる度に深く実感してしまう。
シルシを刻まれ記憶を奪われた一被害者として、同時に、
怪異とは、恨みを抱いて亡くなった人のなれ果てだ。
生前の彼らは、人を、世界を恨んでしまう程の憎しみを持っていた。そして、彼らが元は人間であるのならば、相容れる事のなど出来る訳がないのに、どうしても彼らの事を思ってしまうのだ。
元印人でもあり、今でも深く交流をしている探偵の男には「のめり込み過ぎている。いつかあっちに引っ張られるぞ」と、多くの叱咤の言葉を飛ばされた。当然、俺も
あれから多くの怪異事件が舞い込んできた。そうしてそれらの事件を解決していくうちに、怪異に理解のある者から『怪医家』と呼ばれるようになった。
怪異の曰くを理解して、怪異を治療する専門家。初めてその呼び名で呼ばれた時は怪訝な反応をしてた記憶があるが、今となってはその呼び名を気に入っている自分もいる。
怪医家。これからも俺は、その呼び名に相応しいように彼らと向き合おうと思っている。少なくとも、この手で救えるのであれば、俺は己の持てる力を全て使うつもりだ。
非業の死を遂げた彼らに、穢れなき終焉が訪れる事を、俺は、八敷一男は願わずにはいられなかった。
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H駅の向かい側の通りに、新しいカフェが出来ていた事を知らなかったというのは、少し俗世に疎いのだろうかと自分の事ながら思った。
俺自身、珈琲は好きではあるのだが、こういったカフェで飲むより自宅のコーヒーメイカーで入れた方が美味しいような気がする。だからなのか、その分こういった小洒落な噂を耳にしないのかもしれない。
この店も外観の時点で、既に四十代という結構な歳をしたおじさんが利用するには、少々不釣り合いな気がする程にお洒落だ。
正直、萌からの誘いがなかったら、恐らくこの先一生関わらなかったようなお店だ。そういう意味で考えると、今回のお誘いは少し、自身の周囲への興味関心を改めるきっかけになったのかもしれない。
なんて。そんな事を一人考えながら俺はカフェの扉に手を掛けた。
外から見た印象より、中は少し落ち着いた雰囲気だった。
昼時を少し過ぎた時間帯だからか、思っていたより人は少ない。
絵画や時計といったアンティーク品と思われる置物が店のあちこちへ飾られている。程よい照明で照らされたカフェの内装が、不思議と九条館に似ていると思ってしまうのは、萌の店選びのセンスが良いからなのだろうか。
安物のラジカセではない、良い趣味をしている人が選んだと思われる蓄音機がレジの隣に置かれている。そこから流れる耳障りにならない程度の大きさで流れるクラシックを背に、俺は事前に電話で聞いていた窓側の席へと歩みを進めると――
「――あっ! 来た来た。おじさん。こっち、こっちだよ」
件の人物はすぐそこにいた。
シルシ事件の時から数年の時が経てば、そこで出会った印人たちも当然成長する。
テーブル席に座り俺を待っていた彼女は、初めて出会ったあの時のお転婆な女子高生というなりは潜まり、ショートヘアを肩下まで伸ばして少し落ち着いた印象になっていた。
白いシャツを来た、外の暑い夏を乗り切るための夏服で着飾る萌は、今やオカルト雑誌社の若きやり手編集長なのだから、その肩書に見合った佇まいをいつの間にか身に着けたのかもしれない。
「久しぶりだね。おじさん!」
「……数か月前に会ったはずだが」
「数か月も会ってなかったら十分久しぶりだよ?」
そう言って萌は口を綻ばせて笑う。その笑顔はあの時と変わらない。素敵な女の子の笑顔だ。
電話で事前に話していた内容から少し緊張していたが、萌の笑顔を見て俺はホッとしたように肩の力を抜いた。
「今、珈琲持ってきてもらうからちょっと待っててね」
萌がそう言い片手を上げると、事前に頼んでいたのかすぐに珈琲が俺の目の前に置かれた。香ばしい珈琲の香がよく体に馴染む。
「はいお砂糖。ここのカフェは角砂糖だから、おじさんはいつもシュガースティックより角砂糖入れてたもんね」
コーヒーの脇に置かれたのは角砂糖が所せましと積まれた可愛らしい入れ物だ。
今時こういうお店探すのも大変なんだよと、萌は先に置いていた自身の珈琲を啜った。運ばれてから少し時間が過ぎたのか、湯気は少ないながらもほんのりと漂っている。
「ありがとう、萌。……ずいぶんと手際がいいな」
「何年おじさんとやってると思ってるの? おじさんが珈琲を飲むのが好きなのも、その珈琲に角砂糖をたんまりと入れるのもとっくに分かってるんだから」
そういうと彼女は、まるでイタズラっ子のようにニシシと、口の端を持ち上げた。
なるほど。確かに彼女の言う通りかもしれない。長い付き合いのある相手ならば、意識せずとも好物なども分かるものだ。
現に俺だって、彼女がどういう物が好きで、今は珈琲以外に何が食べたいなのかもなんとなしに思い浮かんでいる。大方、彼女の方から人を呼んだ手前、頼めなかったのだろう。
俺は机に置かれたカフェのメニューを引っ張り、次いで萌がしたように手を上げて店員を呼んだ。
「ご注文でございますか?」
「あぁ。このメニューにあるパフェを一つ、それから珈琲ゼリーを一つお願いします。それと、伝票は別でお願いします」
かしこまりましたと店員が注文を取り、カウンターへと戻る。萌は少々驚いたような顔をしているが、やがてまた得意げな表情で俺を見た。恐らくここに擬音でも付けるのなら、にやにやとした顔なのだろうか。
「へぇ、さっすがおじさん!良く私がパフェ食べたいなって思ってた事分かったね!」
「それこそ、何年萌に付き合ってるって話だ。パフェ代はこちらで払うから、ぜひ食べてくれ」
「えへへ、では遠慮なくご馳走になるね。おじさん!」
綻んだ顔をして、萌は珈琲を再び口にする。俺も角砂糖の詰まったケースの蓋を外し、中から角砂糖を――
「だからって、角砂糖を五つも六つも入れちゃ駄目だよ? じゃないとホントにおじさん糖尿病になっちゃうんだから」
角砂糖を――四つ取り出し、カップへ投げ入れた。……俺としては十分まだ苦い味のする珈琲を、ゆっくりと啜った。やはり珈琲は、家で誰も見ていない所でゆっくりと飲みたいものだ。
パフェと珈琲ゼリーが運ばれ、無事に両者の胃袋へと収まった頃、萌は懐から少し古ぼけた手帳を取り出した。付箋やしわのせいで元の厚さよりも分厚くなったそれは、萌が常に持ち歩いている手帳だ。萌がそれを取り出したという事はつまり、これからの萌は『元印人の渡辺萌』ではなく、『オカルト雑誌社編集長の渡辺萌』として動くという事だ。
「さて、小腹も満たされた事だし、仕事の話をしよっか。
そうして話す萌は、やはりシルシ事件で怪異に立ち向かった時と同じように、いや、若しくはそれ以上に怪異への好奇心を瞳に宿らせながら言った。
「早速だけど、八敷さんに手伝って貰いたい怪異絡みの案件があるんだ。電話でも言ったけど、八敷さんはこの噂知ってる?」
――十年ぐらい前に噂された今は無いH中央病院の怪異の噂。『
何処かで、時計の鐘が鳴ったような音が聞こえた気がした。
リブートのおじさんの年齢が少し若くなるかもって聞いて
若いおじさんもおじさんなおじさんもどっちも良いな…と思ってる自分がいます
おじさんが若くなっても、あくまでリブート時空と本編時空として認識しますので
作者としてはどっちも美味しい展開です♪
…もしおじさんが若くなるなら、さやさんも若くなるのかな…?