ケーセイケーコク!!   作:柴猫侍

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第拾話:舟中敵国

 

 

 

「この町の名はね、『甲蝸(コウラ)』って言うの」

「亀みてェな名前だな」

「言い得て妙ね。たしかにここは鉄壁を誇る難攻不落の要塞よ」

 

 町と呼ぶには余りにも無機質で堅牢な街並みを前に、黒蝶は歴史を語る。

 

「〈散華の乱〉──今の王朝が作られるきっかけとなった統一戦争で、黄皮、蒼爪、赫翼、白牙を抑え、玄甲が“五華国最強”の名を(ほしいまま)にできた勝因ね」

「……そんなに強かったのか?」

「さあ?」

「おい」

「ふふっ、そうカッカしないで。兵の強さは分からないけれど、地理的に攻めにくい場所であるのは間違いないわ」

 

 玄甲は山岳地帯が多い。

 有史以来、屹屹たる険しい山岳地帯とは守りに適した地形だ。故に、玄甲には鉄壁を誇る天然の城塞──所謂“要害”が非常に多い。

 

「けど、それだけじゃないわ」

「あん?」

「玄甲はね、水路を整備してるの。つまり、水運の文化が他より発達してるって訳」

「……発達してるとどうなんだ?」

「物資の運搬が効率的になるのよ。当時からしてみれば兵站よね」

 

 山岳とは平地より陸路の制限された地形。

 そこで古くより玄甲の地に暮らす民は、いち早く“水路”の重要性に気付き、水運の文明を発展させてきた歴史がある。

 

「兵站は戦争の要。兵站が充足している軍ほど頑強なものはないわ」

「お前、軍事にも詳しいのか?」

「ふふんっ♪ 何を隠そう『後宮の軍師』とは私のこと。碁や象戯(シャンチー)だってお手の物よ。元軍師の宦官相手にだって負け戦無しだったわ」

 

 誇らしげに奥ゆかしい双丘を張る黒蝶。

 だがしかし、羅鈿の視線が下に向くことはない。むしろ黒蝶の妖艶な笑みに若干引いているくらいだ。

 

「お前……逆に何ができないんだよ」

「うーん、そうね……大抵はできてしまうかも♪」

「……そりゃ後宮から追い出されるわ」

 

 ぼそりと独り言。

 天は二物を与えずと言うが、この女に関しては別だ。天帝からの寵愛を一身に受けた才色兼備を以てすれば、魅力と知力、どちらを使ってでも国を動かせてしまえるだろう。

 

「何か言った?」

「美人は違ェなって話だ」

「うふふっ、謝謝(ありがとう)♡」

 

 それ見たことか。

 破城槌か大砲を彷彿とさせる破壊力の笑顔は、正しく“傾城”と呼ぶにふさわしい美女の為せる技だ。

 お世辞──というには、半分本心が込められた言葉を聞いた黒蝶は、気を良くしたのか得意げに解説を続ける。

 

「話は戻るけど、甲蝸は当時水運の要であり要衝だったの」

「だから守りを固める為、こんなご立派な城を作ったと……」

「そういうこと。ま、今となってはご覧の通りだけれど」

 

 黒蝶は異様な街並みを見渡す。

 平屋という概念は存在しておらず、最低でも三階建て。増築に増築を重ねた家屋が縦にも横にも繋がり、街全体が一つの城か砦であるかのようだ。

 

「……これも黒道が支配している影響か」

「ええ」

 

 頷く黒蝶は城下町の最奥に鎮座する建物を望む。

 天を衝かんばかりに高く重なる屋根を持つ楼閣。あれこそがこの町の支配者の“城”だ。

 

「〈栄螺(エイラ)〉。甲蝸の支配者であり、私の実家よ」

 

 砦の規模は勢力の大きさに比例する。

 栄螺とは、今まで対峙してきた黒道とは比較にならぬほど巨大な組織だ。そんな場所に今から向かわねばならぬと理解した羅鈿の頬には、一筋の汗が伝っていた。

 

「あんなデケェとこに……」

「昔ほどじゃないけどね」

「あれでか!?」

「……気にしないで。さ、行きましょ」

「お。おいッ!」

 

 だが、意外にも意外。

 外観の排他的な空気とは裏腹に、内部を行き交う人々の表情は実に明るいものだ。

 ほとんど廊下同然の道──もとい通路の脇では、露天商が食い物や日用品を売り捌いている。人当たりのいい笑顔を目の当たりにすると、この町が玄甲でも指折りの黒道に支配された街という事実を忘れそうになってしまうほどだ。

 

「うちの肉饅頭は絶品だよ! あんちゃん、どうだい? 安くしとくよっ!」

「おっ。じゃあ一個貰おう──」

「ダ~メッ」

「かばっ!?」

 

 露天商の中年女性より、肉饅頭を受け取ろうとした羅鈿。

 しかし、寸でのところで黒蝶に襟を引っ張られて引き離されていく。引き留めようとする露天商の制止の声も虚しく、あっという間に二人は雑踏の中へと消えた。

 

 十二分に距離を置いた頃、ようやく黒蝶の引っ張る力が弱まり、羅鈿は解放と相成った。

 そして、

 

「何すんだてめェ!?」

「拾い食いは、めっ。野良犬じゃないんだから」

「誰が野良犬だ!? 店売りの肉まん買って何が悪ィ!」

「人肉が入ってるかもしれないわよ」

「……は?」

 

──この女、人肉と言ったか?

 

「……流石に冗談だよな?」

「あら、本気にしちゃった? 黒道風の冗談」

「んだよっ! だったら一個くらい食っても……」

「まあ、麻薬は入ってるかもしれないけど♪」

「より性質が悪ィじゃねェか」

 

 たしかに麻薬が入っていたら中毒(リピート)は確実だ。理に適った経営戦略だと言えよう。正しい人の道は外れているが。

 ただの食べ物一つでも油断してはならない。

 妙な緊張感を覚えながら、羅鈿は空きっ腹を我慢して黒蝶の形のいい尻を追いかけるのであった。

 

 それから、次第に道を行き交う住民や露天商の姿が少なくなる。やがて、人の気配は完全に消え失せた。あるのは左右に聳え立つ石壁だけだ。そして、目の前に延々と続く人一人通るのが精いっぱいの細道だった。

 

「こっちよ」

 

 加えて、道中はやけに分岐点が多い。

 階段も多数用意されている構造は、侵入者対策に作られた迷路であることは何となく察せるであろう。

 

 角を曲がり。階段を上り、降り。

 

 そうやって迷路を進むこと一刻ほど経った頃、不意に視界に光が溢れる。

 だが、それは温かい陽光などではない。重厚に佇みながら、繊細な彫刻が施された石灯籠が数十個。ついでに眼前に聳える巨大な楼閣の窓より漏れる光が、その正体だ。

 

 さながら夜空に瞬く星空のようだが、生憎と羅鈿は浪漫的な気分にはなれない。

 何故ならば、道を挟んで並ぶ石灯籠──その左右に厳めしい装いをした男達が数十。否、闇に溶け込んでいる分も含めば数百人は居るであろう。

 

 否応なしに濃さを増す殺気。

 咄嗟に黒蝶の前に身を乗り出した羅鈿であるが、次の瞬間、彼は驚愕の光景を目にした。

 

『跪!』

「っ!?」

 

 その強面ならば一瞥で平民を平服低頭させられるだろう男達。彼らが全員、一斉に跪いたのである。

 

 だが、それだけでは終わらない。

 

『一叩!』

『二叩!』

『三叩!』

『起!』

 

 三度硬い石畳に頭を打ち付ける音が重なり、鼓膜を貫く轟音と化す。

 それから整然と立ち上がったかと思えば、一連の動作が再び始まる。二回目が終われば困惑、三回目が終われば恐怖を覚えた。

 背中に冷や汗が伝う羅鈿であったが、三回目で男達の叩は終わる。

 そして最後に、

 

「お帰りなさいませ、お嬢様!」

『お帰りなさいませ、お嬢様!』

 

 一人の声に続き、他全員が声を発した。

 空を揺るがす大音声。ビリビリと鼓膜を震わせる轟音は、雷鳴のようだった。

 

「大丈夫よ、羅鈿。うちの人間だから」

 

 気圧された羅鈿を安心させるように黒蝶が告げる。対して羅鈿は唇を尖らせ、振り撒く殺気を収めた。

 同時に理解する。受け入れざるを得なくなる。

 

 ここが〈栄螺〉の本拠地。

 玄甲屈指の黒道、その根城だと。

 

「──哎呀呀(やれやれ)

 

 ぬるりと。

 逆光を背に楼閣より現れる人影。だがそれは間もなく消えた。

 

「まさか自力で舞い戻られるとは。貴方にはいつも驚かされてばかりだ」

 

 次の瞬間、黒蝶の傍にあった。

 耳元で囁くような前のめりの姿勢。拱手した壮年の優男の音無き接近を許した羅鈿は、俄かに動き出す。しかし、黒蝶が手で制した。

 

「……久しぶりね、魔蟲(マムシ)

「ご壮健で何よりです、黒蝶御嬢様」

「用意していた助け舟、無駄にして御免ね」

「貴方様に勝る価値などありませんよ」

「心にもない言葉♪」

 

 不敵な笑みを湛える両者。

 その得も言われぬ空気に羅鈿が圧倒されていると、今度はこつこつと靴音を鳴らし近づいてくる気配があった。

 

 

 

「──心外ね」

 

 

 

 凛と響く声を聞き、魔蟲と呼ばれた男が横にずれて跪く。

 

 ヒュッ、と。羅鈿は思わず息を呑んだ。

 

(この女……)

 

 似たような経験は、ある。

 初めて黒蝶を目の当たりにした時がそれだ。宝物庫を開き、極上の宝石を見つけて圧巻されるような感覚。あるいは感動とでもいうべきだろうか。

 

 だが、此度は違う。

 

(この女……)

 

 黒蝶を黒真珠と喩えるなら、この女は黒曜石だ。

 一見すると、隣にいる傾国の美女をそのまま成長させたような磨き抜かれた容貌だ。いや、むしろ年齢を重ねて纏う妖しい色香を思えば、こちらの方を美しいと謳う者が居てもいいくらいだ。

 

(只者じゃねェ……!)

 

 ただ、煌びやかな光を放つその実態は磨かれた鋭利な刃そのもの。迂闊に触れれば命を落とすと、羅鈿の本能は警鐘を鳴らしていた。

 

──この女は一体何者なのか?

──いや、議論の余地などない。

──彼女こそが〈栄螺〉の首領。

 

「……珠媽(シュボ)御母様……」

 

 すなわち、黒蝶の母親だ。

 震えた声を紡いだ彼女の姿を見て、羅鈿はそう確信した。

 

「聞いたわよ、黒蝶。後宮を追放されたようね」

「……はい。ご期待に沿えず申し訳」

「いいわ。続きは後でしましょう」

「っ……! ……はい」

「部屋に戻りなさい」

 

 淡々と。

 親子の会話にしては、余りにも淡々とし過ぎていた。珠媽と呼ばれた美女は踵を返して歩き始め、美貌を俯かせていた黒蝶も慌てて足を動かし始める。

 

 当然、羅鈿も黒蝶を追いかける。が。

 

「ちょっと」

「あ?」

「君……羅鈿君かい?」

 

 黒蝶との間に割って入った眼鏡の男が自分の名を知っていた。

 その瞬間、羅鈿の脳裏に蘇る。世話になっていた寺院が焼かれる前の記憶だ。

 

「まさか──幸守(コウモリ)師兄(にいさん)か!?」

「やっぱり! 久しぶりだね!」

「アンタ生きてたのかよ!」

 

 裏を返せば、生きているとは思っていなかったという意味だ。

 けれども、言われた当人である眼鏡の男はニコニコと目を細め、気の良い青年の笑顔を湛えてみせていた。

 

「ま、命辛々ってところさ。着の身着のまま方々這いずり回って……って感じさ」

「……アンタも苦労するんだな」

「うん! でも、頑張れば天は見放さないでくれるよね! 栄螺に拾い上げて貰ってからも汗水流してさ、今や栄えある幹部の一人さ!」

 

 誇らしく胸を張る魔蟲もとい幸守。

 否──そこに居たのは『幸守だった男』と言うべきか。

 

「──そうか」

「へぇ、知り合いだったのね……」

「おっと。御邪魔してしまいたね」

「別に……構わないわ」

 

 思いがけない再会からの会話。

 その間、蚊帳の外であった黒蝶はほんの少し唇を尖らせていた。

 しかし、それも束の間の出来事。

 次の瞬間には、楼閣の窓明かり、その逆光の中で黒蝶が微笑んだ。

 

「積もる話は後のお楽しみ♪ 付いてきて頂戴」

「お……おう」

「誠心誠意、精一杯もてなすわ♡」

 

 案内されるがまま、羅鈿が連れていかれたのはとある客室。

 出迎えるは見たこともないようなご馳走の大盤振る舞いだ。豪華な内装に勝るとも劣らぬ料理の数々は、今日が最後の晩餐であると言われたって信じられる。それほどまでに豪華であった。

 

 しかも、どれもこれもが舌を唸らせられるほど極上と来た。

 前菜、(スープ)、肉に魚に美味い酒……どれもこれも文句をつけようがない極上の逸品ばかりだ。ただひとつ文句を付けたいものがあるとすれば、それは──。

 

「どうしてお前も一緒に食ってんだよ……」

「あら? 美女と食事はお望みじゃない?」

 

 同じ卓の向こう側。

 ニコニコと箸を動かす美女は、決して羅鈿が言って侍らせた女ではない。

 

「いや……別にいいけどよォ」

「そ♪ 私も久々に実家の料理を味わいたかったから。……あっ、これは食べちゃ駄目よ。私の好きな料理だから」

「全部てめェが先に手ェ付けてんのが気に食わねェ!」

「細かいこと言わないの。あっ、それなら“私”を味わってみる? 私含め、皇帝だって手を付けず仕舞いだった()()よ♡」

「結構!」

 

 身を乗り出し、胸をはだけさせてみせる黒蝶。

 だがしかし、その艶美な姿を前にしても尚、羅鈿は酒を呷った。そして、頬を真っ赤にしながら断固として固辞。

 これには黒蝶も尖らせた唇で、そのまま茶を啜った。

 

「つれないわね……んもう」

「魚じゃねェんだ。目に見えた釣り針に掛かるかよ」

「……ふぅ。失礼」

「? どこ行くんだ?」

「お花を摘みにね。あっ、私が戻るまで新しく来た料理は食べちゃ駄目よ」

 

 そう言って席を立った黒蝶が部屋から出ていく。

 刺した釘を何度も念で押して、だ。これには一人残された羅鈿も、困惑の表情を湛えていた。

 

「……どういう意味だよ」

 

 まったくもって真意を読み取れない。

 そのことに羅鈿が悶々としていると、どこからともなく人の気配が近づいてきた。

 

「やっ♪」

「おっ?」

 

 黒蝶と入れ替わるように現れた来訪者。

 それはつい先程再会したばかりの眼鏡の男──。

 

師兄(にいさん)。仕事はいいのか?」

「客人をもてなすのも僕の役目さ」

 

 人当たりの良い笑みを湛えた幸守──今は魔蟲と名乗る男は椅子に座る。

 同時に、やってきた一人の給仕が新たな料理を食卓に追加した。

 

「ささっ♪ 同門だったよしみさ。遠慮しないで食べてくれ」

「……」

「……あれ? 食べないの?」

「いや、食えねンだ」

 

 黒蝶との約束でよ、と。

 飼い主の言いつけを守る忠犬の如く、羅鈿は頑なに料理に手を付けはしなかった。

 

 面食らう魔蟲。

 唖然の沈黙を続けていた彼であるが、ふと我に返った瞬間、プッと噴き出した。

 

「アハハ! 変わらないねェ、羅鈿君は!」

「な、なんだよ。悪ィか?」

「じゃあさ──栄螺(ウチ)に入りなよ、って言われたら?」

「!」

 

 突然の勧誘に、羅鈿は目を剥いた。

 

「アンタ、一体何を──」

「僕なんか栄螺(ココ)に入ってからだけで、普通に働く人達のウン十倍のお金は貰ってるよ?」

「なっ!」

 

──どうしよう。

──正直、心が傾いた。

 

「羅鈿君だってお金には困ってるんじゃないの? こんなご時世さ。清廉に生きるのは立派だけれども、生きる為に黒道になるは誰も責められないさ」

「ぐっ! けど……」

「折角再会できた弟弟子を見殺しにするほど、僕も薄情じゃないよ。総帥には僕から紹介するから君も」

「──やっぱ駄目だ!」

 

 突如として立ち上がり、羅鈿は言葉を遮った。

 

「……羅鈿君?」

師兄(にいさん)の心遣いは有難い……けど! やっぱ……俺には駄目だ」

 

 苦悩と葛藤を顔に滲ませつつ、羅鈿は静かに腰を下ろしてから続けた。

 

「……約束、したから」

「……まさか、お師匠の?」

「……ああ」

 

 青年は肩を竦めて頷いた。

 その瞬間だけ、彼は幼子だった。寺院で暮らしていた少年に還っていた。

 

「『常道外れようと、人の道外れる()からず』──寺で武術習う奴ら全員と、お師匠が交わす約束だ」

「けれど、お師匠はもう」

「分かってるよ!」

 

 けど、と。

 在りし日を思い返す少年は続ける。

 

「だからって約束を破ったら──皆が、消えちゃいそうだから」

 

 最早、声すらも曖昧になってきた少年時代の思い出。

 焼けて消えたは居場所と命。

 唯一残ったものと言えば、彼らと一緒に交わした約束くらいだ。

 そればかりは、そればかりは。

 頑なに約束を守る理由は、せめて唯一残った繋がりを──思い出を消したくないから。

 

 それだけの理由だ。

それだけの理由の為に、自分は今日までこの道を歩んできたのだと。

 

「だから……」

「……そっか」

「……悪い」

 

 申し訳なさそうに謝る羅鈿。

 それは提案を断りこそすれ、黒道になった兄弟子を責める気にはなれないという彼なりの考えあってだ。

 

「いや……君の言う通りだ」

 

 しかし、断られた魔蟲もまた羅鈿の返答には理解を示す。

 

「黒道に寺を焼かれたのに……酷な話だったね。御免よ」

「……師兄(にいさん)?」

「大丈夫。僕は君の意志を尊重する」

 

 怪訝な声を漏らす羅鈿を余所に、魔蟲は席を立つ。

 

「じゃ、お邪魔虫はさっさと去ることにするよ♪」

 

 料理楽しんでね、と部屋を去る魔蟲。

 その後ろ姿を静かに見送った羅鈿。それから何度か給仕が料理を運んでくるも、矢張り羅鈿は頑なに料理には手を付けなかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「がらがら……」

 

 〈栄螺〉の城は、宮廷以外では珍しく水洗の厠が用いられている。

 おかげで汲み取り式のように用を足した後の悪臭の心配が要らない。一方で、言い訳が出来ない以上、自分の匂いに気を遣わなければならないことが欠点(ネック)だ。

 

「……ふぅ」

 

 口をゆすいだ水を吐き捨てる黒蝶。

 厠から出てきた彼女は、すぐさま取り出した貝殻の白粉箱を取り出し、脂汗で崩れた化粧を直す。

 

(油断ならないわね……)

 

 出された料理はどれも美味だった。気を抜けば次々に口へと運んでしまうくらい。

 故に、気付かないだろう。

 

(私が死なない程度の毒なら気付かないとでも思ったかしら?)

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 ただし、塵も積もれば山となる。一つ一つでは致命的でない毒であれ、多量に摂取すれば当然致死量に達する。

 同時に毒物の中には普段の生活習慣により、常人より耐性がつく種類もいくらか存在する。

 

 今回料理に紛れ込んでいた毒物はそういった類の代物だ。

 黒蝶は、()()()()()()()()()()()

 

(訓練がこういう形で役に立つだなんてね……)

 

 幼い頃より毒物を見極める訓練を積んだ甲斐があった。

 おかげで恩人を毒殺せずに済んだと一息吐く黒蝶。だがしかし、未だ事態は根本的な解決に至っていない。

 

(一体誰が仕込んだ? 厨师(シェフ)? 給仕? いえ、一番手っ取り早いのは……)

 

 黒蝶は足早に珠媽の下へと向かう。

 今、〈栄螺〉の実権を握っているのは彼女だ。彼女の命にない身勝手を働こうものなら、〈栄螺〉の面子を守る為、厳しい折檻が待ち受けている。

 

 自分も昔はよく泣かされたものだ──黒蝶はそう自嘲しつつも、切れた堪忍袋の緒を引き摺りながらズンズンと歩を進めていた。

 

(一刻も早くお母様に真意を問い質さなければ──!)

 

 羅鈿を──恩人に手をかけようとした所業は、それほどまでに許し難い。

 気付けば、既に執務室の前に辿り着いていた。

この扉の先に、母は、珠媽は居る。

 

(……よしっ!)

 

 そして、いざ扉を開けようとした──その時だ。

 

 

 

『──当初の目論見通り、皇帝は間もなく崩御されるでしょう』

 

 

 

 時が、止まった。

 

『……そう』

『となれば、残る問題は後継者が誰かとなりますが……不幸にも皇太子は全員身罷られましたからね』

 

 扉の先より聞こえる声の主は珠媽と魔蟲の二人。

 別にそれはいい。前者は勿論のこと、後者も今となっては珠媽の右腕として辣腕を揮う〈栄螺〉の大幹部だ。立場上、彼らが話し合っていても何らおかしいものではない。

 

 問題なのは、偏にその内容だ。

 

『……継承権は妾の子ばかりと。秘密立儲はあるの?』

『ええ。勅書をすり替えさえすれば、後継者を偽造することは容易いかと』

『そう、ね』

『これからは忙しくなるでしょう。入用も嵩みましょう。無駄な出費をしている余裕はありません』

『……貴方が言うなら、その通りだわ』

 

 自覚した時には、すでに黒蝶はその場から駆け出していた。

 

(……不合时宜(不味いわね)

 

 足音を立てず、細心の注意を払いながら向かう先は唯一つ。

 

(羅鈿)

 

 自分を救ってくれた一人の青年。

 狭くて暗い闇を裂くようにして現れた瞬間──あの時抱いた感情は、何も知らぬ他人には推し量られたくない“宝物”だ。

 

(彼を殺す──そんなの、私の“道義”が許さない)

 

 黒の道に生まれたとしても、踏み外せぬ人の道があればこそ。

 彼女は、毅然とその道を突き進むのだ。

 

 

 

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