「全て貴方の為なのよ」
〈栄螺〉の
改築と増築を重ね、皇帝の暮らす宮廷をも上回る高楼と化した建物は、彼らが重ねた欲望と権力の表れであった。
その高楼の一室。
最も天に近い場所で、常人の目には太陽の如く眩い二人の美女が向かい合う。
「私は、貴方の幸せだけを考えていた。小さい頃に施した教育。技と知を身に着けさせる為には金も惜しまなかった」
「……」
「宮廷の男を手玉に取る話術。後宮の女も味方にする処世術。全部私の言う通りに凡事徹底していれば、皇帝の后になることは難しくはなかった筈よ」
ギラギラと鋭い眼光を迸らせるは〈栄螺〉の龍頭、珠媽。
対するは彼女の娘であり、後宮を追放された美女、黒蝶。
共に傾国の美女と呼ぶに相応しい美貌の持ち主だった。
「それなのに……この体たらくは何? どうして私の言うことが聞けないの?」
「お言葉ですが、お母様」
「言い訳は聞きたくないわ」
国を傾ける、だからこその傾国の美女。それが二人。
もし仮に彼女達が手を取り合えば、国を右にも左にも傾けられるだろう。そう思わせる華やかな光景とは裏腹に、流れる空気は些か不穏であった。
「失望したわ、黒蝶。貴女がここまで出来ない子供だったとは」
「……ご期待に沿えず、申し訳御座いません」
「……いいわ。もう話は済んでいるから」
「話? というと」
「貴方の嫁ぎ先が決まったわ」
瞠目する黒蝶を意に介さぬように、淡々と珠媽は言葉を続ける。
まるで決定事項。いや、実際そうなのだろう。
「主上が崩御あらせられたと聞いてから話は進めていた。近い内に迎えが来るわ」
「
「質問は許さない。疑問は不要よ。貴女は、私の言う通りにしていればいい」
「……それも私の幸せの為と?」
「勿論」
断言であり断定。
そうした珠媽の言動を見て、黒蝶は内心──否、生まれて初めて心の内を曝け出すことを決めた。
「──私は、貴方の道具じゃない」
「……どういう意味?」
「御父様が死んでからよ。御父様が死んだ所為かしら? 貴方の箍が外れてしまったのは」
「黒蝶」
「貴方は私に完璧を求めた。まるでそれが義務であるかのように。私の言葉に耳を傾けず毎日毎日教育教育……辛かったわ。何度も泣いたのに……やめてくれなかった」
箍が外れたのが母だとするなら、今の自分は堰を切っているのだろう。
一度口にした秘めた心は、とめどなく眼前の親に向かって流れ続ける。
「所詮、私は貴方にとってその程度の物なのね。血の繋がっていない娘なんて、何処に嫁がれたところで懐は痛まない──」
その先の言葉を、黒蝶は口に出せなかった。
視界が突然、右を向いた。遅れて左頬に灼熱が奔った時、自分が叩かれたのだとようやく気付いた。
痛みでじんわりと、左の目尻にだけ涙が浮かんだ。
真珠のような雫は、赤らんだ頬にそっと一筋の軌跡を描く。
しかし、黒蝶はせめてもの反抗に気丈に振る舞う。涙と頬をそっと手で覆い、目を見開いていた珠媽へと視線を戻した。
「……図星だったかしら?」
「……貴方がそんなことを言うなんて、夢にも思わなかった……っ」
「だから、現実を直視できなかった」
二度目。
今度は衝撃が全身に伝播し、思い切り床へと体が倒れた。幸いにも執務室の床に調度品の絨毯が敷かれていた為、少しばかり体を打つだけで済んだ。
「……柄にもない暴力。余程お気に障ったようで」
「……黒蝶。迎えが来るまで、貴方には仕置部屋で過ごしてもらいます」
「!」
仕置部屋──文字通り折檻を目的とした部屋であるが、閉じ込められるのは専ら幼い頃の黒蝶だった。
勉強にしろ芸にしろ、その日の課題をこなせなければ、反省を促す目的で閉じ込められる。ただし実情は部屋と言うより物置に近い。扉を閉めれば一切の光が断たれる、まるで密室だった。
暗い部屋に長時間の幽閉。
たとえ子供でなくとも不安を駆られるような密室。其処に閉じ込められた子供の黒蝶は、助けを呼んでも誰も来ない暗闇の中、ただ一人泣き喚いていた。
忌まわしい記憶だ。
この瞬間、平静を装っていた黒蝶の美貌が歪んだ。明確な嫌悪や恐怖の形が表れるように。
「……大人にもなって怖がるとでも?」
「頭を冷やしなさい。……魔蟲、連れていきなさい」
「いえ、結構。私の脚で赴きます」
「……そう」
呼び出されて入室した魔蟲の横を、黒蝶は颯爽と通り過ぎる。
その後ろ姿を魔蟲と共に見送ってから数秒。〈栄螺〉にとって玉座に等しい椅子にドカリと座り込む珠媽は、頭を抱えて嘆息した。
「……一体、どうして……」
「御嬢様もお年頃です」
「……ねえ、魔蟲。私は間違っていないわよね?」
「ええ、勿論」
背中で手を組む魔蟲は、鷹揚に頷いた。
一切の躊躇いも思考も介在していない、いっそ軽薄に聞こえる返答だろう。
「そう……そうよ。私は間違っていない。これが組織の為。これが──」
ただ、それを聞いた珠媽はというとその限りではない。
魔蟲より言い放たれた言葉を、まるで自分に言い聞かせるように何度も何度も繰り返す。鼓膜に焼き付くまで何度も唱え、ようやく面を上げられるようになった頃、そこには〈栄螺〉龍頭の顔があった。
「……魔蟲。改めて確認するけれど、あの子を迎えに来る使者の話は?」
「恙なく」
自信満々に言い切る片腕の言葉を、珠媽は微塵も疑わない。
彼とは随分長い付き合いだ。素浪人同然だった魔蟲を見出して以降、メキメキと頭角を現す彼を夫共々重用していた。夫の死後も、傾いた〈栄螺〉が今日まで存続しているのは、彼の尽力によるところが大きい。
魔蟲が言うなら間違いない。
それは夫を失った大黒柱の、唯一身を預けられる拠り所であった。
「……ならいいの」
椅子に深く腰を掛け、背もたれに寄りかかる珠媽。
その際、珠媽は自身の視界を覆う掌を見つめた。
(……この手で、あの子を……)
痛い。
未だに黒蝶を張った余熱が掌の細胞を焼いている。熱は血管へと伝播し、血液へ、そして心の臓もジリジリと焼き焦がす。
「……黒蝶」
瞼を閉じて我が子の名を呼べど、応えてくれる筈もない。
「そうご心配なさらずとも、御嬢様も愚かではありません」
きっとご理解してくださるでしょう、と。
傍に立っていた魔蟲は珠媽を労わる言葉を投げかける。
いつもの笑み、変わらぬ笑みを湛えて。
仮面のように変わらぬからこそ、いつも通りは安心感を与える。
しかし、仮面であるが故に、その奥に隠れた表情を知ることもまた不可能なのだ。
***
「黒蝶様、それでは此方へ……」
「ええ。散歩に付き合わせちゃって御免なさい」
珠媽との初めての親子喧嘩を経てすぐ後。
黒蝶は見張りに見届けられる形で、城砦の最上階にある一室へ足を踏み入れた。すぐに後ろで扉が閉まる音が鳴り響けば、瞬く間に周囲は暗闇に染まり上がる。
「ハァ……」
ここがそう。
珠媽が『仕置部屋』と称していた一室。窓もなく、明かりも一切与えられない無明の空間と化す。
壁は分厚く、扉も鉄製。女一人ではどう足掻いたところで逃げられぬ監獄に等しい場所だった。
(掃除だけは行き届いているのね)
マメなことだと黒蝶は珠媽──義母に得も言われぬ嫌悪感を得た。
これではまるで、自分が此処に戻ってくると知っていたかのようではないか。
この仕置部屋、その名に反して閉じ込められた人間は、彼女の知る限りでは黒蝶自身であった。
義父が死に、随分と
だからこそ、この部屋での過ごし方も黒蝶は熟知していた。
(──さっきの御母様の言葉が気になるわ)
無限にも思える時間を活用し、現状を整理する。
(
黒蝶は当時の──自身が皇帝暗殺未遂の冤罪を掛けられるきっかけの事件を振り返る。
あれは後宮の妃として、遂に皇帝の夜伽に誘われた日だった。
類稀なる美貌は、不能の老爺さえ立ち上がらせると触れ込まれた黒蝶だ。老境に差し掛かり夜伽の頻度も少なくなった皇帝であったが、幾度かの逢瀬を経てからは早かった。
あの日は朔だった。
妖しく揺らめく蝋燭だけが二人を照らす中──突如として
(
まるで自分が同衾する機会を狙っていたかのように。
だが、黒蝶の対処は迅速かつ完璧だった。
皇帝の容態から用いられた呪術が蟲毒であると看破。自身もまた道術に精通する立場から、皇帝に掛けられた呪いの解呪を試みた。
結果として皇帝は死に至ることはなかったが──その際の処置を目撃され、黒蝶には皇帝暗殺未遂の嫌疑を掛けられたのである。
(あれは間違いなく私を陥れる為の罠。主上と私が同衾する機会を知り得る立場の人間)
が、
問題は『主上の崩御』──即ち『皇帝が死んだ』という部分だ。
(呪殺で体が弱ったのが祟って? いいえ、違うわ。誰かが主上を殺したに違いない)
今代──否、既に先代と化してしまった故人は、自分が生まれる前まで、随分浮き名を流していたと噂を聞く。
皇后を傍らに置きながら、後宮に居る多くの妃に手を出し、子を産ませた。
それ自体は後宮の役割に則っているとも言える為、一概に悪いとは言えない──生まれた男児の数が相当数に上らなければの話だが。
(現状、皇位継承権を持つ男児は皇后との間に生まれた第一から第三皇子までとされているけれど……)
確認されているだけでも男児の数は優に十を超える。
それすなわち、上の皇位継承権を持つ人間が死んだ場合、継承順位が繰り上がる人間が出てくるという意味だ。
無論、それは嫡流たる第一・第二・第三皇子とて変わらない。
三人の皇子が死ねば、継承権は庶流の男児に引き継がれるだろう。年齢的に現皇后も新たな子を為せぬ以上、それはほぼほぼ決定事項だろう。
(なればこそ、皇帝を殺したのは継承権を持つ関、係……)
そこまで巡っていた思考が、途端に停止した。
直後、黒蝶は思い出したかのように息を吸い込んだ。掃除が行き届いているとは言え、こうも密閉された空間ではどうにも臭いが籠る。碌に換気もできない以上、手の届かない天井には黴が生えている筈だ。
空気を吸い込んだ際、黴と自身の体臭が混じった生温い空気が肺を満たし、途端に気分が悪くなる。
そこでようやく自分が汗を掻いているのだと気づく。
額を拭えば、ヌルリとした感触が手の甲に伝わる。酷い脂汗だ。
「ハァ……ハァ……」
体温も高い。
密室で熱が籠る所為だ。
気分が悪い。
黴と汗の臭いの所為だ。
心臓が痛い。
悪化する動悸の所為だ。
「ハァッ……ハァッ……!」
子供の時からこうだった。
暗い部屋に閉じ込められる度、過去の
最終的には平静をも失い、思考する力は奪われ、ただただ暗闇に怯え震える一人の少女になってしまうのだ。
「大丈夫……大丈夫……ッ!」
それは大人になっても変わらない。
だから嫌だった。
あの狭くて暗い駕籠の中に押し込められ、一人震えていた時間は。
「だいじょ、だいじょうぶ……!」
最早呂律も回らない。
全身が熱いのに、寒気が止まらない。自分の体温と、吐き出した呼気によって温さを増す陰気が、一層気分を不快にさせてくる。
「……て」
黒蝶にとってこの暗闇は地獄だった。
永遠にも思える監獄そのものだった。
いつ解放されるかも分からぬ無明の道を歩かされているような気分だ。不意に何者かに襲われたとして、自分は何も反応できぬままに弄ばれることだろう。
故に、黒蝶はあの日と同じようにひたすらに祈る。
(羅鈿……)
脳裏に過るは、
駕籠が開かれ、差し込んだ光と共に顔が覗く。まるで暗雲の隙間から現れる太陽を彷彿とさせる一幕だった。
そこで黒蝶は、後宮に居た頃に『月の女神』と持て囃されたことを思い出す。
月は神話において美を司る。だが、月は太陽が無くては光り輝けぬもの。持て囃す他者の存在が居なければ月は陰り、終には夜暗に飲まれゆく。
そうなれば誰も月になど見向きはしない。気づきもしない。照らされた月面のあばた模様になど目もくれない。
所詮、自分はその程度の人間だった。
自嘲する黒蝶の頬に雫が伝う。彼女を月とするならば、それは月の雫だった。誰にも打ち明けられなかった、秘めた想いそのものだ。
やがて、雫は頬を伝って零れ落ちる。
誰にも拾い上げられぬ雫は弾け散る。宝石が砕かれ、石ころとなるように。
その想いは誰にも汲み取られることもなく、露と消える。
『黒蝶ォーーーーーッ!!』
──筈だった。
闇を劈く声に、ドクンと胸が高鳴った。
『黒蝶ォー!! どこだァー!?』
一度は幻聴を疑うも、しかし、それは暗雲の如き分厚い壁を貫き、この両耳の鼓膜と全身震え上がらせるではないか。
でもどうして?
結果的に自分は彼を裏切ってしまった。嘘を吐く形になってしまった。
それどころか金も払わず、身内が背中から撃つような恩を仇で返す形だ。
高鳴る鼓動と共に膨れ上がる期待。その厚かましい自分の希望を黒蝶は振り払おうとした──が。
『
暗雲は、完全に吹き飛ばされた。
「っ……羅鈿!」
独りぼっちの闇の中、少女は遂に光を垣間見た。
交わした約束──“信義”の道を信じて進む男を。