──恵まれた者にこそ奉仕の責務がある。
それが『
生まれは蒼爪。
育ちは花街。
そして、父親は花街でも三本指に入る高級妓楼の楼主。だから俺は生まれてこの方、食べるに苦労した覚えはない……所謂、お嬢様という奴だった。
人並みの教養に、人並みの良心。
それさえ持ち合わせていれば、花街の路地裏に広がる惨憺たる世界を許せないと思うのは必然だった。
飢えた子供に食を与え、客を取れぬ夜鷹には職を与えた。
それでも尚、一向に改善しない現実に嫌気がさして、俺は後宮の門を叩いた。
皇后にさえなれれば、国を変えられると思ったからだ。
だが、それが甘い考えだと気づくには時間は掛からなかった。
後宮は糞だ。腐っている。
腐った糞でも畑の肥料には使えるのに、腐った後宮は何の役にも立ちはしない。
権謀術数渦巻く悪女の園。
全員が全員、皇后という皇帝の絶対的権力を利用できる立場を狙いつつ、政敵や商売敵の排除に勤しんでいる。
『ならば悪女以外は?』──ただ善良なだけの女は、とっくに毒を盛られて死んでいた。後宮とはそういう場所だ。
だからこそ、後宮でのし上がる為には非情さが必要だった。
人の命を道具として使い潰す覚悟。人としてあるまじき非情さを養わなければ、後宮で生き抜くことはできない。
最たる例は毒見役だろうか。
妃が直接口にする食事に毒が盛られていないか確認する重要な役職。もし仮に毒が盛られていた場合、当然のことながらそのまま命を落とす。
『誰かッ! 誰か医官を呼べッ!』
だが、これは信頼できる人間にしか任せられない。
何故なら毒見役が他の妃と繋がっていた場合、
年に何人もの妃が、この手口で死んでいる。
──なればこそだった。
『おい、しっかりしろ!? おい!』
『香羅、様……がっ……!?』
『ッ……!? 医官はまだか!? 早く!!』
たかだか高級妓楼の娘風情が、皇帝の寵愛を賜ることを良ししない妃は多かった。斯くして毒牙は剥かれた。ただし、毒を受けたのは毒見役。花街時代から俺を慕い、小判鮫の如く四六時中付き従ってくれた侍女の一人だった。
『
金はあった。
力もあった。
なかったのは、人を使い捨てる覚悟。
義理とやらも人情とやらも、後宮では何一つ役に立たないと思い知った。
『──失礼』
『私なら、その方をお救いできるやもしれません』
ひらりはらりと、まるで、窓より入り込んだ胡蝶のように現れた女。
『胡 黒蝶……?』
それが、俺と奴との出会い。
俺が唯一、後宮に見出した──
──価値そのものだった。
***
「ひ、ひぃ……」
いよいよ日も沈もうとする逢魔が時。
空を染め上げる赤色が、男の足元の地面も彩っていた。ただしそれは色鮮やかな夕日の紅などではなく、人体より溢れるドス黒い赤。
「骨がないのォ」
広がる血の海に一匹の鮫──否、和仁が佇む。
見上げんばかりの背丈は血で彩られ、精悍な強面にも血化粧が施されていた。
「これじゃから田舎の黒道は。都会のはもっと歯応えがあったんじゃが……のォ!」
また一人、大の大人が宙を舞った。
背丈よりも高い空中へと打ち上げられた男は、そのまま地面に激突し、苦悶の声を上げるしかなくなる。それだけの光景が、一体何度繰り返されただろうか。
(
──強い。
これだけの光景が生み出される間、傍観者に徹していた羅鈿が下した評価だった。
あの和仁という男はかなりの手練れだ。
通常、どれだけ強い武闘家であろうとも、何十人にも囲まれれば手傷の一つや二つも負うし、相手が得物を使ったならば負ける可能性だって十二分にある。
「フゥ! ……これで終いか?」
だが。
和仁の肉体には、傷の一つも刻まれていない。無傷も無傷。誰が見ても疑いようのない完全勝利であった。
(どんな頑丈な身体してんだ?)
羅鈿は眉を顰め、同時に目も細めた。
確かに見たのだ。黒道の打撃や得物が和仁の体に突き立てられる瞬間を。
(服の下に鎖帷子でも着込んでんじゃねェか?)
そうだとしか考えられない。
何かしらの防具を身に着けていなければ、鉄製の刃を突き立てられ、無傷で済む筈もない。だとしても、着込んだ上であれだけ暴れていたのならば大したものだ。
「……バケモンが」
──もし奴が敵に回ったら。
そんな可能性が脳裏に過り、羅鈿も思わず険しい表情を湛えた。
「カカッ。格好いいところ全部持っていかれて羨ましいじゃろ」
が、すぐさま毒気を抜かれてしまった。
食えない奴、あるいは人を食ったような奴。
何を考えているかも分からないからこそ、裏ではこちらを小馬鹿にしていたところで真偽を判断することも叶わない。
「別に」
「面白くないのォ。それじゃあ伎女の姉ちゃんにも呆れられるぞ」
「興味もねェ」
「興味がない? まさか主……儂狙いか?」
「もっと興味がねェ」
つまり、真面に取り合うだけ無駄だ。
羅鈿は遠い場所を見つめ、生返事を返す。
「……つまらん奴め」
どうとでも言え。
羅鈿は心の中で毒づいた。ここ最近、ただでさえ悩みの
「どォでもいいからよ、道の邪魔だからそいつら片づけとけよ」
「んなッ、手伝ってくれんのか!?」
「自分の尻は自分で拭け」
「ちぇ。はいはい……」
何はともあれ敵は倒れた。
これで一安心と安堵の息を吐く羅鈿は、再び護衛としての責務を果たそうと──。
「──こいつを見ろォ!!」
その時、けたたましい声が響いた。
「ッ……野郎!」
「動くな! さもなきゃ、この餓鬼のド頭が吹っ飛ぶぞ!」
頭から血を流す男。恐らく一度和仁にやられた黒道だろう。
それが何を考えてか無関係の子供を人質に取っていた。しかも、こめかみにはある凶器が突き付けられている。
(銃か!)
銃──鉄砲とも呼ばれる最近になって万華国に伝わった武器だ。
詳しい原理こそ知らない羅鈿であるが、その威力が弓矢に引けを取らない代物だという噂は知っていた。
「ほォ……堅気の人間を盾に、か」
「う、動くんじゃねェってんだろ!」
あからさまな怒気を放つ和仁に、恐れ戦いた黒道が半狂乱になって叫んでいる。尋常ではない男の様子とこめかみの痛みに、人質らしき子供はワンワンと泣き喚いている。
「おい! どうする──」
「おい、其処のォ! 儂を狙うんならよォ~く狙えよ?」
「ハァ!?」
「主らのような外道から堅気の盾になるのが儂ら江湖」
──本望だ。
和仁はそう言い切るや、両腕を広げて不動の構えを取った。
堂々たる構え。そして、堂々たる背中だった。
彼の人となりを知っていなければ見惚れてしまいそうな立ち姿に、羅鈿も思わず息を呑む。
「あ、当たらねェと舐めてんだろ! そうだろ!?」
「いいや。ただのォ、主如きのタマじゃあ儂のタマは取れんと思った──それだけじゃ」
「て……てめェーーーッ!!」
遂に怒りと恐怖、両方の我慢の限界が来た黒道が銃口を向けた。
狙いは当然、和仁の身体だ。幸か不幸かあれだけの巨体だ。適当な狙いでもどこかしらには当たるかもしれない。
故に、致命的な部位に命中する可能性も──。
引き金が絞られる。
火薬が爆ぜるまで、あと数秒もない。
「──おらぁ!!」
「んなッ!? ぎゃ!!」
だからこそ、羅鈿は動いた。
いや……そうでなくても彼は動いただろう。軽快な動きで路傍の石を掴んだ彼は、正確無比な狙いで銃を握った黒道の手元を狙撃。
小石と火薬が炸裂する轟音は、ほとんど同時だった。
「グッ!?」
「和仁!! クソがァ!!」
「ひ、ひィイイイ!? ぎぎゃ!!」
駆け出した羅鈿。
その時、彼は横目で脇腹から血を流す和仁の姿を垣間見た。間に合わなかった──忸怩たる思いを抱えたまま全力疾走する彼は、そのまま義憤を乗せた拳で発砲した黒道を殴り飛ばす。
当然一撃だ。
人質の子供も殴り飛ばす際に回収し、無傷であることを確認する。
ただそれよりも、羅鈿は凶弾を浴びた男の方を心配していた。
堅気の盾となり、自分の犠牲を厭わなかった武侠の士を──。
「おい無事か!? すぐ医者を──」
「安物の銃じゃのォ。薄皮一枚で止まったわ」
「うおおおお!?」
「あいだァ!? おい、今何故殴った!?」
「撃たれて平気なバケモンに吃驚したからだよ!!」
無事だった。
思わず手が出てしまうくらい、無事だった。
「手前ェ人間か!? 物の怪の類じゃねェだろうな!?」
「何を言う、儂ほど男前な人間はそうそう居らん。それにこの程度の傷──むんっ!」
撃たれた部位に力を込める和仁。
すると、流れていた血が止まるどころか、みるみるうちに内側より肉が盛り上がって傷口が塞がった。
「んなっ……!?」
「儂の龍気にとっちゃ、この程度傷の内にも入らんわ」
「……バケモンじゃねェか」
人外染みた再生速度。
しかし、それが『龍気』の仕業であると説かれた羅鈿は思わず納得してしまう。人体から木々を燃やす熱を放てるような代物だ。肉体の再生速度を操れてもなんらおかしい話ではない。
「ハァ……俺が出る幕なかったじゃねェか」
「なんじゃ? 心配してくれたのか」
「ああ、そうだよ」
取り繕わぬ真っすぐな言葉に、今度は和仁が目を見開く番だ。
「黒道の所為で子供が死ぬのは御免だ。その子供を守ろうとした馬鹿もだ」
「……」
「俺は黒道が嫌いだ。無関係の人間を食い物にする黒道が……どうしても」
深い溜め息を吐いた羅鈿は子供を下ろす。子供に向ける優しい眼差しは、どこか憂いを帯びているように見えた。
その姿を見ていた和仁はと言えば、
「なんじゃ──主は儂の好きな
「は? 急に何言って……」
「今日から儂らは兄弟じゃ! 同じ道を往く者同士、仲良しこよしが一番じゃ」
「よォし、縁切りの作法を教えろ。今すぐにだ」
突拍子のない提案に青筋を立てながら、羅鈿は拒絶する。
「誰がてめェと兄弟になんてなるか! 俺の兄弟はなァ──」
『おい、居たぞォ!』
「あ゛?」
殴り合いの喧嘩が始まりそうな空気の中、またぞろ強面の集団が現れる。
「んだよ。おかわりか?」
「意外と数が多いようじゃのォ」
「おら。さっさと片づけてこいよ。俺はここで眺めて──」
「あいつだ! あの小さい方!」
「胡 黒蝶を横から掻っ攫った奴だな」
「捕らえて居場所を吐かせろ!」
「
「みたいじゃのォ! ……いらっしゃいませェーーー!」
「いらっしゃらせるな!」
今度現れた輩──もとい黒道の標的が自分(と黒蝶)であると知り、羅鈿は吼える。
「あー、クソッ! だから顔を売りにする商売はやめろって……!」
「どうする兄弟?」
「あ゛あ!?」
「苦しそうなら手を貸すぞ」
ニコニコと笑う和仁の提案。
それが親切心なのか煽っているのか、傍目から見ると全く分からない。
だからこそ羅鈿はこう切り返す。
「気持ちだけ受けとっとく。子分の手を煩わせる訳にはいかねェからな」
「……あ゛?」
「違うか?」
効果覿面。
屈託のない顔から放たれるドスの利いた声は、腹の奥底に響く地鳴りのような低音だった。
「好き勝手言いおって──気に入った」
羅鈿の横に歩み出る和仁が身構えた。
震脚と呼ばれる足踏みで地面を揺らし、殺気立っていた黒道を一瞬にして牽制する。
「ならこういうのはどうじゃ? より多く倒した方が『兄貴』と」
「勝手に言ってろ。ま、どっちにしろ俺が勝つがな」
「言ったな?」
「言ったさ」
「吐いた唾は飲み込めんぞ」
両雄が、横に並び立つ。
「さっきからごちゃごちゃと……構わねぇ!! どっちも豚饅頭にしてやれ!!」
頭らしき男が吼える。
そして今日、この町に巣食う黒道は潰えた。
たった二人の義勇の士の──
***
熱い。
それはきっと、部屋全体に満ちる蒸気だけのせいではないだろうと黒蝶は感じた。
「……香羅様」
目の前の女が放つ“熱”。
自分を勧誘しようとする思いの熱量が、今、この勧誘の場を灼熱と錯覚させているのだ。気分はさながら背水。それも流れるは溶岩流だ。
逃げて水に飛び込もうなどという甘い考えは許されない。
答えは今、この場で出さなければならなかった。
「いえ──
言い直す黒蝶に香羅──否、愛渦の眉が顰められる。
「黒蝶?」
「心苦しい限りですが……
「……それは、つまり」
「申し訳ございません」
勧誘の拒絶。
歯に衣を着せた物言いではあるが、つまりはそういうことだった。
「……成程な」
はぁ……、と愛渦が深いため息を吐いた。
「じゃあ──」
次の瞬間だ。
「
愛渦の両手が、黒蝶の逃げ場を塞ぐよう壁に突かれていた。
目にも止まらぬ速さだった。おおよそ常人が出していい速度ではない。
「
「淑女の嗜み程度にな」
薄っすらと愛渦の両手を覆う翠色の龍気。
荒々しく棘だった龍気は、少し触れるだけでも傷つくであろうという確信を黒蝶に抱かせた。
強引に逃げ出すことは不可能だろう。
仮にそうすれば、左右の退路を塞ぐ両腕に顔や体がズタズタに引き裂かれてしまうかもしれない。
まあ、その前に眼前で揺れる二つの果実に埋もれる方が先かもしれないが……。
そこまで想像を膨らませたところで黒蝶は笑った。
「ふふっ」
「……ぷっ」
それを見た愛渦もまた吹き出す。
すると彼女はそのまま両手を上げた。文字通りのお手上げだった。
「冗談だ。お前に不義は働かん。……本気にしたか?」
「まさか。情熱的なお誘い、胸が高鳴りました」
「どうだかな」
愛渦は再び黒蝶の隣に腰を下ろす。
すでに発していた龍気は収めていた。
「今回も……“そう”なんだろう?」
「私、“道義”に悖らない行為は好みじゃないので♡」
「ふはっ!」
思わず吹き出す愛渦。
彼女がこういう女であることは昔から知っている。そして、そのような彼女を好ましいと自分が思っていることもだ。
「下女の命一つの為、妃を敵に回した女が言うと説得力が違うな」
「いいえ。正確には『家族を人質に取られ、鉄砲玉を引き受けざるを得なかった下女』です。私は引き金を引いた張本人を白日の下に晒し上げただけのこと」
「裁判で泣き喚くあの糞妃の顔は傑作だった。今思い出してもいい酒の肴だ」
「やだ、はしたないですよ」
朗らかな笑顔の裏で、語る内容は中々に血腥い。
要は下女の冤罪を暴き、主犯の妃を裁判にかけた──表面上はそれだけにしか聞こえないが、その実、同様の手口を多用する妃と下女から黒蝶は大いに注目を集めた。
いい意味でも、悪い意味でもだ。
「妃と下女など、天秤に掛けるまでもないだろうに……俺に売った“恩義”、高くついただろう?」
「道義に悖っただけです。それに、香羅様と結んだ縁はそれに勝る価値がありました」
「……ほう」
──嬉しいことを言ってくれる。
──だが、それ以上に。
「……耳が痛いことを言ってくれるな」
「あら? 御免なさい。そんなつもりは」
「いいさ、自覚はある」
今、此処に居る女の名は『愛渦』だ。
後宮で威風堂々たる凛然とした姿を見せていた『梅 香羅』ではない。事情はどうあれ、後宮を去る、それすなわち、黒蝶を置いていったに等しい所業だ。
「代わりと言っては何だ、手を貸そう。借りた分の恩義は返す。そうだな……玄甲まで護衛でもしてやろうか?」
「いいえ、それには及びません」
「……ツレないな。旧知でも黒道の手は借りたくないか?」
「そうではありませんよ」
「なに?」
面食らう愛渦に対し、黒蝶はクスクスと悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「だって、心強い
「……拾った野良犬が、か」
「ええ。とっても頼りになる
黒蝶自身、自分を狙う刺客が居ることは承知済だろう。
その上での断言だ。愛渦も、その飼い犬とやらに俄然興味が湧いてくる。
「成程。お前にそこまで言わしめるとはな……なら、直接確かめてやる」
「愛渦様がですか?」
「いや」
全身から汗を滴らせる愛渦は、徐に立ち上がるや出口に向かって指を指す。
「外が静かになった。大方、お礼参りに来た雑魚を追い払ったんだろう」
「あらあら、それは……」
「面子を潰された黒道のご尊顔、ぜひとも拝みに行ってやろうじゃあないか」
「そうですね。良い汗を流したことだしっ」
「早く着替えるぞ」
──でないと見逃す。
頼りになる護衛を引き連れた自覚のある美女二人は、優美に、それでいてやや急ぎ気味に着替えに赴く。
支度を整え、いざ外へと出れば──。
「いいや! 俺の方が倒した!」
「いいや! 儂の方が絶対多い!」
「馬ァ鹿! ちゃんと数えろ!」
「主の方こそサバを読んでるじゃろう!」
「あ゛ぁん!? 指の数しか数えられそうにねェ脳筋がよく言うぜ!」
「ん、一人? ああ、負け犬の遠吠えと聞き間違えたわ、カカッ!」
「じゃあ、てめェを倒せば二人になるか?」
「おお、助かる。主の指の数も合わせて数えようかのう」
口喧嘩する二つの人影。
喧嘩するほどなんとやら、とは言うが──。
得も言われぬ雰囲気に閉口する黒蝶と愛渦。
次の瞬間、彼女達に気付いた
「……よ、よぉ」
「お、お頭……早かったのぉ……」
「早いも何も話は済んだ。それより──」
「これは、一体、なに?」
整った眉毛を悩ましく歪める黒蝶。
それを見た羅鈿は咄嗟に胸を押さえる。
まだ胸は痛まない。
しかし、状況にそぐわぬ微笑みを湛える黒蝶は、羅鈿の傍まで歩み寄っては耳元に口を寄せる。
「
「い──いやいやいやいや!? 破ってねェ!! 破ってねェよ!! なァ!?」
植え付けられたトラウマから必死に否定する羅鈿は、救いの目を隣の大男に向ける。
四半刻も前ならば、和仁もここぞとばかりに嘲笑していただろう。けれども、彼の目の前に立つ美女がそれを許さない。
和仁より一回りも二回りも身長は低い。にも拘わらず、全身より放つ威圧感──逆立った殺気は、涼しい顔をしていた和仁に夥しい量の冷や汗をかかせていた。
「和仁。俺の言いつけを守れなかったのか?」
「な、なな、何を言っとるんじゃお頭!! 儂がお頭の言いつけを破ったことが一度でもあったか!?」
「そうだな。この前で九十八……昨日で九十九……ああ、これでちょうど百回目か? 記念すべき大台だ。折檻するにしても、折角なら派手に──」
「破っておらんぞ!? なァ!? 儂ら、ここで仲良くしとったなぁ!?」
情けない男共であった。
濡れた子犬のように震えて怯える和仁の視線に、同様の状態である羅鈿は凄まじい速度で首を縦に振る。
「応とも!! 仲良くしてたぜ!!」
「儂らはもう兄弟じゃあ!! のぉ!?」
「……あっそ。それなら良かった」
「帰るぞ、和仁。長居は不要だ」
ニヨニヨと微笑みを崩さぬ黒蝶。
一方、用事は済んだと愛渦は足早にこの場から去る。
羅鈿と仲良し
「お、お頭ぁ!?」
「──ああ、そうだ」
「ゔッッッ!?」
駆け寄る和仁の巨体が一瞬宙に浮く。
羅鈿の目には見えていたが、愛渦の細腕が和仁の鳩尾に叩き込まれたのだ。しかし、余りにも一瞬の出来事過ぎたが故、周囲の人間からはただただ急に巨漢が蹲り始めたようにしか見えないだろう。
(ヤ、ヤベェ女……)
「──〈
「あ?」
「やりたいことがあるなら急げよ、黒蝶」
「〈白幇〉……?」
羅鈿が素っ頓狂な声を上げるも束の間、言うだけ言った愛渦は、蹲る和仁の首根っこを掴んでは引き摺り去っていく。あれではまるで散歩中に言うことを聞かなくなった大型犬のそれだ。実に哀れな姿である。
しかし、問題は彼女の発言。
「……って、なんだよ」
「……」
「おい、黒蝶。どうせ知ってんだろ。教えろよ」
「……明日、此処を発つわよ」
「はあ? お、おい!」
質問にも答えず、黒蝶は足早に動き出す。
向かう先こそ共に泊まり込んでいる菜館だが、羅鈿はどうにも彼女の目指す場所が違っているように思えた。
まるで、何かから逃げているような──。
「──黒蝶!!」
「! ……何かしら?」
「俺は、死ぬまで守るぞ」
急ぎ足で離れゆく肩を掴み、羅鈿が言い放った言葉。
それを聞いた黒蝶は目を真ん丸と見開き、言い放った青年をじっと見つめる。
「……え」
「そういう契約だ。忘れんな」
「ちょっ……」
今度は羅鈿が逃げ去る番だった。
言うだけ言って黒蝶の前を行く青年。しかしながら、黒蝶とはつかず離れずの距離を保っている。
(羅鈿……)
耳の奥に残る青年の声。
優しく、それでいて力強い声に黒蝶は口角を吊り上げる。
そのままちょこちょこと駆け足で羅鈿に近寄り、彼の耳元へ唇を寄せる。
そして──。
「耳真っ赤よ?」
「っ……気のせいだ」
「柄にもない台詞は恥ずかしい?」
「
時刻は夕暮れ時。
紅く焼けるように染まった耳を落ちていく太陽の所為にして、羅鈿と黒蝶は帰路についた。
つかず離れず。
互いの距離を保ちながら──。