静寂。
室内に漂うのは、焚き染められた
東方の島国に伝わる独特な作法で座し、一人の女剣士が瞼を閉じていた。
腰まで伸びた黒髪を紐で一本に括り、身に纏うのは異国の着流しに、西洋の革鎧や手甲を合わせた装束。
その膝の上には彼女の魂とも言える一振りの大太刀『
……雑念が、消えぬか。
彼女は重く息を吐き、瞑想を解いた。
脳裏に去来するのは、故郷にて幾度となく浴びせられた言葉。
『惜しいな。男子であれば、間違いなく流派を継げた者を』
『所詮は女だ。どれだけ技を磨こうと男には勝てん』
東方の島国にある古流剣術『
その長子として生を受けながら、カグラ・アマギリは『女である』というただ一点の瑕疵によって、家督を継ぐことを許されなかった。
無念であった。
誰よりも剣を愛し、誰よりも修練を積んだ自負があった。
それでも認められぬのであればと、彼女は家を出て、海を渡った。
海の向こうで名を上げて、己を蔑んだ者たちを見返すために。
女という枠組みを超えた武人の境地へと至るために。
だが、現実は非情であった。
海を超えた先の大陸もまた、彼女にとっては
『女になど、背中を預けられるか』
『戦場は男のものだ。女は大人しく
傭兵団の門を叩けば、返ってくるのは品定めの視線を卑猥な嘲笑のみ。
剣の腕を見せつけ、如何に敵を屠ろうとも功績が正当に評価されることはなかった。
ある時は『女相手に油断した敵の隙を突いただけ』と嘲られ、ある時は『卑怯な手を使ったに違いない』と唾棄された。
手柄は無能な男たちに横取りされ、彼女に与えられるのは屈辱だけ。
――所詮は女だ。
その言葉は呪いのように、どこへ行こうとも彼女の纏わりついた。
剛剣を振るい、岩をも砕く力を示しても、世界は決して彼女を『武人』としては認めなかった。
流浪の果てにたどりついたこのサットン村でも、その扱いは変わらなかった。
村一番の有力者で、伯爵家とも繋がりのあるボルツ家の食客。
聞こえはいいが、要は珍しい東方の女剣士というお飾りでしかない。
家長の
剣を振るう機会などは皆無。
求められるのは、ただ領主の後ろに立ち、その威光を引き立てることのみ。
齢二十を超えて未だ何も為せていない焦燥感と、腐り落ちていく自尊心。
それらが海の底の澱のように積もり、彼女の精神を蝕んでいた。
私も、まだまだだな……。
彼女が己の精神の未熟さを噛み締め、再び瞑想へと入ろうとした時だった。
――ドタドタドタッ!
……と、廊下より乱暴な足音が響いてきた。
続けざまに扉が勢いよく開け放たれる。
「おい! いるんだろ!」
そんな無礼な行いをした者は彼女が仕えるボルツ家の一人息子、ドランであった。
その相貌は憤怒に歪み、両目は血走っている。
「……何用でしょうか、若君」
カグラは瞼を開けず、努めて冷静な口調で応じた。
「命令だ! 武器を持って付いてこい!」
「武器を? それは、如何なる理由にて?」
「叩きのめさないといけない奴らがいるんだよ! お前はうちの用心棒だろ! だったら俺の言うことを聞け!」
金切り声で胡乱なことを言うドランに、カグラは柳眉を顰め、静かに首を振った。
「恐れながらお断り申し上げます。某の剣は、そのような私怨を晴らすためにあるのではございませんので」
武の高みを目指す者が、子供の喧嘩に介入するなど言語道断。
ましてや、主家の息子とはいえ、あからさまな暴力の片棒を担ぐなど、武士の矜持が許すはずもなかった。
「うるさい! お前を雇ってやってるのは誰だと思ってる! タダ飯食らいの分際で! ボルツ家の次期当主である俺に逆らう気か!」
やや痛いところを突かれ、カグラは言葉を詰まらせた。
無念極まりないが、今の彼女には行く宛も路銀もない。
武人としての矜持と、明日をも知れぬ現実。
天秤は無情にも後者へと傾いた。
「……承知、仕りました。ご案内を」
彼女は大太刀『鏡花』を手に取り、鉛のように重い足取りで立ち上がった。
その背中は、かつて夢見た英雄のそれではなく、生活に疲れた老人のように小さかった。
***
武の高みを目指して国を出たはずが、童の喧嘩の仲裁とは……。
私も落ちるところまで落ちたものだ。
村の大通りを歩きながら、カグラは自嘲気味に口の端を歪める。
前方では、ドランが鼻息も荒く歩を進めている。
妙にいきり立っているが、所詮は子供同士の喧嘩。
ほんの少し凄んで見せれば、相手も恐れをなしてドランに謝るだろう。
それで彼の気も晴れて、この茶番も幕を下ろすはずだ。
そう高を括っていた時だった。
「いたぞ! あいつらだ!」
ドランが足を止め、前方を指差した。
カグラは気怠げに面を上げ、視線を向ける。
そこでは二人の少女が走っていた。
「し、シオンちゃん……ちょっと、休憩させて……もう……無理ぃ……」
一人は汗だくで、ヘトヘトに疲れ切っている痩身の少女。
「平地を少し走った程度で音を上げていては、いつまで経っても力を制御できぬぞ。使う度に気を失うつもりか?」
「す、少しって……もう村を十周以上も……はぁ、はぁ……」
そして、もう一人は足を止めて、先の少女を叱咤している白銀髪の少女。
その凛とした佇まいを見たカグラは、我が目を疑った。
武が、立っている。
そこにあるのは、見た目通りの子供ではなかった。
地を蹴る足運び、大気を吸い込む呼吸の律動、そして一切の隙が存在しないあらゆるものを見通す眼光。
丹田を中心に練り上げられた気は、針のように鋭く、そして大海のように深い。
自然体にして完成された武の化身――彼女が追い求めた『武の極致』が、人の姿をしてそこに在った。
「おい! 何してんだ! 早くあいつらをやっつけろよ!」
呆然と立ち尽くすカグラの背を、ドランが激しく叩く。
だが、彼女は微動だにしない。
ただ眼前に在る奇跡の存在を見つめることしかできなかった。
「ん? なんだ、また貴様か……その執念は認めるが、実にしつこい奴だな。今度はその剣士に頼るのか?」
「そうだ! ほら! やっちまえ! その剣で斬ってやれ!」
あれを斬る? 私が?
不可能だ。火を見るよりも明らかだ。
あれは人の域にない。武そのものだ。
斬りかかった瞬間に、自分が肉塊へと変わる未来が鮮明に脳裏を過ぎった。
カグラの内心など知る由もなく、ドランが彼女の背中をほとんど殴るように押し出した。
シオンとカグラの視線が交錯する。
底しれぬ深淵を覗き込んだような感覚が、彼女を襲った。
その瞬間、カグラの身体が理性を超えて動いた。
五体投地。最上級の礼。
「どうか……どうか、私を弟子にして頂きたい……!」
彼女はその場に膝をつき、額を地面に擦り付けていた。
矜持も、立場も、全てをかなぐり捨てた魂からの行動だった。
「はぁ!?」
ドランが素っ頓狂な声を上げる。
「な、何してんだお前! 頭おかしいのか!? 早くあいつを斬れよ! 早く!」
ドランが喚き散らし、カグラの背中を何度も踏みつける。
何度も、何度も、思い切り。
だが、彼女は一切反応しない。
土と草の匂いが鼻腔を満たす中、痛みなど感じていないように頭を垂れ続けている。
「……」
シオンは冷ややかな瞳で、その光景を見下ろしていた。
そして、静かに口を開く。
「其れが、貴様の武か?」
それは蔑みの言葉ではなかった。
単なる、純粋なる問いかけ。
だが、その一言はドランの暴力よりも遥かに深くカグラの魂を抉った。
「っ……!」
カグラの相貌が、羞恥で朱に染まる。
私は一体、何をしているのだと。
武の頂きを、長年の目標を目の当たりにした。
それを目の前にして、私は自分を試そうともしなかった。
頂を目指すと吠えておきながら、己は一体何をしているのだ。
恥だ。今、この場で腹を切っても余りある程に大きな恥だ。
「……失礼、仕った」
彼女がゆらりと立ち上がった。
その瞳からは迷いは消え、鋭利な剣気が宿る。
彼女は腰の大太刀『鏡花』を抜き放ち、切っ先をシオンへと向けた。
「我が名は
「いいぞ! やっとやる気になったか! やっちまえ!」
後ろから囃し立てるドランの声は、もう彼女の耳に届いていない。
今、彼女の心にあるのは眼前の『頂』に己の全霊をぶつけるだけ。
ただ、それだけだった。
「……ほう」
シオンは興味深そうに目を細めると、無造作に立ち尽くしたまま頷いた。
「よかろう。その意気や良し。立ち会いの申し出、承った。来るがいい」
「いざっ!!」
神楽が
その動きは、当惑の渦中にいるカノンや、後ろにいるドランの目には見えぬ程に速かった。
だが、彼女の真髄は速さではない。
流派『無天一刀流』は単なる刀剣術に非ず。
独自の呼吸法によって体内に練り上げた『気』を太刀に纏わせる剛力の剣。
か細い腕が振るう大太刀は、岩をも断つ防御不可の刃となる。
更に、彼女にはもう一つの切り札があった。
『
それは、並行世界に存在する『可能性の自己』を呼び込み、現実と重ね合わせる天より与えられし異能。
莫大な気を要するために、具現化できるのは四肢の一部のみだが、戦闘においては絶大な脅威と化す。
重ね合わされた『もう一人の自分』が放つ斬撃は、現実の斬撃と完全な同時に、しかし異なる軌道で放たれる。
一振りにして、不可避の二撃。
理外の秘剣。
如何なる達人とて、同時に放たれた異なる軌道の刃を防ぐことなど――
――――――
――――
――
小鳥の
シエラが洗濯物を取り込もうと玄関の扉を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
「……え?」
家の前で、一人の女性が正座していた。
東方の装束に身を包んだ女剣士。
その顔立ちは本来であれば端正なのであろうが、今は無惨に片側の頬が赤く腫れ上がってる。
「あ、あの……? 大丈夫ですか……?」
シエラが恐る恐る話しかけると、女剣士は背筋をピンと伸ばして、地面につきそうな程に頭を深々と下げた。
「心配御無用! お初にお目にかかる! 貴殿が、我が師の母君であられるか!」
「は、はい……? 師……?」
「某、天霧神楽と申す! 武の何たるかを一から学び直すべく、師の下へ参じた次第! 以後、お見知り置きを!」
カグラの言動に、激しく戸惑うシエラ。
そこへ、学校へ行く支度を整えたシオンが奥から通りがかった。
いつもの無表情だが、普段にも増して面倒くさそうな気配を漂わせている。
「あ、あの……シオン……? この人がシオンのことをなんとかって……」
「うむ。そういうことだ。というわけで母よ。此奴は好きに使ってくれ」
「好きに使ってって……」
「如何様にでもこき使ってください! 掃除、洗濯、水汲み! これも修行の一環故に!」
「ええぇ……」
暑苦しいほどの情熱で叫ぶカグラに、何が何やら分からず目を白黒とさせているシエラ。
今度は仕事道具を背負った父のジョナサンが現れた。
「わっはっは! なんだかよく分からないけど、うちも賑やかになってきたなぁ!」
脳天気な夫の