西の森の深奥。
冒険者たちを一掃し、静寂を取り戻した修羅の庭にカグラは独り佇んでいた。
足元には無惨に逃げ惑った男たちの足跡と、破壊された自然の残骸が散らばっている。
銀等級の冒険者十数人を相手取り、完勝を成し遂げた。
しかし、彼女の心には勝利の余韻や喜色のようなものは一切浮かばない。
彼女にとっての『本番』は、ここからだった。
身体に入った一切の力を弛緩させず、神経を先の戦闘とは比較にならない程に張り詰める。
大太刀『鏡花』の柄を握る手には、じっとりと冷たい脂汗が滲んでいた。
……来る!
背筋を
それは殺気などという、生物が放つ生易しい威圧感ではない。
例えるなら、天災。
巨大な台風の目の前に放り出されたような、あるいは断罪絶壁の縁に立たされたような根源的な死の予感。
太陽が天頂に達し、地上の影が最も短くなった、その刹那――
カグラが果たし状にて指定した刻限。
その瞬間を待っていたかのように、世界から音が消えた。
鳥のさえずりも、虫の羽音も、風が葉を揺らす音さえも。
全ての生命が頂点捕食者の降臨を悟り、息を潜めたのだ。
直後、彼女の頭上の
「――ッ!」
カグラが弾かれたように視線を上げる。
木漏れ日が差す遥か高み――
それはまるで、天空から堕つる白銀の流星。
落下の衝撃で大気が悲鳴を上げ、周囲の木々が爆風に煽られて大きくしなる。
カグラは辛うじて、その初撃の回避に成功していた。
以前の自分では、目で追うことすら叶わなかった攻撃。
それを一撃とはいえ避けられた。
しかし、喜んでいる間など刹那の一瞬もない。
土煙が晴れるよりも先に彼女は動いた。
着地の硬直――その一点のみが、あの怪物に刃を届かせ得る唯一の勝機。
彼女は爆風に逆らい、踏み込んだ。
全身の
視界ゼロの噴煙の中、頼りのなるのは研ぎ澄まされた『気』の感知のみ。
そこに、ある。圧倒的な質量と熱量を内包した、太陽の如き強大な気の塊が。
「――しっ!」
カグラは迷いなく、大太刀を真横に薙ぎ払った。
先の冒険者にしたような峰打ちではない。
剥き身の刃で、首を狙った一撃。
殺す気でやらねば、髪の毛一本斬ることすら叶うはずもない。
――ガィィィンッ!
手に確かな衝撃。
だが、それは肉を断つ感触ではない。
噴煙が風圧で晴れる。
現れたのは、長い銀髪を風に靡かせた少女――シオン・ラングモア。
予想通りと言うべきか、あるいは期待通りと言うべきか、傷どころか砂埃の一粒さえも負っていない。
彼女は左手の甲でカグラの渾身の斬撃を無造作に弾いていた。
名工の打った業物である『鏡花』に多量の気を纏わせた一撃を、素手で。
戦慄する暇などない。
弾かれた反動を利用し、カグラは身体を回転させる。
遠心力を乗せた二撃目、三撃目。
袈裟斬り、逆風、刺突。
呼吸する間もなく繰り出される連撃は、岩をも砕く剛剣の嵐となってシオンを襲う。
しかし、当たらない。
シオンは先程の弾きを除けば、手すら出していなかった。
両手をだらりと下げた無防備な立ち姿のまま、上体の動きだけで猛攻を全て回避していた。
足運びすら必要のない。一切の無駄のない最小限の動き。
カグラの刃はシオンの鼻先数ミリを通過し、白銀の髪を風圧で揺らすことしかできない。
速度の差以上に、練り上げられた武の圧倒的な差がそこにはあった。
カグラが剣を振るうという『意思』を抱いた瞬間、シオンは既に回避行動を終えている。
カグラの額から汗が飛ぶ。
焦燥が募る。
このままではジリ貧だ。
体力が尽きれば、待っているのは敗北だけ。
ならば、理を超えた力で道をこじ開けるしかない。
カグラは呼吸を深く、鋭く変えた。
双眸が青白く輝きを増す。
体内魔力を暴走寸前まで活性化させ、彼女は片手で掌印を結ぶ。
「オン・マリシエイ・ソワカ」
紡がれたのは、陽炎と勝利を司る神への真言。
その言葉が引き金となり、彼女の存在そのものが世界から半分だけ乖離する。
瞬間、カグラの背後から陽炎のように揺らぐ『影』が出現した。
彼女が生まれながらに持つ異能『双重の加護』。
それは並行世界に存在する可能性の自分を、現実に重ね合わせる因果律への干渉。
カグラが振るう『鏡花』の一撃に、コンマ数秒のズレを伴って『二撃目』が追従する。
一太刀を防いだ、あるいは避けたと確信した敵を
しかも今のカグラはそれを一撃のみならず、嵐のような連撃全てに上乗せしていた。
倍加した斬撃の奔流が、逃げ場のない檻となったシオンを全方位から襲う。
何百何千と、ひたすらに太刀を振るい続ける。
斬った。
斬って、斬って、斬って、斬り裂いた。
現実と偏在する可能性による相乗攻撃に、逃げ場など物理的に存在していない。
だが、手応えらしきものが一切ない。
肉を断つ濡れた感覚も、骨を砕く硬質な響きもない。
代わりに返ってきたのは、鬱蒼とした森に似つかわしくない打撃音の連打だった。
「……ッ!?」
カグラが驚愕に見開いた視線の先で、シオンが動いていた。
いや、その言葉は適切でなかったのかもしれない。
彼女はただその場に立っていた。
動いているのは、片手のほんの指先だけ。
子供が遊びでそうするように、指で指を軽く弾き、その力で全ての斬撃を無力化していた。
あまりにも圧倒的な、泣いてしまいたくなるくらいに絶望的な戦力差。
シオンが一歩、足を踏み出す。
ただそれだけの動作が、爆発的な風圧を生み出した。
「ぐっ……!」
カグラの身体が、見えない巨人の手で押されたかのように後方へと退かされる。
それでも彼女はなんとか堪えて、次の一撃を放つために太刀を構えた。
出し惜しみはしない。後のことは考えない。
この日の為に辛苦を舐めて、五年の修行を積んできた。
奥歯が砕ける程に噛み締め、切っ先をシオンへと向ける。
筋肉が断裂しようが、魔力回路が焼き切れようが構わない。
「オン・マリシエイ・ソワカ!」
再びの真言と共に、剣を上段に高く構えた。
カグラの全身から、ゆらりと陽炎が立ち昇る。
それは先程までの外へと拡散していく気配とは異なり、内へと凝縮していくものだった。
「無天一刀流……『双重・
シオンを視界の中心に捉え、全霊の力を以て太刀が振り下ろす。
同時に加護の力によって可能性の自身を偏在させる。
だが、今回の其れは先程までの使い方とは全く異なっていた。
これまでのカグラは、袈裟斬りと逆風を同時に行うような多角攻撃を主軸としていた。
しかし、この一太刀で偏在させたのは、『現実の自分と全く同じ動作を行う可能性の自分』。
現実と可能性のズレを無くし、複数の事象を同一座標に無理やり押し込める。
幾重にも重なった斬撃は単純な加算ではなく、乗算的な破壊力を持ってシオンへと襲いかかった。
斬る。
目標の頭上から股下までを、正中線を完全に捉えた。
確かな手応えを予感し、カグラの刃が振り抜かれる。
轟音。
前方の地面が直線上に爆ぜ、遥か後方の巨木が剣気によって真っ二つに裂ける。
だが、カグラの表情に勝利の笑みは浮かばなかった。
ない。
太刀の延長線上に、切り裂かれた少女の姿はおろか、血の一滴すらない。
あるのは虚しく切り裂かれた大地の傷跡だけ。
「くっ……」
カグラの喉から掠れた声が漏れる。
直撃の寸前に、シオンは既にそこにいなかった。
彼女の最高速すらを容易に上回り、緊急の回避行動ですらない『移動』によって避けられた。
認識の外側。思考の空白。
呆然と立ち尽くしカグラの無防備な背中に、トン……と軽い衝撃が奔った。
ゾクリ……と、心臓が凍りつく。
もし、その拳に殺意が込められていればと想像するだけで恐怖に全身が粟立つ。
そして、自分はまだ彼女にそうさせる域にすら立っていないのだと思い知らされた。
「……参りました。私の、負けです」
敗北の言葉を口にしたカグラの手から太刀が滑り落ちる。
それを保持しておくだけの握力すらも、彼女にはもう残っていなかった。
ガクリ、と身体が落ちて膝をつく。
全身を支えていた緊張の糸が断ち切られ、カグラはその場に崩れ落ちた。
荒い呼吸が肺を灼熱のように焼く。
視界が霞み、指先一本動かすことさえ億劫な程の脱力感。
しかし、瞳だけは眼前に佇む師の姿を見据えていた。
「はぁ……はぁ……」
シオンは涼しい顔でカグラを見下ろしていた。
息一つ乱れていない。汗一つかいていない。
髪には土埃すら付着しておらず、その立ち姿は森の静寂そのもののように美しい。
遠い……。
まだまだ遥か遠い、か……。
五年の歳月を費やし、血反吐を吐くような思いで追いかけた。
多少は近くなっていると思ったが、近づけば近づく程に分かるのはその全容すら掴めない遠大さだけだった。
「シオンちゃ~ん! カグラさ~ん! 大丈夫~! 終わった~!?」
遠くからカノンが二人を呼ぶ声が響いてくる。
「うむ。終わった」
悔しい。死にたくなる程に、悔しい。
だが、だからこそ登りがいがあるというものだ。
カグラはその決心を再び、より強固なものにした。
いずれ、彼女を斬るのは自分だと。
***
――翌日。
サットン村、ボルツ家の屋敷。
最上階の執務室は、重苦しい沈黙に包まれていた。
当主であるガンツ・ボルツは震える手で一枚の紙を握りしめていた。
それは、命からがら逃げ帰ってきた冒険者たちが残した唯一の報告書であった。
彼が期待していたのは、魔物の掃討の報告であり、森の詳細な地図であり、資源の分布図であった。
だが、そこに記されていたのはそのどれでもない。
血と泥に汚れた紙に、震える文字で走り書きされた一行の警告。
『あの森を開拓するのはやめておけ』
それ以外には、何も書かれていない。
誰が書いたのかも、何があったのかも。
十数名たちの精鋭たちがどうなったのかも。
しかし、その一文は雄弁過ぎる程に『絶対的な敗北』と『底知れぬ恐怖』を物語っていた。
「ええい! 役立たずどもが!」
ガンツは顔を怒りに歪めて、報告書をビリビリに破り捨てた。
紙片が雪のように、床へと散らばっていく。
こうして彼の野心は、知らぬ内に三人の武人によって阻まれてしまったのである。