2XXX年。
東京都新宿区。
ここは、ひとことで言い切ることを拒む場所だ。
東京の中心にありながら、中心という言葉だけでは足りない。
そこは通過点であり、集合点であり、ときに迷い込む場所でもある。
朝から深夜まで、人の流れが絶えることはなく、誰もが一時的に新宿の一部になる。
中でもこの歌舞伎町と呼ばれる一角は、新宿という街の感情が最も濃縮された場所だった。
昼と夜の境目は曖昧で、時間はネオンの明滅によって測られる。
朝の薄明かりの中でも看板は眠らず、夜の名残を引きずったまま次の一日を迎える。
歌舞伎町は、欲望と現実が同じ通りを歩く街だ。
楽しみを求める者、仕事に向かう者、行き先を決めきれない者。
それぞれが理由を胸に秘めながら、雑踏へと紛れ込む。ここでは誰もが匿名で、同時に誰もが物語の一部だった
歌舞伎町は何も語らない。
だがこの街は、時折こうして、選ばれた誰かにだけ物語の幕を上げる。
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歌舞伎町の路地裏。
そこに二つの人影があった。
スーツを着た男は、荒い息遣いで薄暗くて狭い道を走る。
彼は、何者かに追いかけられていた。
「はぁっ、はぁ……!」
男の背後で、軽い足音が弾むように近づいてくる。
逃げているはずなのに、耳に届くその音は不思議と楽しげで、余計に背筋が冷えた。
振り返る勇気はない。それでも、視界の端にちらりと映る白い影が、こちらとの差を確実に詰めているのがわかる。
――うさ耳。
路地裏の薄暗い光を反射して揺れるそれが、ありえないほどはっきりと見えた。
フードでもカチューシャでもない。跳ねるたびに、意思を持っているかのようにぴんと立ち、こちらを捕まえる気満々だと主張してくる。
路地を曲がる。息が乱れ、靴底が濡れたアスファルトを滑る。
心臓の音がうるさくて、周囲の雑音が遠のいていく。それでも、背後の足音だけは消えない。むしろ、楽しそうに近づいてくる。
「待って」
高すぎず、低すぎない声が、冗談みたいに軽く投げられる。
命令でも悲鳴でもない。その余裕が、いちばん怖かった。
一瞬だけ振り返ってしまう。
ネオンの下、うさ耳をつけた少女が走っている。
年齢はよくわからない。ただ、笑っている。
その表情が無邪気なのか、狙いを定めたものなのか、判断する前に視線を戻した。
角をもう一つ曲がれば、人通りの多い通りに出られるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、足に力を込める。
背後で、風を切る音がした。
――近い。
うさ耳の影が、地面に自分の影と重なり始めていることに気づいたとき、逃げるという行為そのものが、この追いかけっこの一部なのだと、なぜか理解してしまった。
「光だ……!」
光が見え、路地を抜けた瞬間、足がもつれた。
「えっ……?」
体勢を立て直すより早く、背後から影が覆いかぶさる。
逃げ場を探す間もなく、腕を伸ばしたその先で、柔らかい力が行く手を遮った。
――止まった。
首そのものではなく、襟元に手がかかっている。
押さえつけるほど強くはないのに、逃げようとすると、指先が確かに「ここまでだ」と伝えてくる。
背中に感じる距離の近さに、息が詰まった。
「捕まえた」
耳元で声がする。
近い。思わず身を強ばらせると、ネオンの光が視界に揺れた。
正体不明の少女が、すぐそこにいる。
息ひとつ乱していない表情で、こちらを見下ろしていた。
うさ耳はぴんと立ち、楽しそうでもあり、真剣でもある不思議な目をしている。
追いかけてきた理由を説明する気はなさそうだった。
ただ、逃がさないという意思だけが、静かに伝わってくる。
人の声や音楽はすぐ近くにあるのに、この一角だけ切り離されたように静かだった。
襟元にかかった手は、拘束ではなく合図のようで、ここから先は物語の外には戻れない、そんな予感が胸をよぎる。
「大丈夫、一瞬で終わるから。」
そう言って、彼女はわずかに笑った。
彼女は何も言わず、襟元から手を離すと、代わりに手首を軽く掴んだ。
引きずるような力ではない。逆らおうと思えばできるはずなのに、不思議と足が前に出ない。
人通りのある通りから一歩、また一歩と離れていく。
街の音が遠ざかり、笑い声が壁に遮られて、空気が急に冷たくなる。
気づけば、さっき抜けたはずの細い路地裏に戻っていた。
表の喧騒が嘘のように、古い壁と積み重なった配管が影を落とし、地面には乾ききらない水たまりが光を歪めている。
彼女は立ち止まり、ようやく手を離した。
「ここなら、邪魔が入らないから。」
理由を説明するでもなく、そう言って振り返る。
まるで凶暴な兎が擬人化したような存在が、目を赤く光らせて嘲笑っていた。
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路地裏の奥から、足音がひとつ増えた。
乾いた靴音が静かな空気を割り、影の中からもう一人の少女が姿を現す。
最初の少女と同じように、頭にはうさ耳。色も形もよく似ているが、立ち方と視線の落ち着きが、どこか違っていた。
「ご苦労様です。」
事務的で、感情を抑えた声だった。
労いの言葉のはずなのに、そこには温度がない。
声を向けられたうさ耳の少女は、ほんの一瞬だけ口元を緩める。
その瞬間、拳が動く。
その拳は、捕まった男に振るわれる。
それも、一度ではなかった。
逃げる間も、声を上げる間も与えられず、一定の間隔で衝撃が続く。
ただ感情をぶつけるような荒さはなく、むしろ作業の延長のように、ずっと、淡々と。
男は視界が揺れ、音が遠のいていく。路地裏の壁と地面が近づいたり離れたりを繰り返し、時間の感覚が曖昧になる。どれくらい続いたのかは、もうわからない。
なぜなら、男の意識はとうに失われていたから。
やがて、彼女は動きを止めた。
「……これで大丈夫」
息も乱さず、そう言って振り返る。
「ナツメ、ご苦労様です。状況を確認に来ました」
ナツメと呼ばれた少女は軽く頭を下げた。
「”イチゴ様”。今日はお早いですね。」
「上司として当然です。対象は……大丈夫そうですか?」
ナツメは視線を下げ、地面にうつ伏せになった男を一瞥する。
「はい、殺してはいないはずなので……。問題はなさそうです。」
イチゴと呼ばれた少女は肩越しに路地を見回し、警戒を緩めない。
「このまま引き渡すつもりですか?それとも一度ボスを通しますか?」
ナツメは拳を軽く握り直し、微かに唇を噛む。
「指示があるなら従います。ただ、特にないようでしたら私の方で”掃除屋”に引き渡します。」
イチゴは静かに頷き、声のトーンを少し柔らかくした。
「そうですか。特にボスからの指示はないので、貴方の判断に任せます。」
二人の間に、言葉以上の意思が交わされる。
路地裏の静けさは、二人のうさ耳だけが支配する世界のように、重く、しかし確かな秩序を帯びていた。
ナツメは拳を緩め、うさ耳を揺らす。
「承知いたしました。あとはお任せください。」
ナツメのその言葉によって、この狭い路地裏での物語は幕を閉じた。
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歌舞伎町のネオンの海に紛れるように、ひっそりと灯るバーがあった
。名前は「ラビットキラー」。
一見すると普通の看板も控えめで、入り口には少し年季の入った木の扉があるだけだが、中に足を踏み入れると、外の喧騒とはまるで違う世界が広がっていた。
店内は落ち着いた間接照明が灯り、重厚な木製のカウンターと小さなテーブルが並ぶ。
だが、何より目を引くのは、そこに立つ人々だ。
男性キャストは全体の三割、女性キャストは七割。
全員が頭にうさ耳を付けており、その耳がライトに反射して小さく揺れるたび、店内の空気に独特のリズムを生む。
衣装は統一されていない。
メイド服の少女がカウンター越しにドリンクを手渡す一方で、スーツ姿の男性が静かに会話をリードしていたり、アイドル風の衣装で笑顔を振りまくキャストもいる。
私服のキャストは、どこか自然体で、客と距離を近く保ちながら、店全体の雰囲気を柔らかくする。
ラビットキラーはただのバーではない。
カクテルやウィスキー、ビールなど定番の酒が楽しめるだけでなく、ミニライブも開催される。
ギターの弾き語りやピアノの生演奏、時にはキャストによるダンスパフォーマンスまで、店内のどこを見ても何かが起きている。
それでいて、騒がしすぎることはない。
客席の間隔や照明の配置、音量のバランスは絶妙で、誰もが自分のペースで楽しめるように計算されていた。
うさ耳のキャストたちの仕草や笑顔が、非日常の空間を作り上げ、訪れる者すべてに“ここだけの特別な時間”を約束してくれる。
歌舞伎町の喧騒のすぐ裏にありながら、ラビットキラーはどこか異世界のような静けさと華やかさを同時に備えている。
夜の街に迷い込んだ者が、一歩足を踏み入れれば、そこはうさ耳に彩られた、不思議で心地よい別世界だ。
カウンターの奥では高身長の男女が軽くうさ耳を揺らしながら、客の注文をさばいていた。
メイド服姿の彼女は、笑顔を絶やさず、手元のカクテルシェーカーを滑らかに動かす。
隣にはスーツ姿の整った男性キャストが立ち、落ち着いた声で女性キャストに話しかける。
「ブドウちゃん、あのカップルにはおすすめを出して」
「了解。」
二人の動きは自然と息がぴったり合っていた。
若いカップルは目を輝かせながらブドウと呼ばれた女性キャストの作る鮮やかなカクテルを受け取り、歓声を上げる。
「わぁ、見た目も可愛い!」
ブドウは笑みを返すと、耳元で小さくウィンクした。
その様子を男性キャストは微笑みながら静かに見守りながる。
彼の胸元に付けられたネームプレートには”スイカ”と書かれていた。
そんな二人とは別に、店内の奥ではギターを持ったキャストが弾き語りを始め、若者のグループは手拍子を打つ。
どの世代も、どの性別も、それぞれのペースで楽しむ。
それを柔らかく包み込むように、うさ耳が揺れる。
そんなバーの裏側である事務所では、3つの人影が写っていた。
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「「ボス、イチゴ(ナツメ)ただいま戻りました。」」
二人並びで同時に報告するイチゴとナツメ。
彼女たちの視線の先、大きなデスクの向こうに座るのは、ボスと呼ばれる男。
スキンヘッドに顎ひげを伸ばし、常にサングラスをかけている。
大柄な体躯は椅子に座っていても圧を放ち、部屋全体に沈黙を支配させていた。
そんな彼の様子に二人の表情は引き締まり、緊張を微かに漂わせながらも、動きや言葉には迷いがない。
「イチゴ、ナツメ、報告を聞こうか」
低く響くボスの声に、二人は同時に軽く頭を下げる。
ナツメが口を開いた。
「対象の確保は完了しました。殺さぬ程度に痛みつけて”管理所”に運び込んでいます。」
イチゴが続ける。
「路地裏での処理も順調でした。周囲に不審者の影はありません。客や通行人に気付かれることもありませんでした」
ボスはサングラス越しに二人をじっと見つめる。
長い指先でデスクに軽くタップしながら、低く唸るように呟く。
「なるほど……。なら今後も全員の判断に任せる。」
二人は頷き、耳を立てる。
ただのコスチュームであるナツメのうさ耳が微かに揺れ、イチゴも静かに視線を動かす。
ボスはゆっくりと体を起こし、デスクの端に肘をつく。
「この街では、準備も段取りも命取りになる。二人の動きは完璧だったが、次はもっと難しい仕事になるかもしれない。死ぬことになるかもしれないが、それでもいいのか?」
ナツメとイチゴは互いに視線を交わす。緊張が、再び静かに部屋を包んだ。
「問題ありません。私達はボスに尽くすことで生きる意味を得ているのですから。」
「そうか、なら大丈夫だ。今日はもう上がって大丈夫だ。」
「承知いたしました。またいつでもお呼びください。」
「ああ……。」
事務所の暗い照明の中、三つの人影はまるで、夜の歌舞伎町を動かす小さな力のように静かに存在していた。
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ナツメとイチゴが事務所を出て、扉の向こうの静寂が戻ると、ボスと呼ばれた男はゆっくりと椅子に深く座り直した。
大きな手でサングラスの縁を押さえ、眉間に皺を寄せながら、長く溜息を吐く。
「……なんで、俺はこんなことに……」
声はかすれ、部屋の壁に反響する。
ボスは頭を振り、顎ひげを撫でるように触れる。
「コンセプトバー……ただのうさ耳バーだろうが!お客さんにお酒を出して、音楽で楽しませるだけの場所だろうが!」
椅子に沈み込む体をさらに縮めながら、震える声で続けた。
「なのに、キャスト達ときたら……裏で平然と人さらいや人殺しもするし……。俺の店で、俺の名義で、なんで、なんでこんなことに……」
デスクの上に手を置き、指先で軽くトントンと叩く。
だが、その音はどこか不安定で、心もとない。
「しかも…、みんな……みんな俺を殺すような目で見ている!!あのキャスト全員が!!」
声が小さく震え、思わず背もたれに寄りかかる。
「ああ、怖い……いや、怖すぎる……!俺を狙っているんだ!いつかこの店を乗っ取るために!」
ボスは両手で顔を覆い、肩を小さく震わせる。
「俺はただのバーのオーナーのはずなのに……。どうして、どうしてこんなことに……。」
壁に向かって小さく唸り、ひとりで大げさに嘆く声が、事務所の暗い空気にこだまする。
椅子の上で縮こまり、手をぎゅっと握りしめながら、ボスは小声で繰り返す。
「俺はただ……。うさ耳バーを……楽しくやりたかっただけなのに……。」
その声は、まるで世界の不条理を一人で抱え込んだかのように弱々しく、しかし大げさに響いた。
『ラビットキラー』
ボスと呼ばれるオーナー『坂本 優斗(サカモト ユウト)』が経営するうさ耳コンセプトバー。
しかしそのバーの裏の実態は、多数の罪を犯している犯罪組織であった。
これは、実は気弱なオーナーと荒くれ物のキャスト達の物語である。