春の終わりを告げるような柔らかな夕暮れが、駅前の小さな通りを包んでいた。
大学の経営学部を無事に卒業した優斗は、少し緊張した面持ちでカフェの看板を見上げる。
木製の扉に控えめなロゴ。派手さはないが、妙に落ち着く雰囲気だった。
「ここです、先輩。」
背後から明るい声がして振り返ると、後輩であり、気の置けない友人でもある苺が軽く手を振っていた。
彼女も高校を卒業し、少し大人びた雰囲気を醸し出している。
「ここの店長、カフェとかバーの経営にすごく詳しい方でして、色んなお店を経営しているんですよ。」
「それは……ありがたいな」
優斗は正直にそう答えた。
卒業はしたものの、学んだ知識をどう現実に落とし込むか、その答えを探している最中だったからだ。
現在は町中にある小さなペットショップに就職している。
扉を開けると、コーヒーの香りがふわりと広がった。
カウンターの奥に立っていた一人の人物が、二人に気づいて視線を向ける。
年齢は30代半ばだろうか。
落ち着いた佇まいで、無駄のない動きが印象的だった。
まるで旅館の女将さんのようだった。
「カフェとバーの経営をやっています。”神田 琴音(かんだ ことね)”です。初めまして。」
その人物は微笑み、カウンター越しに会釈をした。
「そんな緊張しなくても大丈夫ですよ。今日は、ゆっくり話しましょう」
その一言に、優斗の胸の奥で何かが静かに動き出す。
教科書の中だけでは見えなかった現実への扉が、今、音もなく開き始めた気がした。
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「苺からは聞いてるよ。坂本くん、お店を経営したいんだって?」
「え、あ、はい。」
突然話を振られ、優斗は少し姿勢を正した。
すると、琴音は何でもないことのように続ける。
「しかも——"うさ耳をコンセプトにしたバー”、なんだろう?」
その瞬間、優斗の思考が一拍遅れた。
「……はい?」
思わず間の抜けた声が出る。横を見ると、苺がなぜか胸を張っていた。
「違うのかい?」
琴音が首をかしげる。
「い、いや、違うというか……」
優斗は困惑した表情のまま苺を見る。
「苺、どういうことだ?」
「えへへ……。」
普段はおしとやかで控えめな苺が、今日はどこか得意げだった。
「先輩、以前から“うさぎに囲まれるお店を経営したい”って話していたじゃないですか。」
「確かに話したが……うさ耳ではなく——」
「——私調べたんです。」
苺は身を乗り出し、指を折りながら話し始める。
「うさぎに囲まれる店って何なのかなって調べまして、最終的にたどり着いたのがうさ耳コンセプトバーなんですよ!」
「……は?」
苺は食い気味に話を続ける。
「コンセプトバーって、テーマが分かりやすいほど印象に残るんですよ。それに、うさ耳って可愛いし、怖くないし、男女問わず入りやすいんです」
「そうだね。私の知り合いも似たようなものを経営している。」
琴音は面白そうに相槌を打つ。
「衣装も派手すぎなければ落ち着いた雰囲気にできますし、内装も木目調にすれば“大人向けの遊び心”って感じになります!」
苺の声は次第に熱を帯びていく。
優斗は完全に置いていかれたまま、曖昧に笑った。
「……俺に聞かずに、そんなところまで調べたのか。」
「はい!」
苺は即答した。
「先輩の夢ですから!」
その様子を見て、琴音は静かにグラスを置く。
「いい後輩だね?」
「まぁ、良き後輩ではあるんですが……。」
優斗は苦笑しながらも言った。
苺は満足そうにうなずき、琴音は興味深そうに目を細める。
「じゃあ次は、坂本くん自身の言葉で聞かせて」
「彼女のアイデア、どう活かしたい?」
困惑と期待が入り混じった空気の中で、優斗はゆっくりと息を吸った。
思ってもみなかった方向から、夢の形が歪んだ輪郭を持ちはじめていた。
しばらく重たい沈黙が流れたあと、優斗は観念したように口を開いた。
「……確かに、“うさぎに囲まれる店をやりたい”とは言いました。」
苺がぱっと顔を輝かせ、琴音も興味深そうに視線を向ける。
「でも——」
優斗は一度言葉を切り、慎重に続けた。
「——その“うさぎ”っていうのは、動物のうさぎ、です」
「……え?」
苺の動きが止まった。
「生きている、本物のうさぎがいる店、って意味です。撫でられるかどうかは別として、見ているだけで落ち着くような。」
一秒、二秒。
苺の表情から、すっと血の気が引いていく。
「ど、動物……?」
声が裏返った。
「うさ耳、とかじゃなくて……?」
「うさ耳じゃない。」
優斗はきっぱりとうなずく。
次の瞬間、い苺が明らかに挙動不審になった。
「え、えっと、その……わ、わたし、え?」
苺は視線を泳がせ、手に持っていたペンを落とし、また掴んでは落とす。
「じゃあ、衣装案とか、内装のコンセプトとか、全部……?」
「全部、違う方向だな……。」
琴音が淡々と追い打ちをかける。
「う、うそ……嘘です……。」
苺は両手で顔を覆い、そのままカウンターに額を軽く打ちつけた。
「わたし、何日も調べたのに……!」
「苺、落ち着いてくれ」
優斗は慌てて声をかけるが、
顔を上げた苺は、涙目だった。
「普通、“うさぎに囲まれる店”って言われたら、うさ耳だと思いません!?」
「思わないとは言わないが……」
琴音はそのやり取りを眺めながら、くすっと笑った。
「でもさ——」
彼女は続けて穏やかに言う。
「——失礼で本当に申し訳ないんだけど、君のその見た目でうさぎに囲まれる店って考えると私は元々バニーとかそういうのをイメージしちゃうんだけど……。」
「まぁ、確かに……。」
琴音の言葉に、確かに自分が苺の立場なら同じことを考えてしまうかもしれない、という考えが湧いた。
苺ははっと顔を上げ、しばし沈黙したあと、
「……動物、保健所……」
「……匂い対策……」
「……バーって、そもそも……」
ぶつぶつと呟き始め、完全に思考が迷子になっていた。
優斗はその様子を見て、申し訳なさと可笑しさが入り混じった笑みを浮かべる。
苺は何も言わない。
視線を落としたままそこにいる。
それだけで、胸の奥が痛んだ。
――ここまで考えてくれていたのに。
頭の中に、苺の姿がいくつも浮かぶ。
資料を読み込み、画面を睨み、俺には見せない時間を積み重ねていた姿。
うさ耳のバー。
当初自分が思い描いていたものとは違う。
自分が本当に欲しかったのは、生き物の気配に包まれる、静かな空間だった。
胸の奥に、熱が広がる。
それと同時に、情けなさが滲んだ。
今の俺に、本当にやりたい店を守れる自信はあるのか。
正直に言えば、実力と経験が全く足りない。
自分で考えもせずに、アドバイスだけを求めて、後輩にここまで意見をもらって……。
――俺は馬鹿だ。
苺の時間は無駄じゃない。
彼女の現実は、俺の未来につながっている。
俺は夢を叶えるために、遠回りを選ぶ。
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「苺が考えてくれた店は、ちゃんと“経営できる店”だと思う」
その瞬間、苺の指がぴくりと動いたのが見えた。
「まだ詳しく話はまだだが、苺の事だしちゃんとした資料もあるんだろう?」
優斗は意識して、はっきりとした声で言う。
「なら最初は、その店を経営してみたい。」
苺が、ゆっくり顔を上げる。
「その店で、経営を学んで、失敗も成功も全部経験して」
「数年経って、十分に実力が付いたときに」
そこで一度、言葉を切った。
「そのときに、僕が本当にやりたかった“うさぎに囲まれる店”を開きたい。」
それは妥協じゃない。逃げでもない。
苺の時間と努力を、無駄にしないための選択だった。
苺の目が、少しだけ揺れる。
「……いいんですか。」
小さな声だった。
「私の、勘違いだったのに」
「勘違いでもこんなに真剣に考えてくれたんだしな。」
優斗は即座に首を振る。
苺はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……先輩は、ずるいですね」
その言葉に、優斗の胸の奥が少しだけ軽くなる。
琴音は静かに頷いた。
評価でも同情でもない、それは「経営者」としての肯定だった。
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「じゃあ、これからうさ耳コンセプトバーを経営するにあたっての条件の話をしようか」
空気が一段、引き締まる。
「え?今日は経営についての話をしに来たのですが……。」
「ん?ああそうだったね。話をしに来たんだよね。」
琴音は納得したように首を振る。
「だからもう店は用意しておいたよ。」
「え?」
「といってもテナントだけだけどね。」
そう話しながら彼女は一枚の書類を優斗に手渡す。
「ここが、君がこれから経営する店だ。」
それは、物件に詳細が書かれた書類だった。
「新宿歌舞伎町だよ」
優斗の目が一瞬大きく見開かれる。
きらびやかで雑多な街の名前。
琴音は淡々と説明を続ける。
「駅から少し外れた通り。人通りはあるけど、派手さはない」
大きすぎず、小さすぎもせず、ほどよい間口。
元は小さなバーだったという。
内装はほぼスケルトン。設備も最低限しか残っていない。
「家賃は相場より少し安い。立地のイメージと、借り手を選ぶオーナーの都合だ」
歌舞伎町――その名前だけで、真剣に店を経営したい人間にとっては挑戦であり、同時に試練でもあった。
琴音はそれを理解したうえで、淡々と告げる。
「ここは、“甘い経営”をするには向いていない。客層も、競合も、シビアだ。中途半端なコンセプトなら、すぐに埋もれる。」
言葉に含まれる警告は、優斗に重くのしかかる。
しかし琴音は続けた。
「でも、ここで数字を回せたら、どこに行っても通用する」
琴音は笑みを浮かべる。
その表情は、経営者としての目であり、試す者の目でもあった。
歌舞伎町の片隅にある無機質な箱。
この場所から、全てが始まろうとしていた。
「経営なんて話や勉強よりも実際にやってみた方が早いからね。今回苺から話を聞いてすぐに準備させてもらったよ。」
「あまりにも早すぎる……。」
それまで息を潜めるように静かだった苺が口を開いた。
「琴音さんは不動産にも精通していますからね。それに先輩なら大丈夫と認めてくださっています。」
「今日初対面ですよね?」
「彼女から色々話は聞いたからね。それだけで十分な判断材料だった。」
「何を話したんだよ……。」
少し頭を悩ませる優斗。
満足げな表情を浮かべる苺。
面白いものを見ているかのような笑みを浮かべる琴音。
3人の姿は三者三葉であった。
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「いつの間にか夜になっていたね……。この店についての話や、今後の進行に関しての長い話はまた来週にでも話そう。あとで日程を連絡するから確認しておいてね。」
「わかりました。」
いつの間にか、時刻は19時を指していた。
今日はもうお開きと琴音は話す。
「先輩、私は琴音さんと少し話してから帰ります。」
「夜道は危ないが、大丈夫か……?」
「琴音さんに車で送ってもらいます!」
「なんで得意気なんだよ……。」
そういいながら手を振って帰路に就く優斗。
彼の姿が見えなくなるまで苺は手を振り返す。
「さて……。」
二人きりになった店内は、さっきまでの柔らかい空気が嘘のようにひんやりと感じられた。
苺はカウンターの端に腰を下ろし、軽く手を組む。
「今日はご苦労でしたね。」
苺の声は低く、落ち着いている。
だが、どこか命令を含んだ響きがある。
彼女の言葉に琴音は表情を変えず、微かに息を整える。
しかし指先がわずかに震え、体の奥で緊張が走っているのが自分でも分かった。
「今後もよろしくお願いしますね?私の顔に泥を塗るようなことは絶対にしないように。」
苺は淡々と続ける。まるで上司が部下に言い渡すような口調で、目を逸らさず琴音を見据えた。
「はい……承知いたしました。」
琴音の声は小さく、かすれ気味。
苺は軽く笑ったように見せ、しかし冷たさは消さない。
「先輩から考えが違うと聞かされた時は死のうとしか思わなかったけど、さすがは先輩だったな……。」
琴音は唇をきゅっと結ぶ。
表向きは平静を装っているが、内側では恐怖がじわじわと全身に広がっていた。
呼吸は乱れないよう意識し、視線も逸らさない。だが体の震えが完全には止まらない。
「失敗したらわかっていますよね?」
「……はい。」
琴音の声は落ち着いている。言葉の端々に強い緊張が潜むが、苺はそんなことにわざわざ触れることはなかった。
苺はゆっくり立ち上がる。
「よし、今日のところはこれで終わりにします。次回も期待しています。」
琴音は軽く会釈し、背筋を伸ばしたまま苺を見送る。
表面は何もなかったかのように振る舞っているが、胸の奥では冷たい恐怖がまだ震えていた。
「お見送りは?」
「いらないです。子供扱いしないでください。殺されたいのですか?」
「大変申し訳ございません……。」
「私を子供扱いしていいのは先輩だけです。では……。」
苺は店を後にして夜道へと消えていく。
彼女の背中を見送る琴音の目には、微かに覚悟と恐れ、そして恨みが入り混じって光っていた。