紅乃 苺。
知る人ぞ知る、国内外に幅広い事業を持つ資産家”紅乃 石”の一人娘。
格式ある家に生まれ、幼い頃から一流の教育を受けて育った生粋のお嬢様だった。
そんなお嬢様が何故平凡な高校に属しているのか。
それは、小中とお嬢様学校と呼ばれる学校に通っていた彼女に一般市民の生活を経験させることが目的だった。
成績は常にトップ。
運動神経も抜群で、授業でも行事でも自然と結果を残す。
それでいて言葉遣いは丁寧で、姿勢は美しく、誰に対しても礼儀を欠かさない。
その在り方は賞賛と同時に、強い反感を生んでいた。
生徒の中には、彼女の余裕と生まれ持った格の違いを「気に入らない」と感じる者も多い。
だが苺自身は、そのことを気にしていなかった。
弱者が何を思い、何を言うか。
それは彼女の人生において、考慮すべき事柄ではなかったからだ。
ある日の放課後。
帰路を一人で歩く苺の背後から、男の声がかかる。
「なあ、紅乃」
振り返らなくても分かる。
どうせ同級生の男子たちであろう。
「何かご用でしょうか」
苺は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
表情は穏やかで、声も落ち着いていた。
「俺らと遊ぼうぜ?お嬢様さん?」
「一般市民とは遊べないのか?」
一人が一歩前に出て、進路を塞ぐ。
苺は内心で、静かにため息をついた。
(劣等感を、他人にぶつけるしかない人たち)
恐怖はない。
怒りもない。
「おい、無視すんなよ?」
無視などしていない。
ただ、無意味な時間だと感じるだけだった。
横を通ろうとした瞬間、進路を再度塞がれる。
勢いもあり、思わず壁に背を付けてしまう。
「は? 無視すんなって言ってんだろ。」
「聞こえてんのか?」
その瞬間――
「……何をしている。」
低く、はっきりとした声が空気を切った。
苺が視線を向けると、少し離れた場所に一人の男子生徒が立っていた。
表情は冷静で、だが迷いはない。
「……は?」
「誰だよ。」
男子たちが睨みつける。
だがその生徒は一歩も引かなかった。
「その子、嫌がっているだろう。」
その声は大きくない。
だからこそ、逆らいにくい力があった。
「……チッ」
男子たちは悪態をつきながら去っていった。
静寂。
「……だ、大丈夫か?」
助けてくれた男子生徒がそう声をかける。
「ありがとう……。」
苺はそう答えたが、自分でも不思議なくらい胸がざわついていた。
助けられたこと自体ではない。
(私の事を知らない……?)
自画自賛ではあるが、これでも私は紅乃家の娘。
今まで知らない人間という反応は一般人からされることはなかった。
男子生徒の目が合った瞬間わかってしまった。
彼は、紅乃家の名にも、財産にも、彼女の立場にも興味を示していない。
私をただ目の前にいる一人の人間として、当たり前に手を差し伸べただけだった。
苺は丁寧に一礼する。
制服を見る限り、同じ高校の上級生なのだろう。
見た目にインパクトがあるのに、今まで把握をしてこなかった。
「同じ制服。先輩ですか?」
「あ、ああ。3年だ。」
「そうですか……。お名前をお聞きしてもいいですか?」
それだけの会話。
それだけなのに、苺の中で確かに何かが変わった。
「俺は”坂本優斗”だ。」
「坂本先輩ですね。あっ、お名前をお聞きしておいて私が名乗っていませんでした。」
弱者に興味はない。
だが――
「私の名前は”紅乃 苺”です。よろしくお願いしますね?先輩。」
(面白い人……。)
初めて抱いた、純粋な関心。
それが、紅乃 苺の世界に小さなひびを入れた瞬間だった。
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紅乃 苺は、一度興味を持った相手を手放さない。
それは感情ではなく、性質に近いものだった。
価値があると判断した対象を、理解し尽くすまで観察する。
それが、彼女のやり方だった。
(なぜ、あの人は躊躇しなかったのか)
答えの出ない疑問が、頭の奥に居座り続けている。
翌日から、苺は意識的に「先輩」を探すようになった。
同じ校舎、同じ時間帯。
人の流れを読むだけで、彼の姿はすぐに見つかる。
歩く速さ。
廊下での視線の置き方。
誰かに話しかけられたときの、態度
(優しい人。)
それが最初に抱いた印象だった。
昼休み。
苺は偶然を装い、優斗が普段昼食をとっている特別教室に入る。
「こんにちは、先輩」
しかし、優斗は気づく素振りを見せない。
「あの……。」
少しだけ驚いた表情。
だが、それ以上踏み込まない。
「ここ、座ってもいいですか」
(距離を詰めすぎない。でも、拒まない)
「問題ないが……。」
苺は静かに、その反応を記憶する。
会話のパターンを記憶するために無理矢理話を振る。
「坂本先輩って……怖いって言われませんか。」
「……言われるな。それがどうした?」
迷いない発言に思わず笑いそうになってしまう。
「私は、全然怖くないです」
(こういうとき、上目遣いで話すとどうか……。
「助けてくれたときも……ちゃんと優しかったです」
「まぁ、困っている人間を助けるのは当たり前じゃないか?」
当たり前。
その言葉が、苺の中で何度も反響した。
それから数日。
昼食の時間が、自然と重なるようになる。
話題は些細なものばかりだった。
授業のこと、課題のこと、天気のこと。
苺は会話を続けながら、先輩を観察する。
(私の家のことを聞かない)
(噂にも触れない)
(必要以上に近づかない)
常に一定の距離感。
それは計算ではなく、本能のように見えた。
放課後。
帰り道が同じ方向だと分かった日から、流れは変わった。
「……もしよろしければ」
「一緒に帰りませんか、先輩」
自分でも驚くほど、声は自然だった。
「別に構わないが……。」
断られる可能性を、苺は考えていなかった。
先輩は、そういう人ではない。
並んで歩く帰り道。
沈黙が続いても、不思議と落ち着いている。
(沈黙を埋めようとしない)
(相手に委ねる余白を残す)
それが、苺には心地よかった。
気づけば、毎日同じ時間、同じ道。
周囲の視線が増えていくが、苺は意に介さない。
誰が何を思おうと、関係ない。
彼女が知りたいのは、先輩のことだけだった。
(毎日話す)
(毎日隣で食事をする)
(毎日一緒に帰る)
それが特別だと理解していても、
苺はそれを別の言葉で定義する。
(観察)
(理解)
(確認)
そう言い聞かせながら――
「また明日、先輩」
その一言を交わすたび、胸の奥がわずかに温かくなる理由だけは、
まだ分析しきれていなかった。
紅乃 苺は今日も、静かに先輩を見つめている。
その視線が、すでに「観察」の域を越えていることにも気づかずに。
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放課後の帰り道。
夕暮れの光が、アスファルトを淡く染めていた。
並んで歩く距離は、いつもと同じ。
歩調も、沈黙の長さも、変わらない。
――はずだった。
「……紅乃」
先輩が、ふと足を緩める。
「最近さ」
「無理、してないか?」
その一言で、世界が一瞬止まった。
(……無理?)
心臓が、僅かに強く脈打つ。
呼吸のリズムが、ほんの少しだけ乱れる。
(どうして、そんなことを)
脳裏で、思考が一気に広がった。
(私が?)
(誰のために?)
(何を、無理していると?)
「俺といると周りが変な目で見るだろう?」
観察していたのは、私のほう。
合わせていたのも、計算していたのも、私。
それなのに。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
自分でも、どうなるか分からない。
思考が、急速に歪んでいく。
(無理なんて、していない)
(しているとしたら、それは私の自由)
(先輩に心配される理由は、ない)
(……でも)
一瞬、頭の奥で黒い感情が形を持ちかける。
だが、それはすぐに押し込める。
表には、絶対に出さない。
苺は足を止め、先輩のほうを向いた。
表情はいつも通り、穏やかで、上品で、完璧だった。
「いえ」
声も、震えていない。
「見ますけど……私は全く気にしていませんよ?」
少しだけ首を傾け、柔らかく微笑む。
「ご心配には及びません」
「私は、自分の意思で動いているだけですから」
「先輩は名前の通り優しい人ですから。」
その言葉に、嘘はない。
少なくとも、苺自身はそう定義している。
先輩は少し困ったように笑った。
「そうか」
「なら、いいんだけど」
再び歩き出す背中を見つめながら、
苺は内心で、静かに息を整える。
(危ないところでした)
(先輩は、優しすぎる)
(だから、困る)
(でも)
(そんな先輩だからこそ)
(私は、目を離せない)
胸の奥で渦巻く感情を、丁寧に、丁寧に蓋をする。
紅乃 苺は、今日も完璧なお嬢様を演じきる。
自分の中で芽吹き始めた、歪で濃密な感情を、
誰にも悟らせないまま。
先輩の、すぐ隣で。
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「……先輩」
呼びかけると、先輩は少しだけこちらを見る。
「なんだ?」
その声。
いつも通りで、変わらない。
それが、少しだけ安心させる。
「先輩って、将来やりたいこと、ありますか?」
自分でも唐突だと思った。
けれど、今聞かなければいけない気がした。
先輩はすぐには答えず、視線を地面に落とす。
考えているときの癖だ。
(本音を選んでいる)
そう思った。
「笑わないなら、言うが……」
「笑いませんよ」
即答だった。
笑う理由なんて、どこにもない。
私はより近づき、きちんと話を聞く姿勢を作る。
この時間は、大切だ。
「うさぎに囲まれる店を経営したい」
一瞬、胸がきゅっと鳴った。
(……うさぎ)
意外だった。
もっと現実的な夢か、逆に何も考えていないと思っていた。
でも、驚きは見せない。
それは失礼だ。
「うさぎに囲まれる店ですか?面白そうですね」
声は落ち着いている。
けれど、内側では思考が一気に動き出す。
(小規模)
(癒し)
(先輩らしい)
「小さくていい。安心できる場所で、ウサギと人が触れ合えるだけの……」
そこまで聞いて、もう答えは決まっていた。
「いいと思います」
私は静かに、でもはっきり言う。
先輩の言葉を否定する理由が、どこにも見当たらない。
微笑みは控えめに。
けれど、視線は逸らさない。
(先輩の考え)
(先輩の夢)
(全部、知りたい)
「先輩がすること、私も全部知っておきたいんです」
少しだけ、本音が漏れた。
「知ってどうする?」
問い返される。
当然の疑問だ。
「もちろん協力するんですよ」
それ以外に、何があるのだろう。
「だいぶ先の話だぞ?」
「ええ、それはわかってます」
時間の問題ではない。
必要なのは、準備と覚悟だけだ。
私は、ほんの少しだけ体を寄せる。
距離が近いことは分かっている。
でも――
(先輩は、気にしない)
(私を、信頼している)
そう分かっているから、止めない。
「私は先輩が平穏にお店を経営できるように……すべてを助けます」
それは誇張でも、冗談でもない。
ただの事実だ。
「いや、そこまで気を使わせなくていいぞ」
先輩は、やっぱり優しい。
だから、困る。
「これは恩返しですよ」
助けられた事実は消えない。
それを理由にすれば、そばにいることができる。
「そうか。ならいつか困ったときに助けてくれ」
「はい」
即答だった。
(困るときなんて、待たない)
(私が、困らせない)
胸の奥で、静かにそう決める。
先輩は、まだ何も気づいていない。
けれどそれでいい。
私は、先輩の夢を知った。
それだけで、十分すぎるほどだった。
認めます先輩。
――私は貴方の事を愛しています。
それは、歪んだ愛だった。