帝国にこき使われてます。 作:未履修くん
研究室が静かな日は、だいたい良い日だね、うん。
書類の山もない。急ぎの連絡もない。上司は珍しく外出中で、同僚たちも各自の作業に没頭している。
上司から自由にしていい時間を満喫中である。また僕が発表した魔法のこともあって周囲から変なやっかみとかもない。
いやあ、やっぱりこの時間はいいよね。そんな中、僕は自分の机で、昨日書きかけたメモをぼんやり眺めていた。
内容は、女神様の魔法に関する雑多な走り書きだ。仮説、疑問、思いつき。どれも整理するにはまだ早く、捨てるには惜しい。そんな中途半端な段階のメモ。
女神様の魔法って、聖典というものに書かれていてそれを触媒として僕たちのいう魔法と似た現象が発動する。けれど、それの仕組みは未だに分からないまま。
普通に気になるよね、それ。
屋敷にも数はかなり少ないながらも聖典はある。小さい頃それを読んでみて、分からないのが納得できないから父に何度も聞いてみたりもしていたっけな~。
こういう時間が、嫌いじゃない。結論を急がなくていい上に答えを出さなくていい。
ただ考えていても、誰にも急かされない時間。こういうのがいいんだよね。
……と、思っていたところで、「先輩、今ちょっといいですか?」と背後から、控えめな声がかかった。
振り返ると、研究室の後輩が立っていた。資料を胸に抱え、どこか落ち着かない様子だ。目線が定まっていない。視線が、僕と床を行ったり来たりしている。
どうかした? とそう聞くと、後輩は一瞬だけ言葉に詰まった。
「えっと……その、進捗査閲の件で……」
ああ、なるほど。そういう時期か。
帝国からお偉いさんがやってくる、進捗査閲。内容自体はそこまで難しくないが、評価者が評価者なだけに、精神的な負荷が大きい。
準備不足でも、準備が出来ていても、不安を抱えやすい行事のようなものだ。
あ、ちなみに僕は見るだけです。なんか授賞者枠で、今回の進捗評価の対象には入らないとかなんとか……うん、<
ともあれ、それって内容がまとまらなくて? とかそう聞いてみると、後輩は首を横に振った。
「いえ、内容は……多分、大丈夫です。たぶん……」
たぶん? その一言に、すべてが詰まっていた。
「でも、考え始めると……もし突っ込まれたら、とか。もし失敗したら、とか。まだ起きてもいないことばかり浮かんできて……」
ああ~なるほど。
後輩は困っている、というより――消耗しているように見えた。魔力の不足でも、知識の不足でもない。目の下に薄く浮かんだ影が、それを物語っている。
夜、あんまり眠れてないんじゃない? とそう聞くと、後輩は困惑しながらも小さく笑った。
「……バレました?」
やっぱりね。
不安というのは、厄介だ。何かを壊すわけでも、直接的に失敗を引き起こすわけでもない。けれど、確実に"今"を削っていく。
話を聞いてみると、<
「あれ、使うと……確かに不安は落ち着くんですけど、落ち着きすぎて、逆に『本当にこれでいいのかな』って不安になるんですよね」
そんな感じらしい。
……なるほど。
それは、正しい反応だね。<
まだ起きていない未来、見えない失敗……想像の中で膨らみ続ける最悪の結果。
つまり――不安は、未来にあるのだ。
まあ、<
そこら辺のこともちゃんと報告会で周知しているし、お偉いさんにも周知しているから大丈夫だとは思うけど。
運用は規定と現場の裁量だしね。そこまで含めて責任を持つ設計じゃない。
まあそれはともかく……不安、不安か。
思わず、口に出していた。後輩は少し驚いたようにこちらを見る。
いやさ、不安って、面白いよね……自分でも、何を言い出したのかと思うけど。
まだ何も起きていないのに、感情だけが先に反応する。しかもその反応が強すぎると準備の邪魔になるんだよね。
後輩は、少し考えてから頷いた。
「……確かに。考えすぎて、手が止まってる感じです」
その一言で、頭の中の何かが噛み合った。不安は要らないわけじゃない、必要だ。
危険を避けるための感情だ。でも、それが"今やるべきこと"を奪ってしまうなら――それは過剰だろう。
消すべきじゃないし、押さえ込むべきでもない。そこら辺の事は僕の作った精神魔法と同じだ。
だったら――先に回す、か?
後輩には聞こえないくらいの声で、そう呟いた。今すぐ考えなくていい不安を、未来に戻す。
「先輩?」と後輩の声で、我に返る。ああ、ごめん。ちょっと考え事してた。
よし、と思い立ったが吉日。
――だったら、今はそれ以上考えなくていい。不安というのは考えれば考えるほどより増えるからさ。そう言うと後輩は少しだけ、肩の力を抜いたように見えた。
礼を言われて、後輩が去った後研究室はまた静かになった。僕は新しいメモ用紙を取り出す。
不安を減らす……そんな魔法を開発してみようか? これはなかなか面白いことになる予感がするぞ。
それから僕はしばらく机の前で腕を組んでいた。
不安を減らす。言葉にすると簡単だが、これを魔法として成立させるとなると、話は別だ。
まず、不安とは何か? から整理しなければならない。
感情か? いや、少なくともそれだけではない。不安は、現在の感情でも、過去の感情でもない……未来の仮定から来る感情だ。
まあ、一応"今"感じていることに変わりはないから、<
「もし失敗したら」 「もし否定されたら」 「もし最悪の結果になったら」……起きてもいない出来事を想定し、その"可能性"に感情が先行して反応している状態。
つまり不安とは、未来予測と感情が結びついた結果だ。ここが、厄介なところだなぁ。
未来予測そのものは必要だ。危険を回避するために、人間には想像力がある。問題は、未来予測が"今やるべき判断"を圧迫するほど前に出てくることだ。
後輩の例が分かりやすい。進捗査閲で失敗する可能性を考えるのは、準備段階では正しい。
だが、内容が固まった後もそれを延々と繰り返して考え続けるのは非効率だ。
ここで重要なのは――不安そのものが悪いわけではない、という点。
消してはいけない。鈍らせてもいけない。必要なのは、「今考えるべきかどうか」の整理……重要なのは、ここだね。
ここで、思いつき程度しかないが……魔法を発動させた瞬間に、その人が「今いちばん不安に感じているもの」を自動で対象にするとか、そんな設計も考えはした。
だが、それはさすがに自由度が高すぎる。
仮に、死そのものに対して一番不安を持っていた場合はどうなる? その不安が消えれば、死を前にしても何も感じなくなる。
最早それは、人とは言えないよね。
不安には、必要なものもある。避けるべき未来を知らせる警告としての役割もある。
それを一律に、しかも魔法任せに消すのは、効率が悪い以前に欠陥にも程がある……うん、この案は却下だと思ったわけだ。
というか、これについては昔勢いよく作った魔法である、<
何というか小さい頃の僕は、そういう自制とかがあんまり利かなかった。
イメージという面で苦労した覚えはあんまりなくて、だから自分が作った魔法が魔法として成り立つことがすっごく楽しかったんだ。
いや、流石に今は自制しているよ? やろうと思えればやれるけどちょっと色々と面倒くさいことになるから、やらないだけで。
――話がズレちゃってるじゃん。ま、いいやともかく話を戻して。
そうなると、不安を無理に消すのではなく"保留"するのはどうか?
今は考えなくていい、と一時的に棚上げする。未来の不安を、未来に返す。
魔法の対象は未来予測に紐づいた思考の優先順位……ああ、これだと<
――いや。一旦ニュートラルにして考え直す。
ここで、致命的な勘違いを避けなければならない。もしこの魔法が、「不安を感じなくする」方向に作用してしまえば、それはまずい。
危険察知能力を削ぐことになる。だから、この魔法は制限を強く設ける必要がある。
この時点で、<
……冷静に考えてみて、精神魔法の中でも、「未来」を直接扱うものは、かなり危うい。
扱いを間違えれば、現実逃避を助長する。最悪の場合、「考えるべき不安」まで後回しにしてしまう。
ペンを置いて、深く息をつく。
理屈としては成立しているし、構造も見えた。けれど、この構造のままで行くと、間違いなく使い手の姿勢が問われる魔法だ。
さて、問題は。
「……実用化するには、だよなぁ」
その問題が立ちはだかる。
不安を弱めるだけなら、手段はいくらでもある。コルチゾールの反応を抑える。ノルアドレナリンの過覚醒を落とす。セロトニンの安定を底上げする。
だがそれは、例で言うと"危険を知らせるベルの音量"を下げる方法だ。便利だが、使う人が間違えると致命的になる。
今回やりたいのは違う。ベルは鳴っていい。ただ、鳴り続けて作業を奪うな――それを整えたいのだ。
そもそもの話、僕の作った精神魔法は、
<
<
<
だが不安は未来から来る感情だ。未来から来る感情を対象にする魔法は、使い手の怠慢をそのまま正当化できてしまう。
だから同じノリで出せないわけだ。
例を言うと――卒業を控えて、就職先が決まっていないとする。
その状況で、不安をちっとも感じない人間はほぼいないだろう。お金はどうするか? 生活はどうするか? 来月、来年、自分は何をしているか?
だから人は不安になる。不安だから情報を集める。不安だから動く。不安だから、選択肢を探す。
不安は、行動を起こすための感情だ。もしこの状態で、不安だけを消したらどうなるか。
確かに、その瞬間は楽になるだろう。眠れるかもしれないし、余計なストレスを抱えずに済むかもしれない。
だが、問題は何一つ解決していない。ただ時間だけが過ぎていく……ってやつだね。
つまりは、問題は"不安そのもの"じゃない。
不安が仕事をするうちは、むしろ優秀だ。危険を知らせ、準備を促し、行動の背中を押す。
だが限度を超えた不安は、もう警告じゃない。雑音だ。思考を潰し、判断を歪め、手を止めさせる。
「そうだ、過剰分だけ対象にすればいいんじゃないか?」
思わず声に出してしまう。
――必要なのは不安を消すことじゃない。機能している不安を鎮めずに、"過剰な不安"だけを鎮める。
だったら、条件を付ければいい。不安が一定の閾値を超えた時だけ、超過分だけを鎮める。
よし。これなら、逃避を助長しないね。危険察知も殺さない。僕はメモに、短く結論を書き残した。
閾値超過分のみ、鎮静処理を施す。
さて、不安を扱う以上、避けて通れない問題がある。どうやって、その「過剰」を測るのか、だ。
これに時間をかけて考えてみて……ひとつの結論に至る。
不安が問題になるのは、思考が止まったときだ。「もし失敗したら」「もし否定されたら」「もし最悪の結果になったら」。
この仮定が、同じ形で何度も何度も再生される。新しい情報は増えない。判断も進まない。ただ、同じ未来予測がループする。
――ここだ。
<
それからちゃんと自分で受けてみて等の調整を済ませて。
「<
今日は、進捗査閲がある。
控室の空気は、いつもより少し重かった。席に座っているだけなのに、落ち着かない。背筋を伸ばしても、深呼吸をしても、胸の奥がざわざわしている。
資料は何度も見直した。内容だって、先輩や上司に確認してもらったし、指摘も全部潰したはずだ。
大丈夫。
そう自分に言い聞かせるたびに、別の声が湧いてくる。
もし、変な質問が来たらどうするんだ? それに、詰まったらどうする。それで評価が下がったらおしまいだ。
考えるな、と分かっているのに、考えが止まらない。順番が近づくにつれて、不安は増すばかりだった。前の発表者の声が、やけに遠く聞こえる。
視線を落とすと、手が微かに震えているのが分かった。準備はできている。それなのに、不安だけが先行して、頭の中を占領している。
胸の奥がざわついて、じっとしているだけなのに――妙に疲れる。
「お、いたいた」
そんな時だった。聞き覚えのある、軽い声。顔を上げると、先輩がいつもの調子で立っていた。
「大丈夫かい? 不安で不安でどうしようもないって顔だね」
図星すぎて、何も言い返せなかった。先輩は肩をすくめて、小さく笑う。
「準備はどう? 指摘されるだろうな、って部分を潰すのも終わってるでしょ」
「は……はい」
「じゃあ今出てる不安、だいたい"今じゃないやつ"だね」
そう言って、先輩は少しだけ声を落とした。
「不安を消す訳じゃないけどさ。一時的に考えすぎを止める魔法ならあるけどどうする?」
まるで、飴あるけどどうする? と言わんばかりな音色。一瞬、迷った。でも、このままじゃ、頭が空回りしたままだし、失敗するのが目に見えてしまう。
……不安に耐えるのも経験だ、という考えが頭をよぎる。けれど、今必要なのは根性じゃない。ちゃんと話すための余裕だ。
「……お願いします」
「うんうん、言質は取ったぞ――<
<
次の瞬間、頭の中が静かになった。不安が消えた、という感じじゃない。
胸の奥にあったざわつきが、ふっと後ろに下がったような感覚。 資料が、ちゃんと目に入る。次に何を話すかが、自然に思い浮かぶ。「失敗したら」という考えは、まだある。
でも、つい先程までの思考が、"考えすぎていたのだ"と客観視できる余地が出てきた。
「ま……マジで?」
そんな自分の変化に、思わずそう呟いてしまった。
「はは、効いてきたみたいだね――落ち着いて行ってきなよ」
「はい……!」
立ち上がる時、足の震えはなかった。
発表は、淡々と進んだ。質問も来たが、頭は回る上に詰まらない。終わった、という実感が湧いたのは、席に戻ってからだった。
――その時に、胸の奥に、さっきの不安がふっと戻ってきた。けれど、それはほんの一瞬だった。進捗査閲は、もう終わっている。今さら恐れる理由はない。
戻ってきた不安は、行き場を失ったようにすぐに消えた。
……これ、凄いな。そう静かに理解する。それと同時に、どうして今まで"こんな状態"を当たり前だと思っていたのか、分からなくなった。
不安が消えたわけじゃない。必要な時まで待っていただけだ。
こうして進捗査閲が終わり、控室に戻るとそこにいた先輩と目が合った。
先輩は、どこか満足そうに笑っている。
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