ガイル少佐のヘルシーフード戦記 ~食文化に撃墜された空軍士官~   作:パワーポイント・レンジャー

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第三章 悪夢再び

 空は吐き気がするほどに澄み渡っていた。

 久しぶりの休暇だ。俺は妻のユリアと娘のクリスを連れて、サウスタウンの郊外にある牧場を訪れた。クリスが馬に乗りたいと言ったからだ。

 かつて復讐という名の地獄に家族を置き去りにした俺にとって、娘の願いは絶対的な徴兵命令に近い。今の俺にとって、家族との時間は何よりも重い負債であり、救いでもあった。

 

「お父さん、早く!」

 

 クリスが弾丸のように牧場の入口へ駆けていく。その後ろ姿を眺めながら、俺はわずかに口角を上げた。

 

 受付の男は、事務的な笑みを張り付けて説明を始めた。

 

「乗馬は一時間。それと、体重制限は100キロだ。超えてるなら、悪いが降りてもらう」

 

 100キロか。俺の体重は99キロ。戦場の境界線(ボーダーライン)を綱渡りするような、ぎりぎりの数字だ。

 

「問題ない。レギュレーション内だ」

 

 俺は短く答え、家族三人でそれぞれ馬の背に跨った。

 

 牧場の風景は穏やかだ。

 緑の草原。どこまでも続く青い空。クリスは初めての乗馬に興奮し、無邪気な笑声を撒き散らしている。

 

「お父さん、見て! 私、ちゃんと乗れてるよ!」

 

「ああ、筋がいいぞ、クリス」

 

 隣でユリアが優しく微笑む。こんな平穏が永遠に続けばいいと、柄にもなく神に祈りたくなった。

 

 その時だ。

 前方から、青鹿毛の馬を駆る金髪の男が近づいてきた。

 見覚えのある顔だ。記憶のデータベースを検索する。ザ・キング・オブ・ファイターズ――極限流空手の使い手、リョウ・サカザキ。

 リョウも俺の存在に気づいたらしい。彼は爽やかな笑みを浮かべ、馬を寄せてきた。

 

「やあ、家族揃って乗馬か? いいねえ」

 

「リョウ・サカザキだな。君の戦いぶりは、画面越しに何度か拝ませてもらった」

 

「そいつは光栄だ。応援よろしく頼むぜ」

 

 リョウは屈託なく笑い、問いかけてきた。

 

「ところで、名前は?」

 

「ウィリアムだ」

 

 家族もそれぞれ自己紹介を済ませる。

 

「クリスです!」

 

「ユリアと申します」

 

「いい名前だ」

 

 リョウがそう言った瞬間、俺の脳裏にある記憶が蘇った。リュウとの会話だ。あの時、彼は俺に、「ビリーと呼んでいいか?」と尋ねてきたのだ。

 俺は先手を打つべく、銃の安全装置を外すような速さで釘を刺す。

 

「ビリーと呼ぶのだけはやめてくれよ」

 

「まさか。そんな呼び方、どこぞの悪徳企業に首輪を繋がれた、棒を振り回すチンピラみたいじゃないか」

 

 リョウは肩をすくめて笑った。

 やはり、この街での「ビリー」という名のパブリックイメージはその程度か。俺は思わず苦笑した。

 すると、隣でユリアが余計な援護射撃を放った。

 

「夫のことは、ウィリーと呼んで差し上げてください」

 

 俺は言葉を失い、妻を見た。リュウに「ウィリー」と呼ばれて以来、彼女は俺をそう呼んで楽しんでいる。まあいい。ビリーよりはマシだ。

 しばらくの間、四人で乗馬を楽しみながら会話していると、リョウが提案してきた。

 

「俺の小屋がこの近くにあるんだ。よかったら寄っていかないか?」

 

 クリスが即座に「行きたい!」と食いついた。

 娘がそう言うのなら、撤退の選択肢はない。俺たちは馬を牧場に返し、リョウの案内で山中へと足を踏み入れた。

 

 三十分ほどで到着した山小屋は、男の隠れ家としては上出来だった。

 周囲には小規模な菜園があり、ガレージにはレストアされたハーレーが鎮座している。

 

「小屋もガレージも自作だ。バイクはゴミ捨て場から拾ってきたのを直したんだ」

 

 リョウは誇らしげに語った。手先の器用な男だ。空軍の整備部隊に放り込めば、いい仕事をするだろう。

 小屋に入り、ダイニングテーブルの椅子に座ると、リョウが尋ねてきた。

 

「コーヒーと緑茶、どっちがいい?」

 

「コーヒーを」

 

 俺は迷わず選んだ。ユリアもそれに続いたが、クリスは好奇心に負けたのか、「緑茶」という名の東洋の未知に挑戦することを選んだ。

 リョウが運んできたのは、飲み物と、クッキー、そして煎餅。俺は早速コーヒーを一口飲み、クッキーをつまんだ。

 

「ウィリー、あんたも格闘家か? いい身体をしてるが」

 

「軍人だ。空軍の士官をやっている」

 

「なるほどな。どうりで隙がないわけだ」

 

 リョウは納得したように頷いた。

 クリスは「緑茶」と「煎餅」という異国の食文化を、リョウから楽しそうに教わっている。その微笑ましい光景を肴に、俺はコーヒーを啜った。

 それからリョウは、家庭菜園とバイクの整備について熱く語った。真面目な男だ。軍人でないのが惜しまれるほどに。

 

「腹が減ったな。たいしたもてなしはできないが、昼飯を食っていけよ。料理には自信があるんだ」

 

 リョウの誘いに、クリスが再び即答する。

 

「食べていく!」

 

 こうして俺たちは昼食を共にすることになった。

 

 

 

 しばらくして運ばれてきたのは、豚の生姜焼き、味噌汁、飯。そして、野菜の煮物などが入った器がいくつか。数年前、日本で食った定食に似ている。

 そして、その献立の中に、あの「悪魔の豆」が不在であることを確認し、俺は心から安堵した。

 

 料理は素朴だが、芯のある味がした。

 食後、クリスはリョウの真似をして緑茶を啜り、「はぁー」と一息ついた。すっかり東洋の空気に馴染んだらしい。

 

「さて、食後のデザートにしようか」

 

 椅子から立ち上がったリョウがキッチンへ向かう。クリスもその後に続く。

 リョウがキッチンの収納から取り出したのは、石鹸のような白い固形物がいくつか入っている袋だった。

 

 あれは……なんだ?

 

 俺の嫌な予感は、戦場での勘と同じくらい鋭かった。

 オーブンの中で膨れ上がり、破裂する白い物体。リョウはそれを皿に移し、何かをかけ始めた。緑の粉、黒いペースト……。

 そして、彼は冷蔵庫から「それ」を取り出した。

 

 白いパック。醤油の香り。そして、箸を動かすたびに空気を汚染していく、あの糸。

 日本の山麓で味わった悪夢が、鮮明なカラー映像で蘇る。

 

 納豆だ。

 

 リョウはあろうことか、その腐敗した豆を、スライムのように伸びた白い物体の天辺にぶちまけた。

 

「このデザートの名は?」

 

 俺は震える声を抑えながら尋ねた。

 

「餅だよ。英語なら『ライスケーク』だ」

 

「上に乗っているのは?」

 

「あんこに、抹茶。そして――」

 

「……納豆、だろう?」

 

「その通り。よく知ってるな。俺は納豆と餅が大好物なんだ」

 

 戦慄した。この男は、悪魔と契約でもしているのか。

 

「……悪いが、俺は納豆にトラウマがあってな。抹茶の方をいただく」

 

 俺は恐る恐る、抹茶のかかった餅を口にした。未知の食感だが、ほろ苦さと甘みが重なり、悪くない。隣ではユリアがあんこ餅を楽しみ、微笑んでいる。

 だが、地獄はそこからだった。

 クリスが、あろうことか納豆の乗った餅を箸で掴み上げたのだ。

 

「クリス! それは――」

 

「見て見て! びよーんって伸びるよ! トルコアイスみたい!」

 

 違う。断じて違う。それはトルコアイスなどというスウィートな代物ではない。

 

「ははは、言い得て妙だな! さあ、冷めないうちに食え」

 

 リョウが促す。クリスは躊躇なく納豆餅に齧り付いた。

 俺は思わず目を見開いた。ああ、娘までもが地獄の門を潜るのか!

 

 だが、クリスは平然とそれを咀嚼し、顔を輝かせた。

 

「リョウ、納豆餅って美味しいね!」

 

 ……馬鹿な。

 

「だろう? ほら、ウィリーもどうだ? 遠慮するなよ」

 

 リョウがこちらを向く。そしてユリアが柔らかな微笑みを浮かべながら言った。

 

「ウィリー、リョウさんのご好意よ。食べてみたら?」

 

 ……この女、俺が納豆を蛇蝎のごとく嫌っているのを知っていて言っている。確信犯だ。

 

「そうよ、お父さん。食べてみて! 美味しいから!」

 

「そう言われてもだな……」

 

「……お父さん、食べないの?」

 

 クリスの目が悲しげに揺れる。

 

「いや、その……」

 

「逃げるお父さんなんて嫌い! いつも堂々と戦っていてほしいのに!」

 

 チェックメイトだ。

 男には、死ぬと分かっていても引き金を引かなければならない時がある。

 

 俺は意を決し、納豆餅を箸でつまみ上げる。そして口に運んだ。

 鼻を突く異臭。口腔を蹂躙する粘り気。俺は込み上げるものを殺し、ひたすら咀嚼した。

 

「おい、喉に詰めるなよ」

 

 リョウの声が遠くに聞こえる。俺は一秒でも早くこの惨劇を終わらせるべく、地獄を飲み下した。

 

「どう? 美味しかったでしょ?」

 

 クリスの満面の笑み。それが今は、冷酷な尋問官の笑みに見えた。

 

「ああ……最高にクソ不味かったぜ」

 

 俺の本音が、煙のように口から漏れた。

 ユリアはくすくすと笑いながら、リョウに「夫は納豆が苦手なんです」と余計な事実を伝えている。

 俺は確信した。この女は、悪魔だ。

 

 だが、いいだろう。

 家族を捨てた過去への贖罪がこの程度で済むのなら、俺は何度でも食ってやる。

 良き夫、良き父という仮面を維持するためなら、どんな毒でも飲み干してみせる。

 

 たとえそれが、納豆餅という名の地獄であってもだ。

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