ガイル少佐のヘルシーフード戦記 ~食文化に撃墜された空軍士官~   作:パワーポイント・レンジャー

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第四章 国境なき悪魔の豆

 サウスタウンの夜は、淹れすぎて苦くなったコーヒーのようだ。喉を焼くが、眠らせてはくれない。

 俺はサウンドビーチのホテルを静かに抜け出した。背後で眠る妻ユリアには、「退役した戦友に誘われた」と、使い古された階級章のような嘘を置いてきた。

 彼女がそれを信じたかは不明だ。女の直感というやつは、空軍のレーダーよりも正確に嘘を捕捉するからな。

 

 大通りに出てタクシーを拾い、ポートタウンへと向かう。そこはアメリカ海軍の空母シーグラップス号が根城にする港であり、同時にサウスタウン屈指の危険な貧民窟でもある。

 軍規と混沌が同じ空気を吸っている。その矛盾を、俺はこの目で確かめたかった。

 

 倉庫街に降り立つと、潮風に乗って錆びた鉄と重油の匂いが流れてきた。

 港には巨大な空母シーグラップス号が、鉄の鯨のように停泊している。

 アメリカ海軍がここを母港にしている理由は謎だ。おそらくは腐敗した正義と、洗練された悪が同居するこの街の空気が、彼らの肌に合ったのだろう。

 

 俺は船着場を後にし、さらに奥まったダウンタウンへと歩を進めた。そこは治安という言葉が辞書から抹消されたエリアだ。

 街の入口では、早くも血気盛んな集団が拳を突き合わせ、明日の命をチップにするように殴り合っていた。

 並の男なら心臓がタップダンスを踊り出すような光景だが、俺の心拍数は巡航速度を維持している。むしろ、この荒廃した空気が、軍人としての本能を心地よく刺激した。

 

 路地には酒と煙草、そして大麻の不浄な匂いが充満している。

 壁という壁が絶望を塗り固めたような落書きで覆い尽くされ、明日を信じていないような目をした男たちが通りを歩いている。

 時折見かける女の瞳も、娼婦としてのプライドさえも潮風に晒されて磨り減っているように見えた。

 

 突然、背後から凄まじい殺気を感じて振り返った。

 赤い炎が尾を引き、俺の側頭部を狙う。反射的に身を沈め、その一撃をやり過ごす。

 炎の向こうに、黒い革ジャンとレザーパンツを纏い、赤と白の縞模様のバンダナを巻いた男が立っていた。ギース・ハワードの側近であり用心棒でもある、ビリー・カーンだ。

 

「空軍の犬がこんなとこに一体何の用だ!? ギース様のことを嗅ぎ回ってんなら、ここで血祭りに上げて、サウスタウンベイに沈めてやるからなァ!」

 

 ビリーはコックニー訛りのある英語で叫び、コンバーター三節棍を一振りした。

 俺が空軍の犬なら、お前はギースの愛玩犬(プードル)じゃないか。

 そんな突っ込みが喉元まで出かかったが、俺はプロフェッショナルだ。言葉の代わりに戦闘態勢を整える。

 

「出たな、ビリー・カーン! 残念だが、血の海に沈むのはお前のほうだ」

 

「出たなとは何だ! 俺を幽霊や化け物みてぇに言うんじゃねえ!!」

 

「じゃあ何と言えばいい? 『こんにちは、ビリー。今日もいい天気ですね』とでも言えばよかったか?」

 

「うるせえ!」

 

 ビリーは顔を真っ赤にして叫び、三節棍を独楽のように振り回した。ヒャハハという奇妙な笑い声が闇を切り裂く。

 鋭い突きが繰り出される。その一撃をガードし、反撃の隙を窺う。

 三節棍は独特の軌道を描きながら襲いかかってくる。一定のリズムがない。予測しづらい武器だ。だが俺は空軍で鍛えた反射神経でそれをかわし続ける。

 ビリーが再び三節棍で突いてきた瞬間、俺はその先を両手で掴んだ。

 

「なにっ!?」

 

 ビリーの驚愕の声が響き渡る。俺は三節棍を掴んだまま、全身の力を込めて振り回した。

 ビリーの体が宙を舞い、勢いよく地面に叩きつけられる。俺は奪い取った三節棍を遠くの暗がりに放り投げ、立ち上がろうとするビリーを見下ろした。

 

「あれがないんじゃ勝ち目はないと思うが、まだやる気か?」

 

「くそっ……なめんじゃねえ!」

 

 意地だけは一丁前だ。ビリーは大きく跳躍し、空中で鋭い飛び蹴りを放ってきた。

 だが、空を制するのは俺の特権だ。

 すかさずダブルサマーソルトキックを放つ。重力に逆らう二連続の蹴りが、ビリーの顎を正確に捉える。彼は空中でもみくちゃにされ、背中から地面へと墜落した。

 砂埃の中で咳き込むビリーに、俺は冷ややかな視線を向ける。

 

「喧嘩を売る相手を間違えたようだな。早く飼い主のところへ戻れ」

 

 周囲で見物していた連中から小気味よい拍手が湧き起こる。この街の住人は、強い者には敬意を払うらしい。

 もうこの街には用はない。俺がその場を立ち去ろうとしたその時だった。

 

「おい、待ちやがれ! まだ終わっちゃいねえぞ!」

 

 ビリーがよろよろと立ち上がった。そのしぶとさは、彼がこの街で生き残ってきた証なのだろう。

 俺は溜息をつき、振り返った。

 

「往生際の悪い奴だな。素直に負けを認めろ」

 

 ビリーは革ジャンとレザーパンツについた土埃を、親の仇のように念入りに払い始めた。そして鋭い目つきで俺をじっと見つめ、信じられない言葉を口にした。

 

「そのシワ一つない清潔なベスト、輝くように白いシャツ……てめぇ、さては綺麗好きだな?」

 

 ……何だ、その質問は。

 俺の頭の中に、いくつもの疑問符が編隊を組んで飛来した。

 

「えっ? ああ。士官学校でさんざん叩き込まれたからな。身だしなみは規律の第一歩だ」

 

 それを聞いた瞬間、ビリーの表情がぱっと輝いた。彼は満面の笑みでサムズアップしてみせた。

 

「最高だぜェ! あんたとは美味い酒が飲めそうだ!」

 

 ビリーは街の出口を指差し、「こんなとこで立ち話してる場合じゃねえ。行くぞ」と言った。意気揚々と歩く彼の背中からは、敵意がすっかり霧散していた。

 一体、何が起きたのかはわからない。だが、俺のクリーニング技術が、このマフィアのナンバー2の心を射止めたことだけは確かだった。

 俺はふと地面を見やり、投げ飛ばした三節棍を拾い上げた。

 

「おい、これを忘れているぞ」

 

「ああ、そうだった。ありがとよ」

 

 三節棍を受け取るビリーの横顔には、先ほどまでの殺気は微塵もなかった。

 

 ビリーの後を追う。埠頭の倉庫が作る長大な影の中に、黒塗りのベンツが潜んでいた。その前には、彫刻のように無表情な黒服の男が二人立っており、周囲を警戒している。

 ビリーが小声で指示を出すと、黒服たちは短く頷き、訓練された猟犬のような動きで運転席と助手席に滑り込んだ。

 

「さあ、乗った乗った」

 

 ビリーが俺の背中を叩く。

 このベンツはサウスタウンを支配する企業、ハワード・コネクションの所有物に違いない。空軍少佐がマフィアのリムジンに同乗していると知れれば、憲兵隊が血相を変えて飛んでくるだろう。

 だが、俺は黙って後部座席に身を沈めた。危険な好奇心は、時として規律よりも強く男を突き動かすものだ。

 ベンツは夜の闇を切り裂き、ポートタウンを脱出した。

 

「どこへ行くんだ?」

 

「いい店があるんだよ。最高にな」

 

 ビリーは上機嫌だ。

 マフィアの飼い犬が言う『いい店』か。ろくな場所ではないだろう。

 コンクリート詰めの死体でも見せられるのか、あるいは退屈な拷問部屋か。俺は最悪の事態を想定し、頭の中でソニックブームの軌道をシミュレートし続けた。

 

 車は人々が欲望を食い潰す街、セントラルシティを走り続ける。きらびやかな表通りから一本裏に入った場所に、その店はあった。

 看板には青いネオンで『The Afterburner』と書かれている。

 その店名を見た瞬間、俺の脳裏には一つの仮説が浮かんだ。

 オーナーは元整備兵か、あるいは軍への憧憬を拗らせた挙句に社会からドロップアウトした男だろう。店内には色褪せたF-15のポスターや、出所不明の階級章が、墓標のように飾られているに違いない。

 

 ドアを開けた瞬間、その予想は音速で崩れ去った。

 爆音で流れてきたのはパンクロックの名曲、『Rise Above』だ。

 店内に充満するのは安酒と粗悪な煙草の匂い。ここは秩序の欠片もないパンクバーだった。

 

 ビリーは慣れた足取りでL字型カウンターの突き当たり、最も奥の席へと俺を誘った。

 俺は無意識に周囲を観察する。背後は壁、左側にはビリーという肉体の障壁。出口へ向かうには彼を排除するか、カウンターを跳躍して飛び越えるしかない。

 ビリーは店全体を俯瞰できる、戦術的に極めて優位な角を占拠している。ここなら、俺がテーブルの下でわずかに拳を握る挙動さえ、彼の視界から逃れることはできない。

 さすがはマフィアのナンバー2と言わざるを得ない。その用心深さに、俺は内心舌を巻いた。

 

「……良い席だな。戦術的な意味で」

 

「だろう? この席が一番いいんだよ。なんたって、他の客がバッファローウィングを食ってても、ソースが飛んでこねぇからな」

 

 ビリーはにっと笑った。

 

「……理由はそれだけか?」

 

「それ以外に何の理由があるっつーんだよ。ここにいりゃあ、俺様の服をソースで汚しやがった野郎をぶちのめさなくて済むからなァ」

 

 ヒャハハと笑うビリーを前にして、俺は毒気を抜かれた。この男にとっての『戦術』とは、クリーニング代の節約だったらしい。

 敵を警戒するためではなく、ソースを警戒するために角を取る。この男、ある意味では俺以上のプロフェッショナルかもしれない。

 

「そうか……。まあ、賢明な判断だ」

 

 ビリーはカウンターのマスターにワイルドターキー101のロックを二杯、それにビーフジャーキーとスコッチエッグを注文した。

 

「俺の奢りだ。遠慮なく飲め」

 

 マフィアに奢られることに対し、軍人としての矜持が警報を鳴らしたが、ここで拒絶して不毛な押し問答をするのも時間の無駄だ。

 俺は短く「ありがとう」と告げ、運ばれてきた琥珀色の液体を呷った。喉を焼くアルコールの衝撃が戦場を思い出させる。

 

「いい飲みっぷりだねェ」

 

「あんたもな」

 

 直後、訪れた奇妙な沈黙を、俺たちはバーボンの氷を溶かす音で埋めた。

 

「あんた、イギリス人か?」

 

 俺がビーフジャーキーを噛みしめながら尋ねると、ビリーはスコッチエッグを頬張りながら頷いた。

 

「よくわかったな。ロンドン出身なんだ」

 

「訛りでわかる。それに、スコッチエッグを迷わず注文したからな」

 

「へえ、観察力がいいねェ」

 

 ビリーが感心したように言った。俺は続けて尋ねる。

 

「なぜサウスタウンに来たんだ?」

 

「稼ぐために決まってんだろ。両親が早死にしちまったんでな、俺が妹を養わなきゃならなかったんだ」

 

 マフィアが跋扈するこの街で妹を守り抜いてきた男の言葉には、乾いた重みがあった。

 

「そんな事情があったのか……。それで、どうやってハワード・コネクションに入ったんだ?」

 

「最初はギース様が経営してる工場で働いてたんだが、他の連中と揉めちまってな。鉄パイプで全員血祭りに上げてやったんだ。ちょうどそこにギース様が視察に来て、俺のことをいたく気に入ってくれてな。そのおかげで、ハワード・コネクションのナンバー2まで一気に駆け上がったってわけだ」

 

 ビリーは誇らしげに語った。従業員同士の紛争を武力で解決したことを手放しで賞賛はできないが、一介の工員に組織の命運を託す、ギース・ハワードという男の眼力には驚かされる。

 

「大胆かつ柔軟な人事だな。従業員のポテンシャルを最大限に引き出し、役職と待遇を与える……。裏の顔さえなければ、理想的な経営者と言えるかもしれん」

 

 俺がそう感心すると、ビリーは深く頷きながら革ジャンのポケットのポケットに手を入れ、ゴロワーズを取り出した。

 

「イギリス人がフランスの煙草か」

 

「うるせえ。この旨さがわかんねえのか」

 

 ビリーは俺を鋭く睨みつけ、煙草に火を点けた。濃厚で癖のある煙が漂う。

 俺も自分のポケットからマールボロを取り出した。それを見たビリーが指を差して笑う。

 

「出た! マールボロ! アメリカの白人は、どいつもこいつもそれかキャメルだな」

 

 笑いたいのなら勝手に笑うがいい。俺は軍人だ。個性などという不確定要素は必要ない。士官に求められるのは、規律、伝統、そして統計に基づいた信頼性だ。

 マールボロは100年以上の歴史と全米シェア45パーセントを誇る、伝統的かつスタンダードな銘柄だ。

 数こそ正義だ。俺はこの箱の中に、アメリカの正義を詰め込んでいる。

 

「あんたも煙草を吸うクチだとは思ってなかったが、意外だな」

 

「よく言われるよ。家では吸えないんだ。うるさい女房がいてな」

 

「俺も家じゃ吸えねえんだ。妹が『服に匂いがつくからやめて!』とか、『壁紙がヤニで黄ばんだら退去費用を請求されちゃうじゃない!』とか騒ぐからな。ほんっとうるさくてかなわねえよ」

 

「お互い苦労するな」

 

 俺たちは煙とともに、家庭における肩身の狭さを吐き出した。

 マフィアのナンバー2と空軍少佐が、喫煙所の同志のように頷き合う。シュールな光景だが、この瞬間、俺たちの間には確かに平和が存在していた。

 

 煙草を吸い終えた俺たちは次の酒とつまみを注文する。俺は再びワイルドターキー101のロックを注文し、つまみにはポップコーン・チキンを選択した。

 本当はソースまみれのバッファローウィングにかぶりつきたかった。だが、その行為はどう考えてもビリーの心証を悪くするだけだ。

 ここは妥協せざるを得ない。そこで俺は一口サイズの揚げ鶏をチョイスしたのだ。

 

 一方、ビリーはつまみにデビルドエッグズを注文した。『悪魔の卵』などという仰々しい名の料理だが、何のことはないイースター料理である。

 俺にとっての悪魔は納豆だけだ。

 

「卵料理が好きなのか?」

 

 デビルドエッグズを嬉々として食らうビリーに尋ねた。

 

「ああ、大好物だ。エッグベネディクト、オムレツ、スクランブルエッグ……朝の食卓に美味い卵料理があるかどうかで、その日の士気が決まるだろ?」

 

「同感だ。完璧なオムレツは、完璧な作戦計画に匹敵する」

 

 俺の言葉に、ビリーは満足げに頷いた。

 

「あとは……妹の手料理なら何でも好きだ」

 

「何でも、か。たとえ『納豆餅』を出されてもか?」

 

「ナットーモチ? 何だそりゃ」

 

 俺はグラスを置いた。その言葉を耳にするだけで胃の腑が拒絶反応を起こす。

 

「一言で言えば、腐敗した豆だ。異様な臭気を放ち、糸を引く。地獄の底から這い出してきた悪魔の食い物だ」

 

「へえ、そんな物騒なもんがあるんだな。逆に興味が湧くぜ」

 

「やめておけ。死ぬぞ」

 

 俺の真剣な眼差しに、ビリーは「冗談だって」と笑い飛ばした。

 

「ま、うちのリリィはそんな怪しいもんは出してこねぇから安心だな」

 

 リリィ。それが彼の妹の名だろう。その家庭的な響きに、俺はしばし戦場を忘れ、平和な休息に身を委ねていた。

 

 ほどなく俺たちは『The Afterburner』の騒音を背に、再び黒塗りのベンツへと戻った。

 ビリーがフロントガラス越しに、夜の帳が降りたサウスタウンを見つめながら呟く。

 

「なあ、俺ん家に来ねぇか? 口直しにリリィの作った料理を食ってくれよ。最高にうめぇからさ」

 

 アメリカ空軍の少佐が、マフィアのナンバー2の私邸に足を踏み入れる。軍法会議が開かれれば、俺のキャリアは音速で墜落するだろう。

 だが、目の前の狂犬が一人の兄へと戻る瞬間を見てみたい――そんな好奇心が、規律という名の安全装置を解除してしまった。

 

「それはいいな。では、お言葉に甘えて」

 

 俺が誘いを承諾すると、ビリーはスマートフォンを取り出し、手慣れた様子で通話を始めた。

 

「……おう、リリィか? いま仕事が終わった。これからダチを連れて帰るから、メシを用意しておいてくれ。ん? いや、普通の家庭料理で構わねえよ」

 

 ……ダチ、だと?

 いつの間に俺は、この棒術使いの『標的』から『友人』という名の階級へ昇進したのか。マフィアの人事査定は、俺が考えているよりも遥かにスピーディーらしい。

 

 ベンツに揺られること30分。セントラルシティを抜け、橋を越えてイーストアイランドの静寂へと滑り込む。

 車が停まったのは、広大な公園を眼下に見下ろす、洗練された高層マンションの前だった。

 

「ここが俺とリリィの城だ」

 

 ビリーに促され、コンシェルジュの冷ややかな視線を潜り抜けて21階へ。ドアが開くと、暖かな照明の光が俺たちを包み、食欲をそそるいい匂いが漂ってきた。

 

「ただいま」

 

「おかえりなさい!」

 

 奥から現れたのは、長いブロンドを可憐なおさげにした、17、8歳ほどの少女だった。彼女がリリィだろう。屈託のない笑顔は、この腐敗した街に咲いた唯一の清らかな花のように見えた。

 

 ダイニングルームに案内されると、俺は言葉を失った。

 テーブルを彩るのは、骨付きラムのオーブン焼き、淡いオレンジ色をしたスモークサーモンのパテ、薄切りのライ麦パン、そして彩り豊かなサラダにトマトスープ。そして中央には、太陽をそのまま固めたような、見事な黄金色のオムレツが鎮座していた。

 

 俺の胃袋が歓喜の産声を上げる。

 妻ユリアの得意料理――巨大な耐熱皿に正体不明な残り物の肉と野菜を詰め込み、ホワイトソースと大量のチーズをぶち込んでオーブンで焼いた、キャセロールという名の産業廃棄物とはそもそも設計思想からして異なっていた。

 

「ヒャッハー! オムレツもあるぜ!」

 

 ビリーは骨付きラムには目もくれず、オムレツにだけ熱狂的な反応を見せた。この男、戦場では狂犬だが、食卓では重度の卵中毒者らしい。

 

 俺たちはジャイプルが注がれたグラスを合わせ、乾杯した。

 リリィの作ったトマトスープを一口啜る。爽やかな酸味と甘みが、乾いた喉を戦闘機のアフターバーナーのように熱く、そして優しく潤した。

 ラムの肉汁は口の中でジューシーな散弾となって弾ける。最高だ。

 

「ところで、兄とはどこで知り合ったんですか?」

 

 リリィが好奇心に満ちた瞳で尋ねてきた。

 ダウンタウンの路上で、君のお兄さんをダブルサマーソルトで撃墜したのが初対面の挨拶だったんだ――とは口が裂けても言えない。

 

「さっき、セントラルシティにあるパンクバーで知り合ったんだ。『The Afterburner』という店でね」

 

「まあ! それってマフィアが経営しているっていう噂のバーですよね。兄さん、またそんな危険な店に行ってたの?」

 

 リリィの追及にビリーがたじろぐ。俺は助太刀に入った。

 

「彼は覆面調査の仕事をしていたんだよ。オーナーから依頼されて、店内の風紀やサービスをチェックする、いわば秘密の査察官だ」

 

「そうなんだよ! 俺は何でも屋みてぇな仕事をしてっからさ、時々そういう依頼も受けるんだ」

 

 ビリーはリリィに気づかれないような速度で、俺にサムズアップを送った。

 リリィは俺たちの話を疑いもせず、「そうだったんだ。わざわざ覆面調査を依頼するようなお店なら、経営者はちゃんとした堅気の人なんでしょうね」と言って微笑んだ。

 マフィアのナンバー2と空軍少佐。俺たちはいま、リリィという名の正義の前で、奇妙な共犯関係を築き上げていた。

 

 夕食は和やかに進んでいく。俺はオムレツにナイフを滑り込ませた。

 美しい断面が現れる。だが、そこにあるはずのない異物が俺の目に捕捉された。

 ひよこ豆やレンズ豆に混じって、一見するとピーナッツのような、だがどこか禍々しい光沢を放つ薄茶色の豆が入っている。

 俺は微かな違和感を覚えながらも、それを口へと運ぶ。咀嚼した瞬間、不吉な粘り気が舌の上に広がった。

 鼻腔を突き抜ける、発酵という名の腐敗臭。背筋に氷のような戦慄が駆け抜けた。

 

「……リリィ。このオムレツに入っている豆は何だい?」

 

 俺の声は、極限状態の無線機のようにかすれていた。

 

「ひよこ豆と、レンズ豆と……えーっと、もうひとつは何て言ったかな。ジョーさんからもらった豆なんだけど」

 

 ビリーがビールを吹き出し、椅子から跳ね上がった。

 

「ジョーだと!? リリィ、俺に隠れてあのパンツ野郎とまた会ったのか!」

 

 俺の横でビリーが声を荒げる。だが、俺にとっての脅威は、妹の交際相手などという矮小な問題ではなかった。

 椅子から立ち上がったリリィがキッチンの収納から袋を取り出し、ラベルを俺に見せてくる。そこにはこう印字されていた。

 

 Dried Natto

 

 その文字を見た瞬間、俺の視界はホワイトアウトした。

 

「オーマイガッ!! そんなものをオムレツに入れていたのか!?」

 

「だって、ジョーさんが『これはジャパニーズ・ヘルシーフードだ』って笑顔で勧めてきたから……」

 

 ヘルシーフード。その言葉は、俺にとって宣戦布告と同義だった。

 乾燥納豆という名の小型地雷が埋設されたオムレツを、俺は必死の思いで飲み下した。ビールを流し込み、胃の中の戦場を鎮圧しようと試みる。

 

「そんなことはどうでもいい! リリィ、あの野郎の誘いには乗るなと言っただろう!」

 

「私はもう成人よ。誰とデートしようが自由でしょ」

 

「何言ってんだ! アメリカでの成人は21歳だ。お前はまだ子どもだ! 俺の言うことを聞け!」

 

「私、イギリス人だもーん!」

 

「うるせえ! アメリカに住んでりゃアメリカの法律が適用されるんだよッ!!」

 

 激昂したビリーがテーブルを激しく叩く。法の外で生きるマフィアが法律を持ち出すとは、一体何のジョークだ?

 目の前で壮絶な兄妹喧嘩が繰り広げられている。だが、俺の心は別の場所にいた。

 

 日本でリュウに食わされた、あの生温かい地獄。

 サウスタウンでリョウに食わされた、あの粘りつく絶望。

 そしていま、イギリス人家庭の食卓にまで、奴は『健康』という名の仮面を被って侵入していた。

 

 日本。アメリカ。イギリス。

 奴に国境はない。

 俺は空を制する少佐だが、地上を這いずる糸引く悪魔からは逃げ切ることができないらしい。

 

 俺は再び、重い溜息とともにビールを呷る。どうやらこの地球上に、俺の安住の地はなさそうだ。

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