ガイル少佐のヘルシーフード戦記 ~食文化に撃墜された空軍士官~ 作:パワーポイント・レンジャー
今日は妻のユリアと娘のクリスとともに、サウンドビーチで海水浴をしている。
俺はビーチチェアに身を沈め、冷えたビールの缶を傾けた。隣ではユリアが雑誌をめくり、クリスが波打ち際で貝殻を拾っている。
端から見れば、家族で夏のバカンスを楽しんでいるだけの平和な光景だろう。だが、軍人にとっての休暇は、戦場と同じくらい神経を使うものだ。静寂はいつだって嵐の前触れに過ぎないのだからな。
そして案の定、その嵐は迷彩柄の服を脱ぎ捨てた、騒がしい集団という形で現れた。
「ガイル少佐ーっ!」
空気を切り裂くような大声が響き渡る。ラルフ・ジョーンズを先頭に、ハイデルン傭兵部隊の面々とリョウ・サカザキがこちらへ歩いてくるのが見えた。彼らの他に、見慣れぬ二人の女性も混じっている。
「お父さん、あの人は誰?」
「ラルフ・ジョーンズ大佐だ。俺の知り合いだよ」
「もしかして、あの有名な……?」
ユリアが驚きに目を丸くする。俺は「ああ」と頷いてから立ち上がり、砂を踏みしめて彼らのもとへ向かった。一歩ごとに、休暇の静寂が遠のいていくのを感じる。
「やあ、君たちもここに来ていたのか」
「ああ。やっと上陸許可が出たんでな。この青い海が俺たちを呼んでたのさ」
ラルフは白い歯を見せて笑った。隣ではリョウが爽やかな――あまりに爽やかすぎて、逆に裏があるのではないかと疑いたくなるような笑顔で話しかけてくる。
「また会ったな。楽しい休暇を過ごしているか?」
「ああ。二度も悪魔の豆に遭遇してしまったことを除けば、な」
俺の言葉に、リョウは愉快そうに肩を揺らした。
「納豆のことか? 悪魔扱いはひどいなあ」
リョウの隣にいる茶髪の少女が、不思議そうに俺を見上げている。
「お兄ちゃん、こちらの方は?」
「彼はウィリアム。ウィリーと呼んでやってくれ」
……もうウィリーでも何でもいい。俺は心の中でそう呟いた。
「初めまして。ウィリアムだ。よろしく」
「初めまして。私はユリでーす! よろしくッチ!」
少女はウインクしながらサムズアップを決めた。その陽気さは、砂漠で見つけた唯一のオアシスのように眩しかったが、同時にどこか落ち着かないものだった。
「こら! ちゃんと挨拶しろ!」
リョウが妹を叱咤する。その横で、ショートヘアの金髪の女性がさばさばと名乗った。
「私はキング。よろしくな」
「ああ、こちらこそよろしく」
挨拶を済ませると、カラフルなボールを持っているウィップが笑顔で声をかけてきた。
「これからみんなでビーチバレーをするんです。少佐もいかがですか?」
その提案は、ビールの酔いを醒ますにはちょうどいい刺激に思えた。俺は家族を呼び寄せ、ウィップたちと合流した。
ビーチには即席のコートが設営された。クリスが「リョウと同じチームになりたい」とせがんだ結果、チーム分けはこうなった。
【チームA】
俺、クリス、リョウ、ユリ、ウィップ
【チームB】
ラルフ、クラーク、レオナ、キング、ユリア
ウィップとユリアが得点係として一歩下がり、試合が始まった。
サーブ権はリョウだ。「いくぞ!」という叫びとともに放たれたボールが、鋭い軌道を描いて相手陣地へ突進する。それをクラークが完璧なレシーブで拾い、キングへと繋いだ。
「甘いよ!」
キングのトスが美しく上がる。跳躍したのはレオナだ。彼女のスパイクは、無音の暗殺術のように急角度で俺の足元を狙ってきた。
俺は砂を蹴った。横跳びに飛び込み、右腕一本でボールを弾き返す。砂が口に入ったが、気にする暇はない。
「ユリ、頼む!」
「任せて!」
ユリが華麗なステップでトスを上げ、リョウが咆哮とともにスパイクを叩き込む。ボールはラルフの顔面直撃コースを辿ったが、彼はそれを笑いながら胸で受け止めた。
「熱くなってきたじゃねえか!」
試合は次第にビーチバレーの枠を超え、疑似戦闘の様相を呈し始めた。
砂の上で繰り広げられるハイレベルなラリー。クリスもリョウのサポートを受けながら必死にボールを追う。ユリアの声援が潮風に乗って届く。
「こんのぉーっ!」
ユリが放った渾身のスパイクが、ラルフの守備範囲を襲う。
「うおりゃあああぁぁぁーーーーっ!!」
ラルフが雄叫びを上げた直後、乾いた破裂音がビーチに響き渡った。
ボールが手に当たった音ではない。何かが物理的に限界を迎えた音だ。
ラルフの拳が接触した瞬間、ボールは無残にも破裂し、ただのゴムの残骸となって砂の上に力なく落下した。
「大佐! ビーチバレーはボールを破壊する競技じゃありませんよ!」
ウィップの怒声が飛ぶ。ラルフは頭を掻きながら予備のボールを手に取った。
「いやー、わりぃわりぃ。ついうっかりな」
「手加減ってものを知りませんからねぇ、大佐は」
クラークが呆れたように言い、レオナが無言で深く頷く。それを見て、俺は深い溜息をついた。
この傭兵たちは戦場では最強の盾となるが、レクリエーションにおいては歩く災害でしかない。
「またボールを破壊されたら困るので、大佐は出場停止処分とします。ユリアさーん、大佐と交代してください」
ウィップの宣告に、ラルフが「おい、ムチ子。勝手に決めんなよ」と食ってかかる。
「大佐から異議申し立てがありましたので、多数決で処分を決めたいと思います。大佐の出場停止に反対の方、挙手をお願いします」
誰も手を挙げない。
「では、賛成の方は挙手をお願いします」
ラルフ以外の全員が、一点の迷いもなく手を挙げた。もちろん俺もだ。
「満場一致で賛成ですね。では大佐、こちらへ」
ウィップがラルフに向かって微笑む。その手には、いつの間にか青い鞭が握られていた。
「おい、待て。それは……ぎゃあああっ!」
鋭い音とともに鞭がしなり、瞬く間にラルフの巨体を縛り上げる。彼はそのままウィップに引きずられ、コートの外に追放された。
俺はそれを見なかったことにして、砂浜に落ちている予備のボールを拾い上げた。
ラルフの抗議の叫び声がBGMのように響く中、試合は再開された。
夕暮れ時、空がバーボンのような色に染まる頃、俺たちはビーチバレーを終えて砂浜を後にした。
「みんな、これからうちの店でパーティーをしないか?」
キングが提案すると、ユリが真っ先に飛び跳ねた。
「行く行くぅ! お兄ちゃんも来るよね?」
「ああ。たまには大勢でワイワイ騒ぐのもいいな」
リョウは沈みゆく太陽を背に笑顔で頷いた。
その横で、ラルフが部下たちの顔を見回し、「俺も参加するつもりだが、お前らはどうする?」と尋ねた。
「いやあ、俺はホテルに戻ってのんびり読書でも……と言いたいところですが」
クラークがサングラスを中指で軽く押し上げる。
「上官として、未成年の部下たちの監督をしなければなりませんからね。俺も参加しますよ」
「回りくどいことを言わずに、素直に飲みたいと言えばいいのに……」
レオナが無表情のままぼそりと呟くと、隣でウィップが小さく吹き出した。
「お父さん、私もパーティーに参加したい! ね、いいでしょ?」
クリスの要求に、俺は「ああ、もちろん」と頷いた。
娘の歓喜の跳躍を見ながら、俺は自然と頬が綻んでいくのを感じた。
駐車場に到着すると、ラルフが迷彩柄のジープに三人の部下を押し込んだ。
上陸休暇中だというのに、よりによってなぜあの車をチョイスした? ここはサウスタウンの街中だぞ。ベトナムのジャングルではない。
俺は口を噤んだが、彼らのプロフェッショナリズムは時折、TPOという境界線を踏み越える。それを止める術を、俺は持たなかった。
一方、キングはユリを黒いセダンに乗せた。洗練された都会の空気がそこにはあった。
そんな中、リョウ・サカザキは傭兵部隊よりはるかに異質だった。
彼は年代物の青いハーレーを押しながら現れた。服装は、いつの間にかオレンジ色の道着に下駄という、正気を疑わざるを得ない出で立ちに変わっている。さっきまでのTシャツとジーンズ姿は幻だったのか?
俺の疑問を置き去りにし、リョウはハーレーに跨った。その瞬間、彼の瞳から暖かな光が消え、底知れぬ狂気が宿る。
「街中の奴らをふっ飛ばしてでも爆走してやる」
彼は低く呟いた。
リョウ、それは犯罪だ。やめろ。
極限流空手の継承者がグリップを握ると人格が豹変するというのは、軍の機密文書にも載っていない恐ろしい事実だった。
俺はユリアとクリスを乗せたSUVを走らせ、キングのセダンを追走する。辿り着いたのは、海岸沿いの通りに佇む『Bar Illusion』だ。筆記体の青いネオンサインが夕闇に浮かび上がっている。
キングが店のドアを開けると、「いらっしゃいませ」というウェイトレスたちの朗らかな声が響き渡った。
店内は石造り風の落ち着いた内装で、南国の観葉植物がリゾートの香りを運んでいる。ステンドグラスから射し込む夕日が、木の床を七色のカモフラージュ模様に変えていた。
「今日は急遽、貸切パーティーを開く事になったんだ。ドアのプレートを貸切に変えてきてくれる?」
キングの指示で、ウェイトレスが『PRIVATE FUNCTION』と刻まれたプレートを手にドアへ向かっていく。ここはいま、俺たちの聖域となったのだ。
「さてと、料理が出来上がるまで時間がかかるから、酒と簡単なつまみを持ってくるよ。何がいい?」
キングの問いに、ユリが食い気味に応えた。
「ホワイトルシアンと、スモークサーモンとクリームチーズのカナッペ!」
……いきなり度数の高いカクテルを注文するとは。彼女の胃袋は、見た目以上に強化されているらしい。
「いつものやつね。あんたは?」
キングがユリの隣にいるリョウに視線を移した。
「俺は焼酎と納豆巻きにするよ」
その瞬間、俺の心臓は音を立てて凍りついた。
まさか……この洗練されたバーにまで、あの『発酵した悪魔の豆』が触手を伸ばしているというのか?
「あんたねえ……うちの店にそんなものがあるわけないでしょ。ちゃんとメニューを見てからオーダーしてちょうだい」
キングは呆れたように言い、テーブルの上のメニューを抜き取ってリョウの前に叩きつけた。
「えーっ、無いのかよ」
不満げなリョウを見ながら、俺は静かに、深く安堵の息を漏らした。神はまだ俺を見捨ててはいなかったのだ。
「よし、だったらロングアイランド・アイスティーっていうのをくれ。紅茶なら体にいいしな。あと、ワニ肉のナゲットだ。スタミナをつけなきゃ始まらないからな!」
リョウ……ロングアイランド・アイスティーは、紅茶のふりをしたアルコールの爆弾だ。
それを教えるべきか迷ったが、俺は黙っていることにした。
傭兵たちが囲んでいる隣のテーブルに目を移すと、混沌を極めていた。
「オールド・グランダッドの114をロックで! あと、オリーブの肉詰めフライだ」
ラルフが真っ先に吠えた。
「マッカランの25年をロックで。それと、ブルーチーズのハニーディップを頼む」
クラークは予算を無視した贅沢を口にする。
「ノンアルコールのサマー・イリュージョン。それと……彩り野菜のピクルス・ジン風味」
レオナはまたひたすら野菜を食むつもりのようだ。
「ハニー・ジンジャーエールと、焼きカマンベールの蜂蜜添えをお願いします」
ウィップは相変わらず蜂蜜まみれのチョイスだ。二人の女性傭兵の注文内容からは、もはや揺るぎなき信念すら感じる。
続いて俺も、キングに向かってオーダーを伝える。
「イーグル・レア10年のロック。ユリアはベリーニ、クリスはロイヤル・ミルクティーを。つまみは厚切りベーコンの燻製、生ハムとマンゴーのピンチョス、それからコンク・フリッターを頼む」
バラバラな注文に、多様的すぎる好み。それらを一手に引き受けるキングの背中は、まるで多国籍軍の司令官のように頼もしかった。
キングがカウンターへと消えていく。しばらくすると、ウェイトレスたちが酒とつまみを運んできた。華やかな盛り付けに歓声が上がる。
ほどなくキングがルビー色に輝くカクテルを手に戻ってきた。俺たちはグラスを掲げ、乾杯する。氷の触れ合う音が涼やかに響いた。
俺の正面に座るリョウが、琥珀色の液体を喉に流し込もうとしている。
「それは紅茶じゃない。泥酔への特急券だぞ」
俺の警告は滑走路に響く虚しい風のようなものだった。リョウのグラスからは、早くも半分の量のロングアイランド・アイスティーが消えていた。
「うおっ!? 効くぅーっ! さすがキング、この紅茶にはとんでもない隠し味がしてあるな!」
リョウは熱い吐息を漏らし、顔を上気させた。キングが呆れたように肩をすくめる。
「……後でリョウを道場まで運ぶのは、あんたの役目だよ。ユリ」
キングが耳打ちした言葉に、ユリが慌てて兄を揺さぶる。
「お兄ちゃん! それ、紅茶じゃないよ! すんごく強いカクテル!」
「ふぁ? あんらっれ?」
リョウの呂律は、すでにぬかるんだ泥道を走るジープのようにがたついていた。
その無様な姿を、ラルフが豪快な笑い声とともに切り捨てる。
「ったく、だらしねえなあ。その程度で酔っちまうとはよ」
ラルフはバーボンのグラスを揺らし、隣のクラークを射抜くような目で見据えた。
「よし、クラーク。勝負だ」
「受けて立ちますよ」
クラークの口元に不敵な笑みが浮かぶ。二人は競い合うように、オールド・グランダッドとマッカランを胃袋という名の暗渠に流し込み始めた。
次々に運ばれてくるバーボン、ウォッカ、テキーラ。それはもはや喉を潤すためではなく、自己を破壊するための儀式に近かった。
「……また始まったわ」
レオナが野菜のピクルスを淡々と咀嚼しながら呟く。
「二人ともザルだから、終わりのない勝負なのよね」
ウィップは呆れたように肩をすくめた。
酒の飲み方を根本から間違えている傭兵たちの横顔を見ながら、俺は静かにイーグル・レアを飲んだ。
香り高いベーコンの燻製をつまみながら状況を確認する。リョウはパーティー開始数分ですっかり出来上がっている。ラルフとクラークは勝負に夢中でまったく周りが目に入っていない様子だ。まともに会話できる状態なのは女性陣しかいない。
俺はいまにも寝てしまいそうな半眼のリョウを麦袋のように担ぎ、ソファ席へと放り出す。それからレオナとウィップに声をかけ、俺たちが座っているテーブルへと促した。
俺の目の前にユリとレオナ、ウィップが並んで座った。クリスが三人のお姉さんたちの登場に目を輝かせている。だが俺の心は、偵察機のように周囲の空気を警戒していた。
現代は迂闊な発言ひとつで訴訟の嵐が吹き荒れる、ハラスメントの地雷原だ。いまだに男社会の傾向が強い軍隊のノリは、ここでは通用しない。黙って女子のトークに耳を傾けているのが賢明だろう。
「ねえ、レオナ」
ウィップがピクルスをつつくレオナに声をかけた。
「……何?」
「もしもこの世に男が大佐と中尉しかいなくて、どちらかと結婚しなければならないとしたら、どっちを選ぶ?」
なんという質問だ。砂漠でサソリかガラガラヘビ、どちらに噛まれたいか選べと言っているようなものだ。
「そうね……どちらかしか選べないのだとしたら、大佐を選ぶわ」
レオナの淡々とした回答に、ウィップが悲鳴に近い声を上げる。
「ええっ!? 信じられなーい! あんな大雑把でいい加減で、口も人相も悪くて、おまけにハラスメントまでしてくるような筋肉ゴリラのどこがいいのよ?」
「体型については、大佐も中尉も似たりよったりだと思うけど……」
「微妙に違うのよ」
ウィップが断言した。俺の目には、どちらも過剰なタンパク質の塊にしか見えないが、彼女には独自の識別レーダーがあるらしい。
ユリアが俺の隣で「あの子たち、面白い話をしてるわね」と囁き、くすりと笑った。
俺の額に冷や汗が滲む。俺も空軍基地の女子更衣室あたりで、こんな風に品定めされているのだろうか。
「それで、大佐のどんなところが素敵だと思うわけ?」
ウィップの追及に、レオナの青い瞳が星屑のように微かにきらめいた。
「大佐はああ見えて洞察力があるし、包容力もあるわ。それに、一見強面だけど、よく見ると優しい目をしているのよ。きっと本来の性格が表れているのね」
恋する少女――そう形容するには、レオナの表情はあまりにも凪いでいた。だが、その言葉には確かな熱量があった。
「レオナ……それは全部、好意的誤解だと思うわ」
ウィップは小さく息をつき、ハニー・ジンジャーエールを一口飲んだ。
今度はレオナが問い返す。
「あなたは中尉を選ぶの?」
「もちろん! 彼は大佐と違ってクールで知的だし、女性の扱い方もスマートでしょう? それに、何と言ってもサングラスを取った素顔がイケメンモデル並に整っているのが魅力的なのよ」
ウィップは軽く手を組み、瞳を輝かせた。こちらは完全に恋する乙女の表情だ。
こんなに年の離れた美しい部下に恋愛感情を持たれるとは羨ま……おっと、こんなことを一秒でも考えてしまったことをユリアに知られたら、寝ている間に口の中に大量の納豆を詰め込まれてしまうだろうな。
「ウィップって、意外と面食いなのね……」
「わかってないわねぇ。男は顔と知性よ。あなただって、頭の悪いブサメンよりは、知的なイケメンのほうがいいと思うでしょ?」
暗にラルフを批判していると思われるその残酷な言葉に、俺は戦慄した。
アメリカ人の俺から見ると、ラルフは陽気で堂々としている上に、男らしい顔立ちと筋肉質な肉体を兼ね備えているので、かなりモテそうな部類の男ではあるが……ウィップが生まれ育った国では、ラルフのような男は不人気なのだろうか?
「でも、中尉はあんなにイケメンで知的で常識人なのに、どうしてあの歳になっても独身のままなのかしら? あの強烈なキャラの大佐でさえ、一度は結婚したことがあるっていうのに」
ウィップの疑問に、レオナが声を潜めた。
「その理由……聞いたことがあるわ」
「ほんと!? 興味あるわ。教えてよ」
レオナがウィップの耳に唇を寄せた。その囁きは、俺の高性能な聴力をも潜り抜けようとしているようだが、狭い店内では無意味だった。
「……大佐いわく、中尉は常識人の皮を被ったやべぇ奴だそうよ」
「そう、大佐がそんなことを……。で、中尉はどうやばいの?」
「病的なプロレスマニアかつガンマニアで、その二つについて語り出すと翌朝まで止まらなくなるらしいわ。その他にも、ベッドの上でプロレスの寝技をかけたがる性癖があるとか……士官学校時代の癖が抜けなくて、掃除や靴磨きやベッドメイクのやり方に物凄くうるさい小姑みたいな奴だとか……そんな噂を聞いたわ」
ウィップの顔から血の気が引いていくのがはっきりと見て取れた。
「その噂が全部事実だとしたら、結婚どころか恋愛にも向いてなさそうね……」
ウィップは指先を額に当て、深い溜息をついた。
「中尉が結婚できない理由は大体わかったけど、大佐が離婚した理由は何なのかしらね?」
その問いに、レオナは首を横に振る。
「さあ……それは知らないわ」
「あの人のことだから、どうせモラハラやDVで離婚したに違いないわよ」
ウィップが吐き捨てるように言った瞬間、雷鳴のような怒声が響いた。
「誰がモラハラDV夫だとぉぉぉっ!?」
空のグラスを叩きつけ、血管を浮き上がらせたラルフが、野獣のような眼光でウィップを睨みつけていた。
ウィップの肩が、不意に撃たれた標的のようにびくりと震える。
「ちょっ、どうしてそういうところだけ聞いてるんですか!?」
焦燥を滲ませるウィップの声を、ラルフが怒号で塗りつぶす。
「聞こえるような声で言うからだ! ったく、お前はほんっとに可愛げのない――」
言いかけたラルフの言葉を、ウィップの冷ややかな視線が断ち切った。
「可愛げのない女ですって? 大佐。いまの発言、セクハラですよ」
「あ? どこがセクハラなんだよ」
食ってかかるラルフに、ウィップは法律文書を読み上げるような淀みのなさで応酬する。
「大佐のご発言は、『女なら愛想良くすべき』『可愛げがあるのが女性の美徳』という、性別に基づいた固定観念を押しつけています。したがってセクシュアル・ハラスメントに該当します」
「くっ……これだから最近の女は……」
「最近の女は? なんでしょうか?」
追い詰めるウィップ。戦場なら、すでにラルフの喉元にはナイフが突き立てられているだろう。
クラークが苦笑しながら、沈没しかけた泥舟に助け舟を出す。
「大佐、これ以上やり合うと墓穴を掘りますよ」
ラルフは「チッ」と乾いた舌打ちを一つ残し、オリーブの肉詰めフライをフォークで無慈悲に刺した。
バーボンのグラス越しにその光景を眺めていた俺は、戦友の敗北に深い同情を禁じ得なかった。現代という名の戦場は、硝煙よりも、言葉の地雷原の方が遥かに危険だ。
だが、地雷は俺のすぐ隣にも埋まっていた。
「ねえ、お父さん。モラハラDV夫ってどういう意味?」
クリスの純粋な問いが、俺の気管にバーボンを流し込んだ。
「げほげほっ、ごほっ……そ、そういう言葉はまだ知らなくていいぞ、クリス」
肺が焼けるような痛みを感じながら、俺は必死に戦線離脱を試みた。だが娘は容赦ない。
「えーっ。いいもん、お母さんに聞くから。お母さん、どういう意味?」
俺は隣で微笑むユリアを見る。彼女は嵐の中の灯台のように穏やかだった。
「うーん、そうねえ……お父さんは優しいでしょ?」
ユリアの問いに、クリスが「うん」と頷く。
「お父さんは私たちを殴ったりしないわよね?」
「うん」
「モラハラDV夫っていうのはね、お父さんとは正反対の男の人のことを言うのよ」
ユリアよ、お前は天使か! それとも戦場に降る慈雨か。俺は心の中で、妻に名誉勲章を授与した。
一方その頃、戦火はユリ・サカザキの元へと飛び火していた。
ウィップが獲物を狙う鷹のような目でユリに尋ねる。
「ねえ、ユリ。あなたはラルフ大佐とクラーク中尉、どっちを選ぶ?」
「えっ!? えーっと……私、どっちも好みじゃないんだよね」
道に迷った旅人のような苦笑いを浮かべるユリに、ウィップが追撃を加える。
「じゃあ、どんな人が好みなの?」
「んー……キングさんみたいな人!」
ユリは満面の笑みを浮かべた。その発言が爆弾の信管であることに、彼女自身は気づいていない様子だ。
「ええっ!?」
ウィップが素っ頓狂な声を上げた。レオナの瞳がわずかに見開かれる。俺も厚切りベーコンを喉に詰まらせそうになった。
目の前で繰り広げられているガールズトークは、いつの間にか禁断の香りを帯び始めていた。
「ユリ……あなた、レズビアンだったの?」
ウィップが声を潜め、重々しく尋ねた。
「ち、違うよー!」
ユリが慌てて両手を振る。その動きは、まるで飛んできた手榴弾を必死に投げ返そうとしているようだった。
「では、どういう意味なの?」
レオナが追及する。その口調は尋問官のように鋭い。
「中性的な感じでー、凛としててかっこいい人が好みってこと!」
……なるほど。俺は納得した。
ユリはアメリカ育ちのはずだが、男の好みに関しては、この国のマッチョイズムに背を向けているようだ。
そんな混沌とした会話を切り裂くように、香ばしい匂いが漂ってきた。キングがウェイトレスたちを引き連れて現れたのだ。
「みんな、お待たせ! 温かいうちにどうぞ」
テーブルに並べられた皿が、湯気とともに夜の喧騒を一時停止させる。
俺は目の前の料理に手を伸ばした。複雑に絡み合った人間関係と会話を解きほぐすには、言葉よりもナイフとフォークの方が役に立ちそうだ。
サウスタウンではこの時期が旬の、ブルークラブというカニを使ったムニエルが、正面に置かれた皿の上に鎮座している。
「ブルークラブか。この街に夏が来たという実感が湧く食材だな」
「そうだね。このカニの青い殻が熱を通されて赤く染まるのを見ると、なんだか……沸き立つ血の色を見ているようで、少しだけ気分が高揚するんだ」
キングが微笑を浮かべながらそう言った瞬間、レオナが微かに眉をひそめたような気がした。
俺はブルークラブのムニエルを切り分け、口に運ぶ。サクサクとした食感に続き、カニの旨味が詰まった汁が舌の上でじゅわっと広がっていく。バターの濃厚な風味と混ざり合い、絶品だ。
テーブルの上では和気藹々とした時間が流れていた。ラルフとクラークは、互いの肝臓の強度を確かめ合う不毛な勝負を一時休戦し、仔羊のグリルにがっついている。ユリは「これ、美味しい!」と無邪気に笑い、クリスもロイヤル・ミルクティーを啜りながら、桃と生ハムとモッツァレラのカプレーゼを楽しんでいるようだった。
だが、俺の視界の端で不穏な静寂が漂っていた。レオナだ。
彼女は、俺が軍人として認めることのできないヘルシーフードの権化――夏野菜のテリーヌと、ズッキーニの花の詰め物を黙々と咀嚼していた。
その姿は嵐の前の海のように静かで、どこか非現実的だった。草食動物のような食事が、彼女の内部にある何らかの均衡を保っているのかもしれない。俺はそう自分に言い聞かせ、バーボンを口に含んだ。
その時だった。レオナが手にしていたフォークが、カランと乾いた音を立てて床に落ちた。
彼女は急に、両手で自らの頭を強く抱え込んだ。
「……レオナ? どうした?」
ラルフが心配そうに声をかけるが、レオナの返答はない。代わりに彼女の喉の奥から、地獄の底で錆びた鎖を引きずるような低い呻き声が漏れ出した。
「う……うああああああっ!」
それは人間の喉から発せられるべき声ではなかった。
レオナの髪が血のような赤い輝きを帯び始め、瞳からは理性の光が霧散する。
オロチの血――彼女の内部に眠る呪われた遺伝子が、いままさに最高潮を迎えようとしている酒宴の席で、最悪の目覚めを迎えたのだ。
彼女は獣のような咆哮とともに、テーブルを片手で弾き飛ばした。
俺たちの前にあった平和の象徴――ブルークラブのムニエルも、仔羊のグリルも、桃と生ハムとモッツァレラのカプレーゼも、一瞬にして宙に舞い、床へと叩きつけられた。
「逃げろ! ユリア、クリス!」
俺は瞬時に危険を察知して、妻子を店の隅へと逃がした。俺の身体は思考よりも先に戦闘態勢へと移行していた。
暴走したレオナの動きは、もはや人間の範疇を超えていた。彼女は目にも留まらぬ速さでクラークに飛びかかり、彼の胸元を切り裂こうとする。クラークは間一髪でバックドロップを仕掛けようとしたが、いまのレオナは、捕らえようとしても指の間からこぼれ落ちる水銀のようだった。
「おい、レオナ! しっかりしろ!」
リョウが酔いも覚めきらぬ足取りで割って入った。
「覇王――」
彼が技を繰り出す前に、レオナの回し蹴りがリョウの腹部を捉えた。彼は勢いよく吹っ飛ばされ、酒瓶が並ぶ棚へと突っ込んだ。
琥珀色の液体が雨のように降り注ぎ、高級なウイスキーの香りが辺り一面に立ち込める。
「ったく、手が掛かる部下だぜ!」
ラルフが拳を構えた。彼の瞳には、上官としての覚悟と、わずかな狂気が宿っていた。
「少佐、手出しは無用だ。こいつは俺の仕事だ」
俺は頷いた。軍の階級を超えた、男たちの暗黙の了解がそこにはあった。
レオナはラルフに向かって獣のような俊敏さで襲いかかる。だがラルフは逃げなかった。彼は一歩踏み込み、その右拳に燃えるような闘気を溜め込んだ。
「くらえ! ギャラクティカ・ファントム!」
物理法則を無視した一撃がレオナの腹部にめり込んだ。
空気が爆ぜ、衝撃波が店内の観葉植物をなぎ倒す。レオナの華奢な身体は、まるで目に見えない巨大な弾丸に撃たれたかのように後方へと吹っ飛ばされた。
激しい音を立てて、彼女は石造り風の壁に叩きつけられた。壁にはクモの巣状の亀裂が入り、彼女はその衝撃で糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちた。
静寂が戻った。
ラルフが肩で息をしながら、倒れたレオナに歩み寄る。
「……おい、生きてるか」
レオナが小さく呻き、元の青い髪色に戻った頭を振った。
「大佐……私、また……」
「気にするな。おかげで目が覚めたぜ」
ラルフは彼女の手を取り、無造作に立たせた。
騒動は収まった。だが、俺たちの目の前に広がる光景は戦場よりも悲惨だった。
床には割れたグラスの破片が散乱し、天井からは破壊された照明が寂しく揺れている。ステンドグラスは砕け散り、観葉植物はただのゴミの山と化していた。
そして、カウンターの奥から一人の女がゆっくりと歩み寄ってきた。
キングだ。
彼女の表情は冬のシベリアよりも冷たく、その手に握られた計算機は、どんな自動拳銃よりも威圧感を放っていた。
「……終わったかい?」
彼女の声は、低く、そして静かに震えていた。
「素晴らしいショーだったよ。おかげで私の店は、開店以来の『リニューアル』が必要になった」
彼女は流れるような手つきで計算機を叩き、一枚のレシートを俺たちの前に突き出した。
そこに記された数字を、俺は二度見した。
「……何かの間違いじゃないか? ゼロの数が、アフリカの小国の国家予算くらいあるぞ」
「店内の内装費、割られたヴィンテージの酒、営業補償、それに私の精神的苦痛。端数はサービスしておいたよ」
キングは冷ややかに笑い、まずラルフの鼻先にレシートを突きつけた。
「大佐、あんたが主犯だ。部下の管理不足も込みで、半分は持ってもらうよ」
「なっ、俺は止めようとしたんだぞ!?」
「壁に穴を開けたのはあんたの拳だ」
次に、リョウ。
「あんたもだ。棚を壊した分の酒代、きっちり払ってもらうよ」
「ええっ!? 俺は被害者だろ!?」
そして、キングの冷徹な視線は俺へと向けられた。
「ガイル少佐。あんたもだ」
俺はバーボンの最後の一滴を飲み干し、乾いた声で答えた。
「待て。俺はただ、家族を守るために隅にいただけだ。破壊活動には一切加担していない。空軍の規約にも、他人の喧嘩の連帯責任を取る義務はないと書かれている」
「空軍の規約なんか知ったこっちゃないよ。うちの店は連帯責任制なんだ。ユリアさんとクリスの飲食代はサービスしてあげるから、男らしく払いなさい。分割払いも受け付けてるわよ?」
キングの瞳には、一切の交渉を拒絶する徴収官としての鉄の意志が宿っていた。
ユリアが隣で困ったように微笑んでいる。クリスは派手に破壊された店内を呆然と眺めていた。
俺はポケットから財布を取り出した。中には、次の休暇で家族をディズニーランドに連れて行くための資金が入っている。だが、いまこの瞬間、その資金はバー・イリュージョンの修理代へと姿を変える運命にあるらしい。
太陽は沈み、夜が始まったばかりだというのに、俺の財布の中身はすでに夜明けを待ち侘びるほどに枯渇しようとしていた。
俺は一枚のカードを差し出し、呪文のように呟いた。
「……領収書をくれ。宛名は『アメリカ合衆国空軍』だ」
通るはずのない経費を申請する絶望感。
それは納豆を食わされた時の、あの不快な喉越しにどこか似ていた。