英霊の戦いを体験していると勘違いしてしまうが、人はペットボトル1本分の出血をすれば勝ち目はなくなる。重要な臓器を守るために手足への血流が減り、まともに身動きが取れなくなるからだ。
全身運動の中で皮膚が冷たくなるのは死を意味する。サーヴァントとして人理を守ってきたマシュもその肌感覚を実践で味わってはいるが、自らが抱えている今の肉体を信頼することは出来なかった。
霊基を拝借するのではなく、本当の意味で
「シッ!」
意識の隙間を突いて─正確にはマシュの思考を無視して、リリスは乱雑にマシュに切り掛かった。素人の力任せの攻撃ではない。肩に担ぐ構えから柄頭を押し出しながら手首を返し、左右のブラフを混ぜながらマシュの首を狙っている。
お手本のような一撃を、マシュは盾を使って難なく弾いた。大仰にリリスの体勢が崩れるが、マシュは迎撃を選択しない。しなやかな身体に残された重心が西洋剣術の命である腰と一致させている。
案の定というべきだろうか。リリスは両脚を地面にへばりつかせて横薙ぎの蹴りを牽制に、マシュに顔面の突きを繰り出した。マシュはあえて飛び上がって蹴りを受け止め、空気を割く剣撃を肩の鎧で受け流した。
「ちっ」
リリスが距離を取るに併せてマシュは盾を眼前に前進した。持ち手から軽く揺れた感触はリリスが盾を触った合図だ。マシュは染み付いた動作で左腰から喉元に向けて盾の先に剣を突き刺した。ラップショットの亜種。本来ならば敵の肩口を背後から巻き取る技だが、英霊に対しては片手を差し出す自滅手にしかならないために直線的に改造したマシュの奇襲技だ。
骨を抉るはずの感触の返答は金属音だった。
顎を貫く一撃は、リリスの肘により防がれた。脇を的確に締めることによる密着状態からの防御術。マシュは剣を持つ手を逆手に持ち換えて剣を素早く引き抜く。ざりざりとなる異音はリリスが盾と手甲を押し付けてへし折ろうとした経歴だ。代わりに発生したのは、盾を擦り合わせる擦過音。互いの優位な間合いを奪うための力と技のせめぎ合い。予想したよりもしっかりとした基礎に、マシュはリリスの本気を悟った。
ガリガリと盾の押し合いを流しつつ、マシュは盾を数度だけずらした。擦過音の響きの色が変わる。ベクトルを変えることで右外に追いやられる目論見だったリリスの盾は、肘と膝を曲げることで内側へと曲げられた。マシュは開けられた右肩に対して剣を振った。
腕力が目立つ未熟な斬撃だが、Bランクの筋力は鉄を圧し折るには問題ない威力。リリスは頭を地面スレスレまで下げながら回し蹴りで踵の隙間で剣の根本を捉え、地面に勢いよく踏みつけた。しかし背中は見えた。マシュは剣をレバーのように前に倒しながら、脚に力を入れて
「「はあっ!!」」
肉を潰す感触はなかった。それどころかこちらを吹き飛ばしかねない反動にマシュはたたらを踏みかけた。リリスは即座に正面に戻ったが、技を秘匿することには失敗した。かつて李書文との戦いで見た鉄山靠。マシュはリリスの武術に対する認識を改めた。
きっと、召喚されてから何度も座へ仕入れた努力なのだろう。産まれゆく子と母に死を齎すならば、リリスは
「痛っう〜。キリエライト重すぎじゃない?」
「1キロも違わないはずですけど!?」
「充分じゃない?」
そうかも知れないとマシュは一瞬だけ口籠った。
「ていうか何あの振り下ろし。突然の猿剣法にアテシもびっくりだよ」
「攻撃なら盾でなんら支障なかったので」
「…何のためにあるの?その腰の剣(素)」
「…。……えっと、……………ギャラハッドさんの、お守りでしょうか」
思い返せばこの剣を実践で使用したことが一度もない。最近の弱体化した霊基ではそもそも存在しなかった。ぼやけた返答をしたマシュに、リリスは見当がついたとばかりに目元を薄くした。
「自己評価くらいはマトモにしなよボケカスゥ!」
「所長から資料貰えなかったんですよ!!」
リリスは盾を地面に付けて身を低くした。肉食獣が飛びかかる直前をトレースしたような、不意と初速を極めたような構えだった。鎧を身に纏う西洋剣術では不合理な姿勢に、マシュは大股の姿勢で待ちを選んだ。右肩と頭部を露出し、右脚の先端が剣のカモフラージュとして盾からはみ出ている。左脚に大半の重心を預けることで盾外の末端をカバーする迎撃の構えだ。
「しゃあっ!」
リリスはフェイントもなく突撃した。レスリングを彷彿とさせる足首狙いの低空タックルならぬ低空突き。だが、鎧というウエイトがある以上初速には限度がある。マシュは草を刈り取るように
「翼っ…!?」
「だから、キリエライトは重いって言ってんでしょうが!」
リリスは剣を防いだ勢いのまま回転していた。地面に片翼を叩きつけ、残る片翼でマシュの手を強引にかちあげたのだ。致命を肩の負傷だけで済ましたリリスは、浮いたマシュの手を掴んで一気に飛び上がる。その間にマシュは致命となるリリスの剣の柄頭を押し出して手放させることに成功したが、リリスはお構いなしに手を振り回した。
マシュの手がリリスに引っ張られて回転する。小手返し。手首を制圧することで敵を押し倒す合気の技。力で抵抗しても肘を壊されるだけだと判断したマシュは、投げを受け入れる代わりに盾を背中に回して回転を真横にずらした。
「まだまだ人外理解が足りないねぇ!!」
人間ならば不可能な空中でのベクトルの増減を、リリスは翼により容易くこなした。リリスが先に着陸するはずの回転が半回転だけ加速してマシュの背中が地面に先着する。受け身よりも先にマシュは両手を顔の前に密着させた。リリスの腰がマシュの鎧に乗った以上、手を掴まれたら終わりだからだ。
マウントポジション。
リリスの拳打がマシュの耳裏を翼を目眩しにして陰湿に狙う。翼を目眩しに放つ拳は非常に手慣れたものだったが、ケイローンから受講したパンクライオン(初級)に合格したマシュには通じない。マシュは両手で捌きつつ腰を持ち上げてリリスの重心を崩そうとしたが、夜魔リリスの人外由来は腰こそにある。べだりと張り付いたリリスの腰はマシュから1ミリも離れなかった。
「腰の挙動が余りにも気持ち悪すぎます…!」
「アテシのアイデンティティになんたる言い草!ポリコレパンチを喰らえ!」
「へばっ!」
マシュの人中にリリスの鉄拳が衝突する。前歯がへし折れそうな痛みと合わせ、涙とリリスの記憶が流入する。脳内に浮かんだのは藤丸の母親だった。以前に顔合わせした時よりも若く美しい(藤丸家族からは鼻で笑われた)彼女は『無差別殺人とテロに口挟む趣味はねーわ』と笑っていた。
これが彼女の色彩か。
「レズビアン!!」
「友情だっての!!」
マシュが腐心する一方、リリスは『結婚後にオルガマリーの体重が5キロ幸せ太りした』というくっそどうでも良い思い出が流し込まれていた。涙を拭いながらマシュはリリスの生半可な攻撃を防ぎ切った。
「ゴミみたいな情報を混ぜるとは…!やるね、キリエライト…ッ!」
「いえ別に意図した訳ではありませんけど!?」
マシュはリリスのやたら柔らかい太腿を掴んで前に滑った。股下から頭を抜けて背後をとる目論見だったが、リリスが反応するより前にマシュの動きは堰き止められた。
「デカ乳ィ!!」
「痛ぁい!!」
巨乳をひっ叩かれ、マシュとリリスは再度記憶を混在させた。
『やあ。マシュ・キリエライト。これから教育を受ける君は忘れてしまうかもしれないが、というか忘れさせてもらうが、義務として私が求める役割を話そう。君には、藤丸立香の
リリスが硬直する。マシュは脚をリリスの翼に引っ掛けてぐるりと一回転した。上四方固から逃げ出すリリスの脇を掴んでのフロントヘッドロック。開脚したリリスの脚を踏みながらのサイドバックでコントロールをキープしながらパウンド攻撃。後頭部の連打をリリスは翼を生贄にしてガードした。
『アレの目論見を破綻するには、完璧なレイシフト率が必要になる。だが、そんな人間なんて存在する筈がない。『何処にでも存在する人間』ならば、その人間は
「キリエライトォ!見知らぬ兄妹が死んでんぞぉキリエライト!!」
「あとで所長をしばいて墓参りしていきますー!」
へし折れた翼でマシュの頭を強引に押し崩してリリスは不利な姿勢を脱却する。急所である顔面を互いに狙いつつ、2人は砂埃を撒き散らて寝技を仕掛け合う。
『理外の力を持つ化生は何処にでもいる。森羅万象を網羅する人類がいないために、世界には必ず未知が許される。未知は即ち魔。藤丸立香は悪魔の概念を刻まれた故に、あらゆる場所への存在と未知なる力に対しての契約権を有した。契約は悪魔の権能。彼ならばサーヴァントの契約を上手く使ってソロモンを使い潰してくれるだろうけど、娘に似て結構な温厚篤実だからね。躊躇う際の隙を埋めるのが君の役割だ」
「気味が悪いくらい人使いが上手いキリエライトの親父も流石に恋心の植え付けは出来なかったかー。残念だけど安心したわ」
「同意ですがマリスビリーさんを私の父にしないでください。私の遺伝子上の父はもっとヒトの心を有している筈です」
「いや結構似てるよ?他人を矢鱈と相応しい地位に押し上げるとことか」
馬鹿話を繰り広げながら2人の攻防は加熱していく。互いに手脚と胴に防具を着込んだ状態の殺し合いは自ずと顔面狙いとなる。致命打である後頭部付近を優先して削り合う近接戦は、互いの美貌を代価として捨て去る耐久戦となった。マシュの左眼と鼻は無惨に潰れ、リリスの前歯と頬骨は粉々に砕けた。どちらの耳も根本から千切れ、それでも勢いは止まらない。
藤丸が『色々と規制が入るしちょっと聞きたくない』と記した戦闘を経て、とうとう2人は互いに両手を握りしめた状態で睨み合った。膠着はしない。2人の手は敵を握り潰そうと幾つもへし折れた指に無理矢理力を込め、自由に動かせる頭は互いの額にベッドバットを繰り返している。
とうの昔に意地だけで気絶を免れている2人に燃料を注いだのは、人格を十二分に知るリリスの補正によって、マシュの記憶に封印されていたマリスビリーが求めた藤丸立香の役割を説明されたことだった。
『マシュ・キリエライト。君には、私の娘の婿養子に対して楔と恋の橋渡しを行って貰おう』
2人は無表情となった。今までの攻防のせめぎ合いを投げ捨て、2人は互いに背を向けて打ち捨てられた剣を拾った。器となる肉体の死が藤丸立香の将来にどのような末路を与えるのかを知った今、一分一秒すら携わっていられない。2人は咆哮しながら接近して、マシュは剣を突き、リリスは剣を振り下ろした。
「「それは私のモノだ!!」」
マシュとリリスの剣が衝突する。剣の腕前と扱いの差は歴然としている。火花を散らして押し切ったのはリリスの剣だった。しかし、その代償は大きかった。衝撃によってリリスの斬撃はマシュの僧帽筋を鎖骨ごと切り裂き、マシュの剣はリリスの心臓を正確に狙っている。
「─がっ…!」
マシュはリリスの心臓を力任せに押し潰した。
今までの失血とは異なる鮮やかな血がマシュを彩った。リリスの白い肌が青白い死の色に染まっていく中、その眼が死んでないことをマシュは理解している。心臓から吐き出される断末魔の血に合わせてリリスの剣がマシュの心臓に近付く。マシュは筋肉を引き締めて遅延を図るが、剣の進みは止まらない。肋骨を切り裂き、肺を切り裂き始めてマシュが吐血して力を抜く。
かつんと響いた硬質な音に、リリスの握力は力を失った。
「盾の…自動回収とか、…見たことも、なかっ…はずだけど…?」
「先輩ならば、この場面で、必ず…げほっ…私に、手を伸ばしますので」
つまりは思い込み。マシュは藤丸ならば助けてくれるという認識だけで盾を引っ張った。リリスは口元を歪めた。くぐもった笑いと共に、リリスの活力が失われる。仰向けとなったリリスは、光を失った眼であらぬ方向を見ながらマシュを睨んだ。
「…次のアテシは、もっと女らしく狙ってあげる」
「その時は、先輩と合わせて殴ってあげます」
リリスの戯言にマシュは不敵に笑い、リリスも苦笑して目を瞑った。活動を止めたリリスを見下ろしながら、マシュはどうやってこの空間から起き上がるのか手段を聞いていないことに気がついた。
「とはいえ、私には秘策がありますから意味もありませんが」
いつだってマシュに手を差し伸べるのは藤丸立香だ。目を瞑り、彼を思って手を伸ばせばいつでも彼の手を握った感触が再現出来る。そうして手を引っ張れば、私の肉体は、常に最強の自分を思い出せる。藤丸立香のいる世界が、いつもマシュ・キリエライトが住む世界なのだから、起きるのは至極当然の理だ。
マシュ・キリエライトは傷ひとつない肉体のまま目を覚ました。
「マシュ!良かった!起きたんだね!!」
全ては終了していた。マシュが居るのは特異点ではなく、カルデアの病室だった。藤丸は元の姿を取り戻して金色の林檎を切っており、デジタル時計の日付は半日後を示していた。
マシュは自身の中にある英霊の魂に触れた。新たなるチカラ。藤丸と共に歩くための霊基。
「先輩」
「どうしたの?マシュ。医者を呼ぶ?」
「突然ですみませんが、私にキスしてくださいませんか?」
「突然!!嫌な夢でもみたの!?」
「嫌な戦いではありました。ですが、そうですね…話せば長くなりますが」
─ただ、飴くらいは与えるくらいは構わないかなと思いましたので。
マシュ・キリエライトは蠱惑的な笑みを浮かべ、藤丸に舌を入れた。