もしもグランドツアーの3人がキヴォトスに来たら2 作:ガチタン雷電
トリニティ自治区郊外 ―― 英国陸軍護衛拠点・会議室
窓の外には、よく手入れされた芝生と、低い石垣、古い教会を思わせる尖塔が並んでいた。
湿り気を帯びた風と、曇りがちな空。
リチャード・ハモンドは、ここに来てから何度目かの既視感を覚えていた。
「……気候までイギリス風だな」
誰に向けたでもない独り言に、護衛の兵士が小さく笑った。
「トリニティは“イギリス自治区”と我々はいってます。
建築様式も、気候も、かなり似かよっているので。」
「……正直に言うとね」
彼は、遠くの尖塔を見上げながら口を開いた。
「ここは、落ち着きすぎている」
士官は黙って頷いた。
生徒たちは本を抱え、談笑し、午後の講義に向かっている。
数日前にクーデター未遂があったとは、とても思えない光景だ。
数時間前
会議室の机に、分派の関係図が投影されていた。
フィリウス派、パテル派、サンクトゥス派、そしてアリウス派。
ハモンドは椅子にもたれ、腕を組んだ。
「……これ、分かりづらいようで、
イギリス人には逆に分かりやすい」
兵士が眉を上げる。
「まあ、なんとなくわかります三位一体のラテン語ですね。」
「実は古い神学論争でも三位一体は挙げられたんだ。
ニケーア公会議など、アリウス主義が活発に活動した論争。
キリストが地上を去った後、罪や死や律法から人類を救い、信者に信仰と心の平和を与えるのは、聖霊という形で信者の心に宿るキリストであると考えられた。」
ハモンドはゆっくりと言葉を選んだ。
ハモンドの解説 ―― 三位一体と分派
「パテルは“父”。
フィリウスは“子”。
サンクトゥスは“聖霊”。」
指で三点をなぞる。
「この三つは、本来“同一の神の三つの位格”だ。
分かれているけど、分かれていない。
それを三位一体って呼ぶ」
兵士は静かに頷く。
「パテル派もフィリウス派も、サンクトゥス派も立場は違っても、
最終的には“同じ神を指している”という前提がある」
一拍置いて、ハモンドはアリウス派の名前を指した。
「問題は、ここだ」
アリウス主義について
「アリウス主義はね、
“子なるキリストの上に、父なる神がいる”と考えてたんだ。」
兵士が口を開く。
「……上下関係、ですか?」
「そう。
キリストは神ではあるが、完全に同一ではない。
父の被造物に近い存在だ、と」
ハモンドはため息をついた。
「この考え方は、歴史的には異端とされた。
なぜなら――」
彼は窓の外を一瞬見た。
「人を救う存在を、“格下”にしてしまうからだ。」
「他にもアリウスは聖霊に神性を認めれば、論埋的には多神教となってしまうといった説も主張していた。
だが数回の会議で「父と子と聖霊」は三つの位格をもつが本質的に一体であるという説が正統になり異議を唱えるものは異端とされるようになった。」
■「コヘレトの言葉」と日本の諸行無常の違い
「で、さらに厄介なのが、
アリウス派がよく引用する『コヘレトの言葉』だ」
兵士が首を傾げる。
「旧約聖書の……?」
「そう。
“空の空、すべては空”
Vanitas Vanitatum, et omnia Vanitas.ってやつだ」
ハモンドは指を立てた。
「一見すると、日本の諸行無常や万物流転に似ている。
でも、ここ『キヴォトス』では決定的に違う」
「どう違うんです?」
「日本的な無常観はね、
“だからこそ今を慈しむ”に向かう」
少しだけ声が柔らぐ。
「移ろうから、美しい。
消えるから、意味がある」
だが次の瞬間、声が低くなった。
「でも、ここのアリウス分校の使い方は違う。
“どうせ全ては無意味だ”に向かわせる」
意味の履き違い ―― あるいは意図的な歪曲
兵士が息を呑む。
「……それは、解釈ミスでは?」
ハモンドは首を振った。
「いや。
履き違えじゃない可能性が高い」
机の上の資料を軽く叩く。
「希望を上に置かない思想は、
人を従わせるのに都合がいい」
「……洗脳、ですか」
「可能性は高い」
ハモンドは視線を落とした。
「“どうせ意味はない”
“上には絶対者がいる”
“考える必要はない”」
静かに言葉を並べる。
「これは、集団を制御する時の教本みたいなものだ」
会議室に沈黙が落ちた。
兵士が口を開きかけて、やめた。
「……我々は、どこまで踏み込むべきでしょうか」
ハモンドは立ち上がり、ジャケットを整えた。
「それは君たちの仕事だ」
一歩、距離を取る。
「僕は軍人じゃない。
ジャーナリスト
ただの“外から来た人間”だ」
ドアに手をかけて、振り返る。
「でも一つだけ言える」
その声は、はっきりしていた。
「思想を軽く扱うと、後で必ず血を払う」
扉が静かに閉まる。
残された兵士は、
投影された分派図を、しばらく見つめ続けていた。
そこに描かれているのは、
ただの宗派名ではなく――
人の心の扱い方そのものだった。
会議室を出て、
隣にいたカメラマンが呟いた。
「……危ういですね」
「そう。
善悪じゃない……」
ハモンドの違和感
ハモンドはコートのポケットに手を入れた。
「イギリスはキリスト教の国だ。
だから、宗派が違えば争うのは分かる」
「でもね」
彼は歩く生徒たちを見た。
「ここでは、
対立が“日常の背景音”になっている」
「誰も危機だと思っていない。
それが、一番危ない」
カメラマンは静かに言った。
「だから、我々みたいな一般人が必要だと上が判断したと?」
「たぶんね」
ハモンドは苦笑した。
「“外の世界の基準”で、
これは異常だと言える人間が」
曇天の下、授業開始鐘が鳴った。
その音は穏やかで、何事もなかったかのように街に響く。
だがハモンドだけは、確信していた。
――この静けさは、
信仰が均衡しているからではない。
誰も、崩れる瞬間を想像していないだけだ。
彼はゆっくりと歩き出した。
“マスコミの代表”として、
危機を言葉にするための人間として。