姫騎士(肉食)共から貞操を守りつつ、僕の騎士道がハードモードすぎる 作:お庭屋さん
感覚が、唐突に戻ってきた。
無重力の浮遊感と、視界を覆い尽くしていた眩い光が、ぷつりと途切れる。
代わりに全身を襲ったのは、暴力的なまでの冷気と、叩きつけられるような衝撃だった。
ドサッという音と共に柔らかい何かに体が沈み込む。
肺の中の空気が押し出され、僕は激しく咳き込んだ。
「……けほっ、かはっ……!」
目を開けると、そこは白一色の世界だった。
王城の絢爛な玉の間でも、血と炎にまみれた戦場でもない。
深々と降り積もる雪。
頬を刺す冷たい風。
そして、見覚えのある荒涼とした稜線が、月明かりの下に浮かび上がっている。
「……ここは……?」
僕は震える体を起こし、周囲を見渡した。
すぐ近くの雪溜まりに、ルイーズとネリー、そしてアグニが倒れているのが見えた。
「エヴ……様……ッ!」
ルイーズが、苦悶の声を上げながら身を起こす。
彼女の鎧は砕け、あちこちから血が滲んでいる。だが、彼女は自分の傷など気にする様子もなく、這いずるようにして僕の元へ来ると、僕の体をまさぐるように確認した。
「ご無事、ですか……? お怪我は……!」
「僕は……大丈夫だ。それより、ネリーが!」
僕の視線の先で、ネリーは雪の上に崩れ落ちたまま、ピクリとも動かない。
顔色は死人のように白く、呼吸も浅い。
離宮の階段で負った深手と、その後の連戦。
そして転移の負担が、限界を超えた彼女の体を蝕んでいるのだ。
「ネリー! しっかりしろ!」
僕は駆け寄り、彼女の体を抱き起こした。
冷たい。
このままでは、彼女を失ってしまう。
「……母上! 母上……!」
僕は無意識に叫び、周囲を見回した。
母上なら、なんとかしてくれるはずだ。あの人はいつだって、僕の危機を救ってくれた。今回だって、きっと――。
だが。
どこを見ても、銀色の髪の女傑の姿はなかった。
あるのは、冷酷なまでに静まり返った雪原だけ。
「……母、上……?」
思考が、凍りつく。
脳裏にフラッシュバックするのは、鮮血に染まった玉の間。
僕を突き飛ばし、凶刃に貫かれた背中。
そして、光の中で微笑んだ、最期の表情。
『――愛していますよ、私の小さな騎士。』
「……嘘だ。」
僕はネリーを抱いたまま、後ずさった。
「置いてきたのか……? あの場所に……母上を一人で……?」
心臓が早鐘を打つ。
嫌だ。認めない。
僕は立ち上がり、王城があるはずの方角――南の空を探した。
だが、そこには分厚い雪雲が垂れ込め、何も見えない。
「戻らなきゃ……! まだ、間に合うかもしれない! 母上は強いんだ、あんな奴らに負けるはずがない!」
僕は雪を蹴り、走り出そうとした。
だが、足が動かない。
恐怖か、絶望か、それとも魔力切れか。膝がガクガクと震え、力が入らない。
「エヴ様! お待ちください!」
ルイーズが、背後から僕の体に抱きついた。
彼女の腕も震えている。温かい涙が、僕の背中に染み込んでくる。
「……いけません。戻ってはいけません……!」
「離せ、ルイーズ! 母上が待ってるんだ! 僕が助けに行かないと……!」
「ラウラ様は……ラウラ様は、貴方を生かすために、あの秘術を使われたのです!」
ルイーズの悲痛な叫びが、雪原に響いた。
「あの方は……もう……!」
「言うなッ!!」
僕は彼女の腕を振りほどき、叫んだ。
認めてしまえば、それが真実になってしまう気がして、それはどうしようもなく認めたくなくて。
母上が死んだなんて。
僕を守って、身代わりになって死んだなんて。
そんなこと、あっていいはずがない。
「……アオォォォォォォォォン……ッ!!」
その時。
足元で、アグニが天を仰ぎ、長く、悲しい遠吠えを上げた。
それは、仲間の死を悼む獣の慟哭だった。
大粒の涙を流しながら吠える彼女。
彼女の鋭敏な鼻は、もう感じ取っているのだ。
あの「強くて、いい匂いのするカアチャン」の気配が、この世界のどこにもなくなってしまったことを。
「……あ、あぁ……。」
その声が、僕の心の防壁を粉々に砕いた。
膝から力が抜け、雪の上に崩れ落ち、冷たさが、浸みてくる。
ここは、ブレスダンだ。
見覚えのある岩肌。遠くに見えるダンテ市の灯り。
母上が、最期の力を振り絞って僕たちを送り届けたのは、彼女が愛し、守り抜こうとした故郷だった。
「……なんでだよ……。」
涙が溢れて止まらない。
視界が滲み、白い雪が灰色に濁る。
「僕は……強くなったんじゃなかったのかよ……。母上を助けるために、ここまで来たんじゃないのかよ……!」
雪を握りしめ、拳を叩きつける。
何度叩いても、痛みは心の傷を癒やしてはくれない。
何も守れなかった。
王も、母も。
ただ、無様におめおめと生き残っただけだ。
「……うぅ、ぁああああ……ッ!!」
喉が張り裂けそうなほどの咆哮が、僕の口から漏れた。
それは言葉にならず、ただの音となって、吹雪の中に消えていく。
ルイーズが、無言で僕の肩を抱いた。
駆け寄ってきたアグニが、僕の足に顔を埋めた。
別れの遠吠えを終えた彼女は、おいおい泣きながら震え、ぐったりと倒れたネリーは未だ動かない。
雪は降り続く。
僕たちの絶望を、白く覆い隠すように。
世界で一番寒くて、暗い夜だった。
☆
雪は、止むことなく降り続いていた。
僕の慟哭は風にかき消され、喉が凍りつくように痛い。涙も、鼻水も、全てが冷気に晒されて感覚を失っていく。
寒い。
王城の地下牢よりも、雪原の戦場よりも、遥かに寒い。
それは気温のせいだけではないのだろう。
僕の心を温めてくれていた、最も大きな灯火が消えてしまったからだ。
「……エヴ様。……誰か、来ます。」
僕を支えていたルイーズが、掠れた声で警告した。
彼女も満身創痍だ。鎧は砕け、片目は腫れ上がり、立っているのが不思議なほどの重傷を負っている。
それでも、彼女は震える手で折れた剣の柄を握り、僕の前に立ち塞がった。
「……敵、か……?」
「分かりません。ですが……この殺気、ただならぬ数です。」
雪のカーテンの向こう。
暗闇の中から、無数の松明の灯りが揺らめいているのが見えた。
次第に大きくなる規則正しい行軍の足音。
追っ手か?
もう王都から、転移の痕跡を追ってグルーゲルの兵が来たのか?
だとしたら終わりだ。
誰も戦えない。
「……守ります。……私の命に代えても。」
ルイーズが、血を吐くように誓う。
やめてくれ。
もう、誰も死なないでくれ。
僕は叫ぼうとしたが、喉が引きつって声が出ない。
灯りの群れが近づく。
先頭を行く騎影が、僕たちの前で足を止めた。
馬上の人物が、高く掲げた松明でこちらを照らし出す。
炎の明かりが、雪原に倒れ伏す僕たちを浮かび上がらせた。
「……おい。そこで何をしている。」
頭上から降ってきたのは、聞き覚えのある、野太くハスキーな声だった。
敵意ではない。
純粋な困惑と、微かな警戒を含んだ声。
「……あ……。」
僕の喉から、空気が漏れた。
その声の主を、僕は知っている。
燃えるような赤髪。
分厚い毛皮を羽織り、巨大な戦斧を背負った女傑。
「……バル、バラ……?」
僕の呟きが聞こえたのか、騎上の女性が目を見開いた。
彼女は松明を近づけ、目を細めて僕の顔を覗き込む。
泥と血にまみれ、涙でぐしゃぐしゃになった僕の顔を。
「……嘘だろ? ……色男、なのか?」
バルバラが馬から飛び降りた。
彼女は雪を蹴立てて駆け寄り、僕の目の前で膝をついた。
「おい、しっかりしな! ……一体どうしたってんだ、その怪我は!?」
彼女の大きな手が、僕の肩を掴む。
その熱さが、服越しに伝わってくる。
ああ、生きている人間だ。
敵じゃない。味方だ。
「……バルバラ……」
彼女の顔を見た瞬間、張り詰めていた最後の糸が切れた。
王都での決死行。
母上との再会。
そして、別れ。
抑え込んでいた全ての感情が、決壊したダムのように溢れ出した。
「守れなかった……! 何も、守れなかった……!」
僕は彼女の胸に縋り付き、子供のように泣きじゃくった。
「母上が……母上が、僕を庇って……! 僕だけ、逃がされて……!」
「……ッ!」
バルバラの体が、一瞬硬直した。
彼女の視線が、僕の背後――雪に埋もれたルイーズ、意識のないネリー、そしてアグニへと走る。
そして、そこに「銀髪の英雌」の姿がないことを確認した。
彼女は、何も聞かなかった。
「どうなった」とも、「なぜ帰ってきた」とも。
ただ、状況の全てを瞬時に悟り、痛ましげに顔を歪めただけだった。
「……そうか。」
バルバラは、僕の頭を力強く抱きしめた。
分厚い毛皮の感触と、鉄と油の匂い。そして、彼女自身の生々しい体温。
それらが、僕の凍えた体を包み込む。
「辛かったな。……よく、生きて帰ってきた。」
その声は、いつもの豪快なものではなく、驚くほど優しく、静かなものだった。
「謝るんじゃないよ。……あんたが生きてる。それだけで、ラウラ様の勝ちだ。」
「う、うぅ……あぁぁぁ……ッ!」
彼女の胸の中で、僕は声を上げて泣き続けた。
自分の無力さが許せなかった。
けれど、彼女の腕の温かさだけが、今の僕を現世に繋ぎ止めてくれている唯一の鎖だった。
「……お前ら!」
バルバラが、背後の部下たちに向かって鋭く叫んだ。
「担架だ! 急げ! 全員、大至急屋敷へ運ぶぞ!」
「はッ! おい、衛生兵! こっちだ!」
呆然としていた傭兵たちが、弾かれたように動き出す。
彼らは手際よくネリーを担架に乗せ、応急処置を施していく。ルイーズも数人に支えられ、ようやく剣を手放して崩れ落ちた。
「ガウッ……。ネエチャン……。」
アグニが、バルバラの足元に擦り寄った。
彼女もまた、限界だったのだろう。バルバラの顔を見て安心したのか、その場にぺたりと座り込んだ。
「おう、アグニ。……偉かったな。ちゃんと旦那を守ったんだな。」
バルバラは片手で僕を抱いたまま、もう片方の手でアグニの頭を撫でた。
そして、周囲に集まってきた部下たちを見渡し、低い声で告げた。
「いいか、女郎ども。……今夜見たことは、他言無用だ。」
彼女の瞳が、ギラリと光る。
「領主代行は、極秘任務から帰還された。……ただ、それだけだ。余計な噂を広めた奴は、アタシがこの斧でカチ割る。分かったね?」
「「「了解!!」」」
全員が、真剣な顔で頷く。
彼女らもまた、僕の無惨な姿を見て、事の重大さを理解しているのだ。
同情ではなく、主君の尊厳を守るための沈黙。
それが、今の僕には何よりもありがたかった。
「……さあ、行こうか、旦那。」
バルバラは僕の体を軽々と抱き上げた。
抵抗する力も残っていない。僕は彼女に身を委ねた。
「屋敷に戻れば、あったかいスープとベッドがある。……後のことは、全部アタシらに任せて、今は眠りな。」
彼女の心臓の鼓動が、トクトクと耳に響く。
それは、生きている証だ。
母上はもういない。
けれど、ここにはまだ、僕を待っていてくれた人たちがいる。
意識が、急速に遠のいていく。
深い闇の中へ落ちていく直前、僕の視界の端に、遠く輝くダンテ市の灯りが見えた。
帰ってきた。
何もかもを失って。
それでも、僕は帰ってきたのだ。
☆
意識が浮上する感覚と共に、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。
古びたレンガと、微かな香草の香り。
それは、僕が幼い頃から慣れ親しんだ、マドゥワス屋敷の匂いだった。
「……着いたよ、旦那。」
バルバラの声が聞こえる。
目を開けると、視界の端に屋敷の正門が見えた。松明の灯りが、深夜の闇の中に揺らめいている。
門の前には、多くの人影があり、報せを聞いて飛び出してきたのだろう、コートを羽織っただけの姿で使用人たちが整列している。その先頭には、背筋を伸ばしたガーベラの姿があった。
バルバラが僕を抱いたまま、馬から降りる。
後続の傭兵たちが、ネリーを乗せた担架を慎重に下ろし、ルイーズに肩を貸して歩み寄ってくる。
僕たちの姿が、松明の明かりに照らし出された。
泥と血にまみれ、衣服は裂け、見る影もなく消耗しきった姿。
そして何より、そこにいるべきはずの「銀色の髪の主」がいないという事実。
「…………ッ。」
使用人の一人が、小さく悲鳴を上げて口元を覆った。
それを皮切りに、悲痛などよめきが波紋のように広がる。
泣き崩れるメイド。
蒼白な顔で立ち尽くす料理人。
誰も言葉を発することはできない。目の前の残酷な現実が、全てを物語っていたからだ。
その中で、ガーベラだけが動いた。
彼女は静かに歩み寄り、バルバラの腕の中にいる僕を覗き込んだ。
その瞳が、僕の顔を、傷を、そして空虚な目を、じっと見つめる。
「……エヴァン様。」
いつもと変わらない、凛とした声。
だが、その目尻には、抑えきれない光るものが溜まっていた。
「……ば、あや……。」
彼女の顔を見た瞬間、バルバラの腕から滑り落ちるようにして、僕は石畳の上に膝をついた。
ガーベラの足元に縋り付く。
「すまない……! 本当にすまない、ばあや……!」
言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
「母上を……母上を、連れて帰れなかった……! 僕を庇って……僕を逃がすために……!」
喉が張り裂けそうなほどの慟哭。
謝っても謝りきれない。
僕が弱かったから。
僕が人質になどならなければ。
僕がもっと強ければ。
悔恨と自責の念が、涙となって止めどなく流れる。
ガーベラは何も言わず、ゆっくりと膝を折り、僕の視線の高さに合わせた。
そして、シワの刻まれた温かい手で、僕の泥だらけの頬を包み込んだ。
「……お顔を上げてください、エヴァン様。」
「合わせる顔なんてない……! 僕は、母上を死なせたんだぞ……!」
「いいえ。……貴方様は、生き残られた。」
ガーベラの声には、不思議な力強さがあった。
優しい老執事の暖かい言葉。
「ラウラ様は、貴方様を生かすことを選ばれたのです。……ならば、貴方様が無事に戻られたこと。それこそが、ラウラ様にとっての勝利であり、何よりの幸福でございます。」
「……っ……。」
「泣いても構いません。悔やんでも構いません。……ですが、ご自分を責めることだけは、あの方が許しませんよ。」
彼女は僕の頭を胸に抱き寄せた。
懐かしい、陽だまりのような匂い。
幼い頃、剣の稽古で泣いた時に慰めてくれた、あの温もり。
「よく、ご無事で……。よくぞ、生きてお戻りくださいました……。」
ガーベラの肩が震え、僕の頭に熱い雫が落ちてきた。
気丈な老執事もまた、主を失った悲しみに耐えていたのだ。それでもなお、僕を迎えるために「家」を守り続けてくれた。
「……さあ、皆様。いつまで泣いているのです。」
ガーベラは涙を拭い、立ち上がった。
その背中は、マドゥワス家を守る柱のように真っ直ぐだった。
「ネリー様の治療を急ぎなさい! ルイーズ様にもお湯と着替えを! ……アグニ様にも、温かいミルクを!」
パン、と手を叩く音で、凍りついていた使用人たちが弾かれたように動き出す。
悲しみは消えない。
だが、為すべきことはある。生きている僕たちが、生きていくための営みが。
「……旦那。行こう。」
バルバラが僕の脇を抱え、立たせてくれた。
アグニが心配そうに僕のズボンの裾を握り、ルイーズが、ボロボロになりながらも、僕に寄り添うように歩き出す。
屋敷の扉が開かれた。
溢れ出す暖炉の光と、温かい空気。
僕は、光の中へと足を踏み入れた。
☆
長い夜が明ける。
窓の外、東の空が白み始めていた。
それは、本当の意味で母上のいない、初めての朝の訪れだった。
僕は自室の寝台に体を横たえたまま、起き上がれずにいた。
「……こんなに寒かったかな。」
シンと静まり返った屋敷の一部屋。
誰に言う訳でもなく、独りごちた。
母上。この世界に産まれ落ちた僕を育ててくれた人。
今思えば、若くして病死した父の代わりを務めようと必死だったのだろう。
貴族として、武人として、そして母親として……。
今世の全てを母上から学び、その背中に憧れた。
だが、その人はもう何処にもいない。
豪快に笑い、苛烈に戦い、時折見せる母としての顔。
それを見る事は……もうないのだ。
失ったものはあまりに大きい。
心に空いた穴は、二度と塞がらないかもしれない。
それでも、僕はここにいる。
母上が命を賭して繋いでくれた、この命がある限り。
……見ていてください、母上。
僕は心の中で誓う。
……僕はもう、泣かない。……貴方が守ろうとしたこの国を、この領地を。僕が必ず、再生させてみせます。
マドゥワスの若き獅子が、真の意味で「領主」として覚醒した瞬間だった。
メインキャラが増えてきたので....みんなの好きなキャラを教えてくれぇ!!!書くわよ〜!!!!
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ルイーズ・ロンズデール
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ネリー
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サーシャ、クロエ、ミリア他騎士団
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アンドレア殿下
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ガーベラ
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アグニ
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バルバラ
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上記以外のキャラクターは感想等で教えてね