姫騎士(肉食)共から貞操を守りつつ、僕の騎士道がハードモードすぎる   作:お庭屋さん

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第57話:東部へ

 マドゥワス本邸の石畳が敷かれた中庭からは、軍馬の甲高い嘶きと、慌ただしく旅の支度を整える従者や騎士たちの足音が、夜明け前から絶え間なく響いてきていた。

 

 開け放たれた執務室の窓から吹き込んでくる風は、相変わらず肺の奥を凍らせるほどに冷たい。

 だが、血と鉄の匂いが混じっていた数日前の風とは違い、今日の風には、どこかピンと張り詰めた新しい季節の予感――これから始まる未知なる旅への、静かな緊張感が孕んでいるように感じられた。

 

 僕は冷え切った両手を軽く擦り合わせると、マホガニーの重厚な執務机の上に広げられた一枚の大陸地図へと、再び視線を落とした。

 

 王国を東西南北に分かつ、広大な領土。

 その中で、僕の視線が釘付けになっているのは、王都から見て右側――険しい山脈の描画で黒々と塗りつぶされた『東部』の領域だった。

 

 タラルの戦いで徹底抗戦派の先鋒を打ち砕き、僕たち北部は当面の危機を脱した。しかし、ネリーとも語り合った通り、これは始まりに過ぎない。

 

 王都を掌握した徹底抗戦派は、既に絶大な権力と豊富な資金を使い、巨大な経済圏を持つ西の商業連盟と、豊かな食糧供給源である南の穀倉地帯を、自陣営へと引き込みつつあるはずだ。

 

 対する僕たち北部は、兵の精強さこそ王国随一を誇るものの、一年前に終結したグラディウス帝国との戦争による消耗が激しい。

 帝国との国境線である北部は戦争の最前線となり、故郷を守らんとする領主達はもとい、領民から徴集された民兵達も文字通り死に物狂いで戦っただろう。

 現在は復興が進みつつあるが、やはり万全の体制を整えるまでは今しばらく時間と資金が足りない。

 

 そんな中で、このまま西部と南部が完全に敵に回れば、僕たちは物理的に干上がり、座して死を待つしかなくなる。

 

 だからこそ、この『東部』なのだ。

 険しい山脈と深い森に隔てられた東部地域は、古くから独自の文化と強固な独立性を保ってきた。西の商業や南の農業とは異なり、彼らは独自の魔導技術や、山岳地帯を駆け抜ける強靭な騎兵団を擁していると聞く。

 

 徹底抗戦派の甘い汁にもなびかず、今のところどちらの陣営にも与していない不気味な中立地帯。

 もし、彼らを味方につけることができれば。北部の武力と東部の資源・技術が結びつけば、王都を占拠する売国奴たちと互角以上に渡り合うことができる強大な勢力となる。

 

 だが、それは決して容易な道ではないだろう。

 東部の領主たちは総じて気位が高く、排他的だという。帝国との繋がりを餌にしようが、軍事力で威圧しようが、決して靡くことはないだろう。

 

 今回は剣ではなく、『言葉』と『誠意』で彼らの固く閉ざされた門をこじ開けなければならない。

 北部を率いる領主の一人として、僕自身の器が試される過酷な外交戦になることは火を見るより明らかだった。僕の苦手な分野だが……。

 

「……やるしかない。母上のためにも、僕を信じてくれた人たちのためにも。」

 

 机上の地図に置いた手に、自然と力がこもる。

 ポツリと漏れた僕の独り言をかき消すように、コンコン、と控えめだが力強いノックの音が執務室に響いた。

 

「エヴ様。出発の準備が整いました。いつでも発てます。」

 

 扉を開けて入ってきたのは、マドゥワス騎士団副団長――いや、今は僕の筆頭騎士と言うべきか。艶やかな金の髪をきつく結い上げた、ルイーズだった。

 

 彼女の背中には、ゾーラ伯爵から譲り受けた無骨で巨大な鉄塊が厳めしく背負われている。

 

「ご苦労様、ルイーズ。みんなの士気はどうだい?」

 

 彼女の背負う重い覚悟を直視し、胸の奥がチクリと痛むのを感じながらも、僕はあえて平静な声を作って問いかけた。

 

 ルイーズとは幼少の頃からの付き合いだ。

 王都脱出後、彼女の抱える暗い罪悪感に気付かない僕じゃない。

 元気いっぱいで、僕を慕ってくれる彼女の笑顔は久しく見られていないのは寂しいけれど、これ以上刺激したくなかった。

 

「問題ありません。連れて行くのは、死線を潜り抜けた精鋭中の精鋭のみ。たとえ東部の山中で何が起きようと、必ずやエヴ様をお守りいたします。」

 

 ルイーズは一切の迷いがない、澄み切った瞳で僕を見つめ返し、深く頭を下げた。

 その研ぎ澄まされた冷刃のような佇まいは、以前の彼女よりも遥かに頼もしく、そして恐ろしいほどの凄みを纏っていた。

 

「頼りにしているよ。……それじゃあ、行こうか。」

 

 僕は小さく息を吐き出し、机上の地図を丁寧に丸めて革の筒に収めた。

 振り向かずに執務室の扉へと歩き出す。この部屋に戻ってくる頃には、僕は確かな戦力を手にしているか、あるいは全てを失っているかのどちらかだ。

 ブーツの踵が木床を叩く硬い音を響かせながら、僕は新たな戦場への第一歩を踏み出した。

 

 ☆

 

 

 本邸の玄関へと向かう前に、僕はどうしても立ち寄らなければならない場所があった。

 静まり返った廊下を歩き、微かに薬草の匂いが漂う客室の扉の前に立つ。

 大きく深呼吸をして、自分の顔に不安や迷いが微塵も残っていないことを確認してから、小さくノックをして扉を開けた。

 

「ネリー。……そろそろ、出発するよ。」

 

 朝の光が差し込むベッドの上で、彼女は静かに身を起こしていた。痛々しい包帯姿のまま、僕の出立を見送るために無理をして起きていたのだろう。彼女は悔しげに目を伏せ、シーツをきつく握りしめた。

 

「……お供できず、本当に申し訳ありません。本来ならば、私が貴方様の隣で剣を振るうべきですのに。」

 

 その声には、自分自身の不甲斐なさに対する強い怒りと、主君を一人で未知の土地へ赴かせることへの深い憂慮が滲み出ていた。

 僕はベッドに歩み寄り、包帯に巻かれた彼女の細い肩にそっと手を置く。

  

「謝らないでくれ。君がこうして生きていてくれるだけで、僕はどれほど救われているか。今はしっかりと傷を治して、僕の帰る場所を守っていてほしい。」

 

 僕が穏やかに、しかし力強く告げると、ネリーはハッと息を呑み、僅かに瞳を潤ませた。

 やがて彼女は決意を秘めたように頷き、枕元から銀色の小さなペンダントを取り出す。

 

「……ならばせめて、これを。微力ながら、私の魔力を込めた護符です。どうか、肌身離さずお持ちください。」

 

 淡いブルーの宝石があしらわれたそれは、冷たい冬の空気の中でも微かな温もりを放っていた。彼女の忠誠の証を、僕は迷うことなく受け取り、自分の首から下げる。胸元に、ネリーの確かな体温を感じた気がした。

 

「ありがとう、ネリー。君が守ってくれるなら百人力だ。……必ず、良い報せを持って帰ってくるよ。」

 

 そう言い残し、僕は部屋を後にした。もう迷いはない。東部への険しい道を切り拓くための、確かな勇気を彼女から受け取ったのだから。

 

 

 ☆

 

 

 バタン、と重い木扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。

 ――そして。誰もいなくなった客室で、私の顔から「従順で心配性な騎士」としての表情がすっと消え去る。

 瞳に浮かび上がったのは、底知れぬ暗い執着と、氷のように冷徹な光だろう。

 

「……ええ。どこにいても、私には分かります。貴方様が今、どこにいて、どれほどの危機に直面しているのかが。」

 

 私がエヴ様に手渡したペンダントは、ただの魔除けなどではない。

 主君の現在位置と生命活動を、遠く離れたこの地でも正確に把握するための、呪いにも似た追跡用の魔術を込めた魔道具であった。

 

「東部の連中が、もし貴方様に牙を剥くというのなら……業腹ですが、あのメス殿下の目に……マイヤ卿に糸を引かせましょう。」

 

 血の滲むような痛みをこらえながら、自分の胸元をきつく握りしめる。

 愛する主君が死地へ赴くことを許したのは、決して彼だけを信じているからではない。いざとなれば、裏切りの密約を行使してでも、彼を強制的に帝国の『安全な鳥籠』へと連れ去る準備が整っているからだ。

 

「いってらっしゃいませ、私の愛しい主君。」

 

 朝日が照らす静かな客室で、氷の騎士はひとり昏い笑みを浮かべ、誰にも聞かれることのない狂気めいた忠誠をそっと呟いた。

 

 

 ☆

 

 

  マドゥワス本邸の中庭に降り立つと、白く濁った吐息を吐きながら、今回の過酷な旅を共にする者たちが整列していた。

 

 東部への外交という極秘かつ危険な任務。

 万が一の事態に備えつつも、相手を過剰に刺激しないための絶妙な規模として、僕がブレスダン軍の中から選んだのは総勢十四名の精鋭達であった。

 

「エヴ様。マドゥワス騎士団より私とサーシャ、そして従騎士二名、出立の準備が完了しております。」

 

 ルイーズが、冷たい冬の空気を引き締めるような凛とした声で報告する。

 その隣では、燃赤の髪を揺らしたサーシャが、緊張した面持ちの若い従騎士たちの装備を最終確認していた。

 

「ご苦労様、二人とも。頼りにしているよ。」

 

 僕の言葉に、サーシャはニカッと芯の通った笑みを浮かべて深く頭を下げた。続いて、視線を横へ移す。

 そこには、騎士団の整然とした空気とは対極にある、野性味と血の匂いを纏った集団が待機していた。

 

「ウチの連中もいつでもいけるぜ、旦那。残雪で足が凍りつく前に、さっさと出発するさね。」

 

 肩に斧を担ぎ、獰猛な笑みを浮かべて歩み寄ってきたのは、傭兵団『赤錆の風』を率いる女傑、バルバラだ。

 彼女の背後には、先のタラルの戦いでも血みどろの激戦を生き抜いた、歴戦の傭兵たちが九名、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。

 

「ああ、バルバラも助かるよ。君たち『赤錆の風』が護衛についてくれるなら、これほど心強いことはない。」

 

 僕が手綱を引き、愛馬であるオニキスの背に跨ると、十四名の団員たちも次々と馬上の人となった。留守を預かる将兵たちに見送られながら、僕たちはゆっくりとダンテ市の門をくぐり抜けた。

 

 目指すは、王国東部。

 馬蹄の音が、硬い土と残雪に重く響き渡る。ダンテ市を囲む平原を抜けると、次第に周囲の景色から人工物が消え、荒涼とした自然が牙を剥き始めた。

 

「……それにしても、東部への道ってのは骨が折れるな。暦の上じゃ冬の終わりだってのに、風が刃物みたいに冷てぇ。」

 

 先頭集団を並走するバルバラが、首元の毛皮を深く引き上げながら悪態をついた。彼女の言う通り、西や南へ続く街道に比べ、東部へ向かう山道は日照時間が短く、分厚い残雪が容赦なく体温を奪っていく。

 

「バルバラは、東部へ行ったことがあるのか? 彼らがどんな連中か、傭兵の視点から聞かせてほしい。」

 

 吹きすさぶ寒風の中、僕はオニキスの歩調をバルバラの馬に合わせながら問いかけた。少しでも東部の情報が欲しかったからだ。

 彼女は一つ大きなため息を吐くと、呆れたように肩をすくめた。

 

「仕事で行ったこたぁあるが、二度と御免だね。あいつら、あたしらみたいな余所者の傭兵を『野蛮な犬』くらいにしか思ってねぇ。無駄に気位が高くて、おまけに……。」

 

 バルバラの言葉を遮るように、前方からルイーズの鋭い声が飛んだ。彼女は馬を止め、周囲の黒々とした木々と、まだ深く残る雪の吹き溜まりを鋭い眼光で睨みつけている。

 

「お喋りはそこまでに。エヴ様、この先から地形が複雑になります。雪解けのぬかるみはもちろんですが……何より、残雪に潜む魔物に警戒が必要です。」

 

 ルイーズの指摘に、サーシャと従騎士たち、そして傭兵たちも一斉に表情を引き締め、武器に手をかけた。

 長く厳しい冬を越し、飢えたまま春の訪れと共に活動を始めようとする魔物たちにとって、僕たちのような旅人は格好の獲物なのだ。

 

「分かっている。全員、周囲の警戒を怠るな。奇襲に備えつつ、確実に進むぞ。」

 

 僕の号令に、十四名の頼もしい返事が重なる。

 空を穿つような東部の山脈は、まだ遥か彼方にある。残雪の山道に潜む見えない脅威に神経を尖らせながら、僕たちは歩みを進めていった。

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