姫騎士(肉食)共から貞操を守りつつ、僕の騎士道がハードモードすぎる 作:お庭屋さん
ダンテ市を囲む平原を抜け、東部の山脈へと続く険しい山道に入ってから暫く、僕たちの行軍速度は極端に落ちていた。
暦の上では冬の終わり。
とはいえ、日照時間の短いこの山間部にはまだ分厚い雪が残っている。厄介なのは、その雪が中途半端に溶け出していることだった。
凍てついた硬い土と、雪解け水を含んだ泥濘が混在する足場は、歩を進めるたびにズブズブと嫌な音を立てて馬たちの蹄を絡め取る。
頼もしい愛馬オニキスでさえ、時折足を取られて荒い鼻息を漏らしていた。
「……足元が悪いな。皆、馬を労わりながら慎重に進むんだぞ。」
「はっ!」
僕の呼びかけに、周囲を固める騎士と傭兵たちが短く応じる。
左右には鬱蒼と生い茂る黒々とした針葉樹林。
谷底から吹き上げてくる風は相変わらず肌を刺すように冷たいが、微かに混じる湿った土の匂いが、春の訪れと、長く厳しい冬を耐え抜いた魔物たちの目覚めを暗示していた。
常に何者かに見られているような、背筋が粟立つような感覚。魔獣の気配が、濃い靄のように周囲に立ち込めている。
そのひどく張り詰めた空気の中で、誰よりも異様な気を放っている者がいた。
僕のすぐ斜め前を進む、マドゥワス騎士団副団長――ルイーズだ。
突如、頭上の枝から溶けかけた雪の塊が滑り落ちた。
ただそれだけの些細な音。
だが、次の瞬間には鋭い金属音が山道に響き渡り、空を裂くような剣閃が閃いていた。
「そこかっ……!」
ルイーズが背負っていた巨大な鉄塊を瞬時に引き抜き、落雪もろとも、太い木の枝を真っ二つに両断していたのだ。
ドスッ、という重い音と共に、雪と木端が泥の上に散らばる。
「ルイーズ……。 ただの落雪だよ。落ち着いてくれ。」
「……申し訳ありません、エヴ様。ですが、何が潜んでいるか分かりません。万が一があってからでは遅いのです。貴方様に指一本、触れさせるわけには……。」
振り返った彼女の双眸には、暗く冷たい炎が揺らめいていた。
呼吸は浅く、大剣の柄を握る手は白く鬱血するほどに力が込められている。
僅かな風の音や、木の葉の擦れる音にすら過剰に反応し、周囲を睨みつけるその姿は、まるで全身に刃を纏った夜叉のようだった。
王都での惨劇――僕の母上であるラウラを失い、ネリーが瀕死の重傷を負ったあの絶望的な逃避行。
あの出来事以来、彼女は変わってしまった。
僕を守り抜かねばならないという強迫観念に囚われ、「己の命を投げ打ってでも」という悲壮な覚悟を、その細い肩に背負い込んでしまっているのだ。
「ルイーズ……。」
声をかけようとして、言葉を飲み込む。
今の彼女に「気を楽にしろ」と諭したところで、届かないだろう。
むしろ「私が不甲斐ないばかりに」と、さらに自分を追い詰めてしまうに違いない。ストレスと疲労で張り詰めた糸は、今にもプツリと切れてしまいそうだが、なんと声をかけたらいいか分からない。
そんな危うい主従のやり取りを、後方から冷ややかに見つめている視線があった。
『赤錆の風』を率いる女傑、バルバラである。
「……チッ。」
バルバラは忌々しそうに舌打ちをすると、首元の毛皮を苛立たしげに掻き毟った。
歴戦の傭兵である彼女の目から見ても、今のルイーズの状態がどれほど危険なものか、分かるのだろう。
「どうしたんで、頭? 魔物かい?」
「いや……魔物より厄介なモンを背負い込んでるお姫様がいるなと思ってな。」
隣を歩く部下の問いに、バルバラは顎で前方――ルイーズの背中をしゃくった。
「見な。あんなに肩肘張って、隙あらば死んで詫びますみてぇな辛気臭ぇツラしてやがる。殺気をダダ漏れにして周りを威嚇してるつもりだろうが、ありゃあ逆に視野が狭くなっちまう典型だねェ。」
「あぁ……確かに。あの騎士団のねーちゃん、触れたら爆発しそうなくらいピリピリしてやすね。おっかねぇ。」
バルバラは手綱を握り直し、大きく鼻を鳴らした。
「何があったか知らねェが、雇い主の隣に立つ護衛が、あんな悲壮感漂わせてどうすんだってんだ?……いざ実戦って時に足元を掬われるのは、ああいう余裕のない奴からなんだよ。」
風に乗ってそんな声が聞こえてくるが、バルバラの言には僕も同じ感想を持っている。
傭兵として数多の死線を潜り抜けてきた彼女の直感は、鋭く真理を突いていた。
守りたいという想いが強すぎるあまり、ルイーズは今、最も重要な「足元」が見えていない。物理的にも、精神的にもだ。
ジュルッ、と不快な音を立てて、馬の蹄がより深い泥濘に沈み込んだ。
一行が足場の悪さに気を取られた、まさにその時である。
周囲の泥濘が不自然に泡立ち、腐葉土と残雪の混じった異臭が風に乗って鼻腔を突いた。
張り詰めていた糸が、ついに弾ける時が来た。
☆
ブワァッ! と、道の両脇に積もっていた残雪と泥濘が爆発したように吹き飛んだ。
姿を現したのは、泥と雪を甲冑のように纏った巨大な熊の魔物――『クレイ・ウルサス』の群れ。
飢えた赤い双眸が、獲物である僕たちを捉える。
「エヴ様に指一本、触れさせるものかぁッ!!」
誰よりも早く反応したのは、やはりルイーズだった。
彼女は馬の背から弾かれたように飛び降りると、自身の背丈ほどもあるクレイモアを大上段に構え、先陣を切って魔物の群れへと突進していく。
「待て、ルイーズ! 足場が――!」
僕の制止は遅かった。
過剰な気迫と共に踏み込んだ彼女のブーツは、無情にも雪解けの深い泥濘にズルリと飲み込まれる。
重すぎる大剣の遠心力も相まって、彼女の身体は完全にバランスを崩した。
「なっ……きゃあっ!?」
悲鳴と共に、彼女の足が宙を舞う。
そして、マドゥワスが誇る気高き白銀の騎士は、盛大にすっ転び、顔面から泥水の中へとダイブしてしまった。ベチャァッ! という情けない音が山道に響き渡る。
「ぶっ……! げほっ、ごほっ!?」
泥まみれになって顔を上げたルイーズの姿に、一瞬、魔物たちすらも「えっ?」という顔で動きを止めた。
その隙を見逃さず、後方から馬鹿にしたような大きな笑い声が飛んでくる。
「アッハッハッハッ! 威勢よく飛び出したと思えば、無様に泥遊びたァ恐れ入ったよ!」
愛用の大斧を肩に担ぎ、馬から飛び降りたのはバルバラだ。
彼女は呆然とするルイーズを飛び越え、「騎士団様は足腰が弱ェな! あたしらが見本を見せてやるよ!」と得意げに前へ出ようとした。
「うぉらッ! 傭兵の戦い方ってやつを……って、うおわァッ!?」
しかし、雪解けのぬかるみは歴戦の傭兵にも容赦しない。
勢いよく踏み込んだバルバラの足もまた、隠れていた氷の板に滑り、ツルンッ! と見事に宙を掻く。
「あ、ちょっ――」
体勢を崩したバルバラが落下した先は、ちょうど立ち上がろうとしていたルイーズの真上だった。
ドゴォッ! という鈍い音と共に、二人の女戦士が泥濘の中で激しく激突してもつれ合う。
「いっ……たぁぁっ! な、何をするのだ貴様は! 」
「いてて……っ! おめぇの頭が固ぇから、アタシの顎にクリーンヒットしたじゃねェか! どこに頭置いてんだ!」
全身泥まみれの二人が、魔物を完全に放置して至近距離で睨み合う。
さっきまでのピリピリした殺気はどこへやら、「貴様が乗ってきたのだろう!」「足場が悪いとこでモタモタしてるからだ!」と、完全に子供の喧嘩だ。
「ちょっと……二人とも! 喧嘩してる場合じゃないよ! 後ろ、後ろ!」
僕が慌てて叫ぶと、二人の背後で我に返ったクレイ・ウルサスたちが、怒り狂って鼻息を荒くしていた。
だが、泥まみれで激高している二人の耳には、僕の声も魔物の唸り声も入っていないらしい。
「ええい、離れろ野蛮人! 今すぐその不潔な手を退けないと、斬り捨てる!」
「あぁん!? 誰が野蛮人だ、この泥まみれのお姫様が! やんのかコラ、上等だ!!」
ルイーズがバルバラの胸ぐらを掴み、バルバラも負けじとルイーズの頬を引っ張る。
威嚇する魔物の目の前で、王国随一の騎士と歴戦の傭兵による、白熱の泥んこプロレスが幕を開けてしまったのだ。
☆
泥まみれでもみ合う二人に、魔獣の群れが容赦なく突進してくる。
巨体が泥を跳ね上げ、鋭い爪が彼女たちを八つ裂きにしようと迫った、その瞬間。
「……っと、お遊びはここまでだ。」
バルバラの纏う空気が、スッと冷たく、鋭いものに変わった。
彼女はルイーズの胸ぐらを掴んだまま、半身を捻って熊の突進を軽々と躱す。
そして、空いた足で魔物の横腹に強烈な蹴りを叩き込み、巨体を泥濘へと沈めた。
「なっ……!?」
驚愕に目を見開くルイーズに対し、バルバラは胸ぐらを掴んでいた手をさらに強く引き寄せ、至近距離で彼女を睨みつけた。
先程までのふざけた喧嘩腰ではない。数多の死線を越えてきた傭兵としての、本気の凄みがそこにあった。
「何を抱え込んでんのかは知らねぇ……。だけどな、そんな辛気臭ぇツラしたまんま、旦那の隣に立つんじゃねぇ!」
バルバラの怒声が、冷たい山風を切り裂いて響き渡る。
ルイーズは反論しようと唇を震わせたが、バルバラはそれを許さず、さらに強い言葉をぶつけた。
「隙あらば死んで詫びますみてぇな悲壮感漂わせる護衛なんざ、雇い主にとっちゃ一番の迷惑なんだよ! 守りたいなら、もっと泥臭く、しゃんと足元見な!」
その言葉は、鋭い刃となってルイーズの胸の奥底に突き刺さる。
彼女はハッとして、己の泥まみれの手を、そして同じように泥だらけのバルバラの顔を見つめる。
完璧でなければならない。いざという時は自分の命を盾にしてでも。そんな独りよがりの暗い覚悟が、いかに主君の重荷になり、自身の視野を狭めていたか。
「……私は。私は、エヴ様を……。」
呆然と呟くルイーズの瞳から、ポロリと一滴の涙がこぼれ落ち、泥にまみれた頬を伝った。
それは王都での悲劇以来、彼女がずっと無意識に溜め込んでいた、重く冷たい呪縛が溶け出した瞬間なのだろう。
バルバラはふっと口角を上げると、掴んでいた胸ぐらを乱暴に手放し、ポンと彼女の肩を叩いた。
「分かったら、さっさとそのドロドロの剣を拾いな。仕事の時間だ。」
「……傭兵風情に、説教される日が来るとは思いませんでした。」
ルイーズはゆっくりと立ち上がり、顔にこびりついた泥を手の甲で無造作に拭い去った。
その顔に、先程までの悲壮感はない。憑き物が落ちたような、どこか吹っ切れたような、本来の負けず嫌いで誇り高い彼女の笑みが少し戻ってきた気がした。
「エヴ様! 醜態をお見せしました! この挽回は、直ちに行います!」
「へっ、足手まといになんなよ騎士様!」
泥に塗れた白銀の騎士と、歴戦の傭兵。
二人は並び立つと、迫り来る残りのクレイ・ウルサスの群れへと、今度こそ完璧な連携で飛び込んでいった。
バルバラが大斧で魔物の突進を受け止め、態勢を崩したところへ、ルイーズのクレイモアが容赦なく叩き込まれる。
先程までの足元のふらつきは嘘のように消え去っていた。泥濘の深さを理解し、重心を落としたその足取りは、力強く大地を踏みしめている。
「せいっ!」
「おらよッ!」
重い斬撃と打撃の音が山道に響き渡り、魔物たちは次々と泥の海へと沈んでいく。
背中を預け合い、時に悪態をつきながら魔物を粉砕していく二人の姿は、見事という他なかった。
……すごいな。二人とも、泥だらけなのにすごく頼もしい
後衛で馬に乗ったまま安全圏にいた僕は、目の前で繰り広げられる泥まみれの共闘を、ただ呆然と見守ることしかできなかった。
止めに入った方が良かったのだろうかとオロオロする僕の隣で、サーシャがへへっと笑い声を漏らす。
「……止める必要はないよ、エヴァン。ルイーズには、あれくらい手荒なガス抜きが必要だったのさ。」
サーシャの言う通りだったのかもしれない。
僕の言葉では、優しすぎて彼女の呪縛を解くことはできなかっただろう。バルバラのような、しがらみのない粗野な傭兵の言葉だったからこそ、ルイーズの固く閉ざされた心に届いたのだ。
「よし、片付いたな! 旦那、怪我はないか?」
「エヴ様、周囲の安全は確保いたしました。……その、お見苦しい姿で申し訳ありません。」
すべての魔物を討ち果たし、二人が僕のもとへと戻ってくる。
頭から足の爪先まで泥まみれで、とても名誉ある騎士や凄腕の傭兵には見えない。だが、二人の間には、先程までのピリピリとした険悪な空気はすっかり無くなっていた。
「ありがとう、二人とも。」
僕が心からの称賛を送ると、ルイーズは顔を真っ赤にして俯き、バルバラは照れ隠しのように鼻の頭を掻いた。
東部への長く過酷な道のりは、まだ始まったばかりだ。
だが、この冷たい残雪の山道で、僕たちは確かに一つになれた気がした。泥だらけの洗礼は、最悪で、最高の護衛たちとの絆を深める、忘れられない第一歩となった。