姫騎士(肉食)共から貞操を守りつつ、僕の騎士道がハードモードすぎる 作:お庭屋さん
べレイン王国 東部領を目指す僕たちは、ひたすらに東進し数日。深い森の奥地へと馬を進めていた。
先日の焚き火越しにバルバラから聞かされた、東部の話。
圧倒的な機動力と火力を誇る『魔術騎兵』の存在と、大陸の常識を真っ向から否定する排他的な『精霊信仰』。その話を思い出すたび、手綱を握る手にじっとりと嫌な汗が滲む。
これから僕たちが足を踏み入れるのは、そんな異質な価値観に支配された、完全にアウェーな領域なのだ。
現在、東部領 ダ・アースを目的地とし旅を続けているが、北部領と違い、周囲の景色は劇的な変化を見せ始めていた。
僕たちの行く手を阻んでいた、凍てつくような残雪と剥き出しの岩肌は徐々に姿を消し、代わりに視界を覆い尽くし始めたのは、圧倒的な生命力を感じさせる『深い緑』だった。
「……すごいな。」
思わず、感嘆の息が漏れる。
道の両脇には、大人十人がかりでも手を回しきれないような巨大な古代樹が天を突くようにそびえ立っている。その太い枝葉が空を覆い隠し、まるで緑色の天蓋のようだ。
葉の隙間から差し込む陽光は、淡いエメラルドグリーンの光の柱となって、苔生した大地を美しく照らし出している。
ここはすでに、東部の森を貫くように整備された『森の街道』だった。
シルバッツ大森林や北部の領地でも森は見てきたが、ここの空気は明らかに異質だった。
肺に吸い込む空気が、ひんやりと甘い。
微かに土と若葉の香りが混じったその空気は、呼吸をするだけで体内の魔力が澄んでいくような、不思議な清涼感を持っている。
これが、東部の人々が信仰する『精霊の息吹』というやつなのか?
「……気味が悪いほど静かだな。」
美しい景色に見とれていた僕を現実に引き戻したのは、隣を進むバルバラの低い呟きだった。
彼女は愛用の大斧をいつでも抜けるように肩に担ぎ直し、周囲の樹上を鋭い眼光で睨みつけている。
「どういうこと?」
「これだけ魔力……いや、奴らの言う『精霊の力』とやらが濃い森なら、強力な魔獣の一匹や二匹、ウロウロしててもおかしくねェだろ?」
確かに、森に入ってからは魔獣の襲来はほとんど無い。これだけ深く、魔力も満ち溢れている場所なら、その魔力に充てられた魔獣が襲ってきてもおかしくないのだけれど……。
「だが、あんなにしつこかった魔獣の気配が、この街道に入ってからピタリと消えた。」
「確かにな。不自然といえば不自然だが……。」
聞こえるのは風が葉を揺らす音と、僕たちの乗る馬の蹄の音だけ。小鳥の囀りすら聞こえない、不自然なほどの静寂が辺りを支配している。
「まるで、見えねェ巨大な壁に守られてるみたいだ。……あるいは、アタシら全員が、すでに巨大な化け物の胃袋の中に飲み込まれちまってるか、だねェ。」
「冗談でも笑えんぞ。」
バルバラの言葉に、ルイーズが背中のクレイモアに手をかけながら吐き捨てるように言った。
彼女の表情もまた、極度の緊張で強張っている。
未知の脅威を前にして、騎士としての警戒心は最大限に跳ね上がっていた。
「エヴ様。間もなく、東部の入り口である関所が見えてくるはずです。何が起きてもすぐに対処できるよう、私の後ろから決して離れないでください。」
「わかっている。だが、僕たちはあくまで対話をしに来たんだ。こちらから先に剣を抜くようなマネは絶対にしないでくれ。」
「……承知いたしました。」
ルイーズは不本意そうに頷いたが、その瞳はいつでも戦闘態勢に入れるよう、鋭く前方を睨み据えていた。
それから一時間ほど進んだ頃だろうか。
鬱蒼とした古代樹の森がふいに開け、僕たちの目の前に巨大な建造物が姿を現した。
「あれが……関所か。」
思わず息を呑む。
それは、僕が知っているような石や煉瓦を積み上げて作られた無骨な砦ではなかった。
谷と谷を結ぶ巨大な岩壁に、生きた大樹の根や蔦が複雑に絡み合い、まるで自然の地形そのものが意思を持って門を形成しているかのような、異様にして美しい関所だった。
壁の上には、独特の軽装鎧を纏った衛兵たちの姿が見える。彼らが手にしているのは、鉄の槍ではなく、美しい装飾が施された木製の長弓や杖だった。
装飾の違いはあれど、大森林で出会ったエルフ達の武器に近しいものがある。
恐らくは、彼女らこそが、バルバラの言っていた『魔術騎兵』の一部なのだろう。
「止まれッ!」
ルイーズの鋭い号令で、十四人の護衛たちが一斉に手綱を引き、僕を円陣で囲むようにして布陣した。
距離にして約五十メートル。
関所の上の衛兵たちが、一斉にこちらを見下ろしている。
(来るか……!)
僕はゴクリと唾を飲み込み、胸元のペンダントが微かに冷たくなるのを感じながら、相手の出方を待った。
「異教徒め、立ち去れ!」と矢の雨が降ってくるのか、それとも魔術による強烈な威圧が飛んでくるのか。
緊張が頂点に達し、ルイーズやバルバラの額から冷たい汗が流れ落ちた、その時。
地響きのような重い音を立てて、関所の巨大な木製の門が、ゆっくりと内側へ開き始めた。
「な……に?」
ルイーズが間抜けな声を漏らす。
門の向こう側から、一人の女が馬に乗ってゆっくりと進み出てきた。
緑と茶色を基調とした、森の景色に溶け込むような流線型の軽装鎧。腰には細身の剣を帯びているが、その手は武器にはかかっておらず、ただ静かに手綱を握っているだけだ。
その女は僕たちから十メートルほどの距離で馬を止めると、深く、そして恭しく頭を下げた。
「よくぞお越しくださいました、若きマドゥワス卿。そして、マドゥワス騎士団と傭兵の皆様。」
朗々と響く、淀みのない声。
そこには、異教徒を蔑むような響きも、野蛮人を警戒するような敵意も、微塵も含まれていなかった。
予想を完全に裏切る平穏な出迎えに、僕たちは全員、あっけにとられて完全に固まってしまった。
「き、貴様らは……我々を攻撃しないのか?」
困惑を隠しきれないルイーズが、探るように問いかける。
すると、衛兵と覚しき女は、柔らかな微笑みを浮かべて首を振った。
「滅相もございません。我々は、争いを好みませぬ。はるばる北部からお越しいただいた大切なお客人に対し、弓を向けるような野蛮な真似はいたしませんとも。」
「客人、だと……?」
「はい。我が主、東部ダ・アース領を治めるグンダ・フォン・アース伯爵様が、皆様の到着を心待ちにしておられます。」
女はそう言って、開け放たれた門の奥、美しく続く森の街道へと手を差し向けた。
「さぁ、どうぞ中へ。ダ・アース市まで、私がご案内いたしましょう。」
完璧なまでの歓迎の態度。
だが、そのあまりにもスムーズすぎる展開に、僕の背筋には逆に冷たいものが走る。
排他的で、ベルディア教を信仰する者を根本から見下しているはずの東部の人間が、こんなにもあっさりと門を開くはずがない。
バルバラと視線を交わすと、彼女もまた「こりゃあ、きな臭ェな」と言わんばかりに片眉を吊り上げていた。
だが、ここで引き返す選択肢はない。
罠だと分かっていても、今は彼らの敷いた歓迎の絨毯の上を歩くしかなかった。
「……案内、感謝する。」
僕は努めて冷静な声でそう返し、愛馬オニキスの腹を軽く蹴った。
拍子抜けするほどのあっけない幕開け。
しかし、ゆっくりと開かれた関所の門をくぐる時、僕たちはまるで、満面の笑みを浮かべた巨大な肉食獣の口の中へ、自ら歩み入っていくような、底知れぬ薄気味悪さを感じていた。
☆
衛兵の案内で関所を抜け、さらに森の街道を進むこと数十分。
視界がふいに開け、僕たちの目の前に現れた光景に、護衛の騎士たちから感嘆の息が漏れた。
「これが、ダ・アース市……」
そこは、僕たちが知る「人間の街」の概念を根底から覆す場所だった。
無機質な石造りの防壁や、ひしめき合うように建てられたレンガ造りの家々はどこにもない。そこにあるのは、森との完璧なまでの調和だった。
天を突くほど巨大な古代樹の幹をくり抜いて作られた家屋。太い枝と枝を繋ぐように張り巡らされた、蔦と白木の美しい吊り橋。地面には石畳の代わりに、淡く発光する苔が幾何学模様を描き、街全体を柔らかく照らし出している。
住民たちの服装も、僕たちのような重い布や金属ではなく、植物の繊維を編み込んだ軽やかで美しい装束だった。ヒュム、エルフ、オーク……様々な種族がいることは変わらないが、生活様式はまるで違うように見える。
彼らは異教徒である僕たちに石を投げることもなく、ただ静かに、そして少しの好奇心を交えた瞳で一行の行進を見守っていた。
「……まるで、お伽話の中を歩いている気分ですね。」
警戒を解ききれないルイーズでさえ、その神秘的な美しさには目を奪われているようだった。
やがて僕たちは、街の中心にそびえ立つ一際巨大な大樹――その根本に、白亜の石と生きた樹木を複雑に絡み合わせて造られた『領主の館』へと案内された。
☆
通されたのは、吹き抜けになった広大な謁見の間。
玉座のような仰々しい椅子はなく、美しい木目の円卓の奥で、一人の女性が僕たちを待ち受けていた。
「よくぞお越しくださいました。エヴァン・クロード・マドゥワス卿。」
立ち上がり、静かに微笑んだ女性。
初めて見る顔だけれど、恐らくは東部ダ・アース領を治める領主、グンダ・フォン・アース伯爵だろう。
年齢は四十代の半ばから後半といったところだろうか。亜麻色の髪を上品に結い上げ、深緑を基調とした絹のようなドレスを身に纏っている。
その佇まいは、冷酷な策略家や野蛮な部族の長などではなく、どこか慈愛に満ちた母親のような温もりを感じさせた。
「お初にお目にかかります、グンダ・フォン・アース伯爵。……突然の訪問、我々をこのように歓迎していただき、感謝いたします。」
僕の挨拶に、グンダ伯爵は柔らかな声音で応えた。
「王都での痛ましい出来事、そして王国が二つに割れようとしているという噂は、この森の奥にも届いております。……ラウラ様のご不幸、心よりお悔やみ申し上げます。ですが……。 」
そこで彼女は伏せていた目をゆっくりと開け、理知的な瞳で僕を真っ直ぐに見据えた。
「我々は、先の戦争から…ようやく訪れつつある平穏な暮らしを守りたいのです。中央の権力争いであれ、貴方の大義であれ、王国の内乱に巻き込まれるのは御免被りたい。……冷たいようですが、これがダ・アース領を預かる私の、嘘偽らざる本音でございます。」
「な、なにを……!」
「ルイーズ、控えろ。部下の非礼をお詫び申し上げますアース伯爵。」
口を開きかけたルイーズを制し、伯爵へ頭を下げる。
伯爵の毅然とした、しかし刺々しさのない拒絶。
彼女の言葉は、王国東部を預かる領主の一人としての確固たる意志だ。
だが、交渉の余地が全くないというわけではない。
ルイーズの言いたいこともよく分かる。
国の危機になぜ傍観するような姿勢を取るのか、と問い質したい所だが、ここで激昂したり、無理に大義を押し付けたりするのは下策だろう。
「……伯爵のお考えは理解いたしました。我々も、決して東部に戦火を広げたいわけではありません。まずは互いを知ることから始めさせていただけないでしょうか。」
僕が慎重に言葉を選ぶと、グンダ伯爵は再び慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん。はるばる北部からいらした若き殿方を、門前払いして追い返すほど我々も野蛮ではありません。……難しいお話は、また明日。今宵はささやかですが、皆様の長旅の疲れを癒すための歓迎の宴をご用意いたしましょう。どうか、ゆっくりと羽を伸ばしていってくださいな。」
☆
その夜、領主の館の美しい中庭で、僕たちを歓迎する宴が開かれた。
テーブルには、ダ・アース領で採れたという色鮮やかな果実、見たこともない香草で焼かれた獣の肉、そして淡く透き通るような琥珀色の果実酒が並べられていた。
とはいえ、いくら温和な領主の提案とはいえ、完全に警戒を解くわけにはいかない。
僕が口をつける前に、こっそりサーシャが、小皿に取り分けた料理と酒を自身の舌で確認していく。
「……うん。痺れや特有の臭いはないな。魔力も感じない、毒物特有の淀みは一切ない。食べても問題ないと思うぜ。」
サーシャの言葉に続き、傭兵であるバルバラも果実酒の杯を鼻に近づけ、フンッと鼻を鳴らした。
「いい香りだねェ。ただの美味そうな酒と飯だ。」
「……ならば、少しだけいただくとしよう。皆、過酷な野営の連続だったのだ、交代で腹を満たしてくれ。」
僕がそう指示を出すと、張り詰めていた護衛たちも少しだけ肩の力を抜き、東部の料理に舌鼓を打ち始めた。
特に果実酒は絶品だった。喉の奥で花が開くような甘い香りと、冷たい湧き水のような清涼感。長旅で疲れ切った身体に、その甘露は心地よく染み渡る。
中庭の向こうでは、エルフの楽団が木製の楽器で穏やかな調べを奏でている。
過酷な雪山を越えてきた僕たちにとって、その空間はまるで夢の中のように穏やかで、満ち足りたものだった。
――異変に気付いたのは、宴が始まって一時間が過ぎた頃だった。
「……あれ? なんか、急に眠気が……。」
「おいおい、酒に酔うのが早すぎるだろ……って、アタシもなんか……視界が……。」
バルバラの部下である傭兵たちが、次々とテーブルに突っ伏し始めたのだ。
最初はただの酔いかと思った。だが、酒に強いはずのバルバラでさえ、大斧を杖代わりに立ち上がろうとして、そのまま膝から崩れ落ちた。
「な、なんだこれは……! 身体に力が入らな……っ!」
サーシャが呻き声を上げ、床に倒れ伏す。
おかしい。毒見は完璧だったはずだ。毒ではない。
では、これは一体――。
「エヴ、様……! 武器を、お気をつけ……く、ださい……」
僕の隣で、ルイーズが必死に立ち上がり、背中の大剣を引き抜こうとしていた。
だが、彼女の指先は柄に触れることすらできず、糸の切れた操り人形のように、ガシャンと重い音を立てて石畳の上に倒れ込んでしまった。
「ルイーズ! サーシャ! バルバラ!」
声を張り上げようとした僕の視界も、突如としてひどく歪んだ。
脳髄を直接撫でられるような、抗いようのない強烈な睡魔。まぶたが鉛のように重くなり、立っていることすらできず、僕はテーブルに手をついて必死に身体を支えた。
「……どうやら、少し酔いが回られたようですね。」
霞む視界の向こうから、静かな足音が近づいてくる。
見上げると、そこには先ほどと変わらぬ、優雅なドレスを纏ったグンダ伯爵が立っていた。しかし、その顔に浮かんでいた慈愛の笑みは消え失せ、冷たく、酷薄な光を帯びた瞳が僕を見下ろしていた。
「伯、爵……これは、一体……?」
「ご安心なさい。毒ではありません。東部の森の奥深くでしか採れない、特別な花から抽出した蜜……それを濃縮しただけの、ただの睡眠剤です。」
睡眠剤。
だから、魔力感知にも引っかからなかったのだ。
人を殺すための毒物ではなく、自然の恵みから作られた、ただの薬だったのだから。
「な、ぜ……僕たち、を……。」
「申し上げたはずです、マドゥワス卿。我々は平穏な生活を守りたいだけなのだと。」
グンダ伯爵の声は、どこまでも平坦で、それゆえに酷く冷酷に響いた。
「貴方たちを王都へ売り渡せば、中央は我々東部の完全なる独立と不干渉をお約束してくれたのです。戦乱に備えるなどと騒ぎ立てる愚かな者たちを黙らせ、この森の平穏を永遠のものにするために……。」
バタリ、と。
完全に限界を迎えた僕の身体は、抗う間もなく床へと倒れ込んだ。
「申し訳ありませんね。我々の未来の為、どうか礎となってくださいませ。」
薄れゆく意識の最期に聞いたのは、そんな温和な女領主の、底知れぬほど冷たい決別の言葉だった。
闇が、僕の思考を完全に塗り潰していった。