祈月の夜、それは月が最も地上に近づく日。月神を祭る霜月の子らにとっては重要な時期であり、今やナド・クライにおいて最も賑やかなお祭りだ。信仰とは縁遠いナシャタウンの人々もこの日だけは祝祭の伝統にあやかり、甘いキャンディに舌鼓を打ちながら通りを埋め尽くす綺麗な飾りに目を輝かせる──これらのお話はこれまでコロンビーナにとってただの情報に過ぎなかった。一応は自分に向けられる信仰由来の祭りだったとはいえ、人々の願いに応えることに疲れ、霜月の里を離れたコロンビーナにとっては関心を向けるような出来事ではなかったからだ。
(でも……)
今年の祭りは一等賑やからしい。五百年前からずっとナド・クライを悩ませていたワイルドハントが、遂に終結したのもあるだろう。誰もがようやく肩の荷を下ろし、昼も夜も楽し気に話しながら祭りの準備を進めている。その様子を独り静かに眺めながら、コロンビーナは少し残念に思っていた。
(こんなに楽しそうなら、皆と一緒に行きたかったな……)
いよいよ最後の力を失いつつある今、祈月の夜が訪れてもコロンビーナが祭りを楽しむのは難しいだろう。今はこうして意識だけは繋ぎ止めているが、それもいつまでもつか分からない。そうして初めて死をまざまざと実感した途端、急に終わるのが惜しくなった。世界に拒絶されていることを自覚して以来、覚悟はしていたはずなのに──
(……? あの子、こっちを見てる……?)
透けた掌を眺めながら暗く沈んでいた思考は、ふと視線を感じたことで引き戻された。反射的に視線を追って顔を上げれば、燃えるような色の目を持つ少年がこちらを見ている──いや、おかしい。今のコロンビーナはすでに実体を失っており、何にも干渉できないし、誰からも認識されない状態のはずだ。そのはずなのだが、その子供は確かにまっすぐこちらを見ていた。揺るぎない眼差しに朧げな希望が首をもたげる。コロンビーナは期待を裏切られる恐れを抱きながらも、少年に近づきながら口を開いた。
『あの、私のこと……見えてるの……?』
「……なんで透けてるの? 幽霊?」
見えてる。本当に見えてる──驚いて、嬉しくて、心の中が綯交ぜになった。
『……幽霊じゃないよ。もう消えちゃいそうだから、同じようなものかもしれないけど』
ヒーシ島にはほとんど幽霊はいないが、聞いたことはある。強い未練を残して死んだ生き物はすぐには地脈へ還れず、一時的に魂が地上に留まってしまうのだと。しかし、いくら残ったところですでに肉体を失った幽霊にできることはなく、大抵過去の記憶をなぞりながら地脈に還るのを待つしかない。そう考えると、確かにこの現状は幽霊になったようなものなのかもしれない。
『キミは……どうして私が見えるの?』
「……他の人は見えないの?」
『うん。そういえば、幽霊は人間にも見えるらしいから……今の私は幽霊より薄いのかも。幽霊は生前の繋がりが残っているけど、今の私には何も残っていないから……』
「繋がり?」
『私は生まれた場所も、匿ってもらった場所も、全部自分から立ち去って……自分の名前すら、どれも実感が湧かなくて……』
するすると言葉が出てくる。普段なら初対面の相手にここまで踏み込んだことは話さないが、自分で創造するよりも現状が堪えていたらしい。こんな状況で唯一見つかった相手との繫がりを必死に手繰ろうとするかのように、気付けば一気にいろんなことを話してしまっていた。
『……ごめんなさい、急に色々言われても困るよね』
「別に大丈夫だけど……」
会話している内にいくらか落ち着いたのか、コロンビーナは息を継いで首を振った。そこでようやく妙な感覚に気付く。
コロンビーナはクーヴァキの流れを感じることで外界の様子を事細かに──それこそ視覚に頼っていれば分からないようなことまで分かるのだが、目の前の少年については感覚が朧げだ。人型をしているのは分かるが、表面をなぞる以上のことは分からない。まるでクーヴァキによる干渉を拒んでいるかのような──
「……くすぐったい」
『え?』
「何かで……触ってる? くすぐったいよ」
『……クーヴァキの流れを感じるの?』
「ああ、これがクーヴァキなんだ……ナド・クライではずっと感じていたし、慣れちゃって一瞬何なのか分からなかった」
困惑した。確かに人間は強いクーヴァキに晒されると体調不良を訴えるが、コロンビーナが感知に使うような微弱なクーヴァキまでは感じ取れないはずだ。詠月使のように生まれながらにして高い適性を持つ人間ならともかく、目の前の少年は角もないし、そもそも服装からして霜月の子だとは思えない。
『キミは──』
「ウーレア?」
一体何なのかと尋ねかけたその時、すっかり聞き慣れた声が飛んできた。咄嗟に振り向けば、こちらにやってくる旅人達と目が合う──いや、そうじゃない。旅人が見ているのはウーレアだ。やっぱりコロンビーナのことは見えていないらしい。分かっていたことなのに、どうしてこんなにも遣る瀬無いのだろうか。
「こんなところでどうしたの?」
「ん……」
ウーレアはどう言ったものかと迷いながら、自分にだけ見えるらしいコロンビーナの方を一瞥した。伝えるべきなのだろうか。そう逡巡するウーレアを怪訝に思ったのか、何とはなしに視線を追った旅人もまた奇妙な感覚を抱いた。
「……コロンビーナ?」
『……!』
息を呑んだコロンビーナが咄嗟に手を伸ばすが、やはりその掌は触れられずすり抜けてしまう。旅人とも相変わらず目は合わない。けれど、旅人は確かに何かを感じているようだった。
「……ウーレア、もしかしてコロンビーナがここにいる?」
「コロンビーナって……長い黒髪に白い服を着た女の子?」
「見えるんだ……!」
今度は旅人が息を呑んだ。驚きと同時に安堵する。アリスからコロンビーナが消えたと聞かされた時は心底肝が冷えたが、少なくとも意識だけは残っているという話は本当だったのだ。アリスを疑っていたわけではないが、彼女でさえもコロンビーナの具体的な状態は知らないようだったのでどうしても不安だったのだ。
「コロンビーナはどんな状態? 喋れそう……?」
『旅人、大丈夫だよ。まだ喋れるから』
「まだ喋れるって」
「そっか……良かった」
楽観していいわけではないが、ようやく意識だけは残っていると確信が持てた。これでコロンビーナの意識を留めるための行動にも身が入るというものだが──
「……ウーレア」
「うん」
旅人は迷った。現状コロンビーナの状態を見て確かめられるのはウーレアだけだ。できればウーレアを連れていきたい。ウーレアとて分かるだけでコロンビーナに干渉はできないかもしれないが、それでも状況が分かるだけで心構えはできる。
ただ、ウーレアが大勢の人と行動する上で、正体がバレるようなボロを出さないかが心配だった。ウーレアは大権を得てから普通の人間と同程度の知恵を手に入れたが、受け継いだ大権が真っ二つだったためか状態が不安定になりやすい。時に子供のようでもあれば、ある時には人智を超えた認識を持つこともある。事情を知らない人間から見れば酷く奇異に映るだろう。ワイルドハントが消えた今、戦う姿を見られることで正体がバレる心配はほぼなくなったはずだが──
「行こう。僕、ついてく」
「ウーレア……ごめん。何かあったら必ず俺がどうにかするから」
「大丈夫だよ、空。きっと大丈夫」
コロンビーナを助けたい。でも、そのためにウーレアの今後に影響を与えたくない。どちらも心配しているからこそ判断に迷っていると、ウーレアは無言の葛藤を感じ取った様子で旅人の手を取った。ウーレアはのんびりと微笑み、旅人の手を引いて少し離れたところにいたファルカとラウマ、それにパイモンの元へ駆け寄る。勿論、皆には見えないがその後ろにはコロンビーナもいた。
「その子は?」
「この子はウーレア。ナタから一緒に来て、普段は単独行動してるんだけど……ワイルドハントもいなくなって危ないこと自体はなくなっただろうし、今回はついてきてもらおうと思って。魔女ニコからどんなことを言われるのか分からないけど、時間がないなら人手があるに越したことはないから」
「ふむ。確かにそうかもしれぬ」
素知らぬ顔で尤もらしいことを述べれば、ファルカとラウマは然して疑った様子もなく頷いた。危険がないからこそウーレアを連れていくという判断ができたのは事実なのだから、嘘は言っていない。
「なら、歩きながら自己紹介するか。俺は西風騎士団の大団長にして北風騎士のファルカだ」
「私は霜月の子の詠月使ラウマだ」
「僕は……ウーレア」
何やら長い肩書がある二人の自己紹介に頷きつつ、ウーレアは「本当なら僕にも“炎の龍王”とか“光と知恵を統べる主”とか名乗れるのにな」と考えていた。別に肩書にこだわるつもりはないが、ひとりだけ浮いているような気がして少し落ち着かない。本来ならそんな肩書のある人間の方が少ないのだが、何故かここには大仰な肩書を持つ人間ばかりだ。
「ウーレアはどこの部族の出身なんだ? 服装はどこの部族とも違うように見えるが……」
旅人は心底焦った。そういえばファルカ率いる遠征軍は一時期ナタに留まっていた時期があるのだ。その間にナタのことについて知る機会は多かっただろう。未だ国外ではナタに詳しい人間は少ないため、踏み込んだことを聞かれる可能性についてすっかり失念していた。
「どこの部族でもないよ」
「おっと、何か事情でもあるのか? なに、心配するな。無理に聞き出すつもりはないさ」
しかし、幸いにしてファルカの察しの良さに助けられた。ウーレアの曖昧な答え方と、どこか焦っている旅人の気配から何かあると感じ取ったのだろう。軽く笑ってすぐに話題を変えてくれたファルカには感謝してもし切れない。
今後のためにも今回のことが終わったら、次からこういった質問を投げかけられた時にどう答えるかウーレアと話をすり合わせておくべきだろう。そんな風に考えていた旅人だったが、まさかその考えが酷く甘いものだと気付かされる展開が待ち受けているとは夢にも思わなかった。
「それにしても驚いたわ。アリスからの尋ね人の中に、まさか龍がいるなんて」
「……龍?」
「!!!」
しまった、と思った時にはもう遅かった。アリスに言われるまま魔女ニコに会いに来たはいいが──まさかいきなりウーレアの正体を言い当てられるとは思っていなかった。
「その驚きよう……もしかして隠していたの? だとしたらごめんなさい。龍の気配は分かりやすいし、隠すのは難しいだろうからてっきり皆知っているものだとばかり……」
「あー……これは、聞いていいやつか? それともさっきの『自己紹介の魔法』みたいに忘れた方がいいやつか?」
ウーレアと旅人は困った様子で顔を見合わせた。旅人の方は後悔も混じった顔だ。
そもそも魔女は何かと常人が知り得ない知識を持っている存在なので、ウーレアの正体が分かってしまうことも予想しておくべきだったのかもしれない。言い訳をするのなら、これまで魔女Nが触れてきたのはあくまで天理が定めたルール──運命の話ばかりで、よもや龍についても詳しいとは知らなかったのだ。
あるいは、人間が鈍すぎるだけで人ならざるものには自然と知れてしまうのかもしれない。よく考えたらフリンズも厳密に何なのかまでは分かっていなかったにせよ、初対面の時点でウーレアが人間でないであろうことは察していた。ただ、魔女ニコが天の使いであることは顔を合わせてから初めて知ったため、対策には限界があったのも事実だ。
何にせよ、こうなったら腹を括るしかない。
「……忘れるのは無理だろうし、できれば言い触らさないでほしい」
「うむ、それは勿論。しかし、その……話の流れからしてウーレアが龍なのだと思うが、本当にそうなのか? ニコさんの言葉を疑うわけではないが、彼は人間にしか見えない」
「あら、彼の他にも人の姿をした龍はいるしそんなにおかしなことではないわ。龍は適応に長けた種族だから、現代で生きる上でこれが最適だと判断したのでしょう」
当たり前のようにヌヴィレットのことも知っている。思えば予言をどう乗り越えればいいか迷っている時、助言してくれたのは他ならぬニコだ。結果としてフォンテーヌは水龍の助力で予言を乗り越えたことを踏まえると、ヌヴィレットの正体を把握しているのは当然かもしれない。
それに、ヌヴィレットの情動はフォンテーヌの気象状況に直結している。彼が悲しめば雨が降り、気持ちが落ち着けばまた晴れる。こうも分かりやすいせいで、普通の人間であるリオセスリですら薄らとヌヴィレットの正体を察しているのだ。もしかするとウーレアも、旅人が気付いていないだけで周囲に何かしらの影響を与えているのかもしれない。
「あの、参考までに聞いておきたいんだけど、龍の気配ってそんなに分かりやすいの?」
「ええ。言ってしまえばこの世で最も巨大な元素の塊だもの。天理が理を書き換えた世界においては、唯一純粋な光界の住人でもある。人間は本来元素を扱えないからあまり影響は感じないでしょうけど、そうではない生き物にとっては本能的に何か違うと感じるはずよ」
「そうだったんだ……」
ナタには仙人や妖怪のような人ではない種族が存在しない。仙霊はいるが喋れない。夜神はもしかすると察していたかもしれないが、ナタと龍の歴史的な問題を考慮して言わなかったのかもしれない。そう考えると、ナタを出た直後にやってきたのがナド・クライでまだ良かった。これが璃月や稲妻だったらもっと大変なことになっていた可能性もある。
「私からも訊いていいかしら? あなたはどうして此処にいるの?」
「どうしてって……空がついてきてほしそうだったから」
「……あなたは彼に付き従っているの?」
「一緒に旅してる」
ニコは随分とウーレアのことが気になるらしい。それに、先程までの大らかな様子に比べると、少し緊張しているようにも見える──そこではたと気が付いた。
彼女は生き残った天の使いだという。つまり、元は天理の配下だ。後に天理によって罰を受け、ほとんどの天の使いが零落したとはいえ、天理と龍のどちらに寄っているかと言われたら間違いなく天理だろう。なら、かつて天理と激しく対立した龍のことはどう思っているのだろうか。
しかも、復讐の大戦後も龍が一定の権勢を維持したナタにおいて、零落した天の使いは悲惨な目に遭ったと聞く。龍は天の使いも、退化して仙霊となった者も、全てを敵と見做したのだ。その追撃から唯一残った天の使いが後の夜神である。
こうして無事に生き残っているのだから、ニコが当時のナタに関わっていたとは思えない。しかし、夜神のことを知っているなら当然同胞の身に何が起きたかは知っているだろう。彼女がウーレアを警戒するのは当然のことなのかもしれない。たとえウーレア自身は生まれたばかりの幼い龍とはいえ、天の使いにとっては龍という存在自体が受け付けない可能性もあるのだ。
「……ニコ、ウーレアは何か企んでいるわけでも、事件を起こそうとしているわけでもないよ。ただ、純粋に今を生きることを楽しんでいるだけなんだ」
「今を……そうね。私からすると現状はとても奇妙に思えるけれど、それは命を持つものにとって自然な発想と言えるわ」
「他の龍王だって今は普通に暮らしてるわけだし……」
「……そうね。少し……警戒しすぎているみたい。炎の龍王はかつて唯一天理の手から大権を守り切ったから、天の使いだった私であっても源火についての知識は浅く、どうしても身構えてしまうのよ」
「今は本当に大丈夫。今回だってウーレアにはコロンビーナの様子が分かるみたいだから、ついてきてもらっただけで……」
「え?」
沈黙が落ちた。ニコだけでなく他二人の視線も一斉にウーレアと旅人に集まる──そういえばウーレアがコロンビーナを見れること、そしておそらくはこの場にコロンビーナがいることを伝えられていなかった。先程まではウーレアの正体を明かすつもりがなかったのだから、伝えたくても伝えられなかったのだ。
「彼には意識だけになった月神が見えているの?」
「そうみたい。ウーレア、コロンビーナは今も傍にいるんだよね?」
「うん」
「どうして彼にだけ月神が見えるのかしら……」
理由は色々考えられる。ニコにすら感じ取れないものをウーレアだけが感じているとなれば、真っ先に考えられるのは生まれた時代の差だろう。月神は天の使いより先に生まれており、より古い生まれを持つ龍王の方が波長は合うのかもしれない。
また、天の使いはクーヴァキのような光界の力を扱うことはできても、龍王の大権や月神の権能のように自身だけの光界の力の源を持っているわけではない。もしウーレアがコロンビーナを見れるのが大権の作用だとしたら、ニコには見えなくても当然だ。
「あー……好奇心を刺激されているところ申し訳ないんだが、今は月神の嬢ちゃんについて話さないといけないんじゃないか?」
「あ、そうね。そうだったわ……ええと、どこまで話したかしら?」
名前を持たず、信仰も廃れた今のコロンビーナはテイワットに残るための合理性を失っている。だから、祈月の夜まで意識を繋ぎ止めるには彼女の本名を探し出さなければならない。それには古い伝承を辿るのが現状唯一の手掛かりであり、一行はクーヴァキに高い適性を持つ面々だけでヒュペルボレイアの遺構に入ることにしたのだが──
「なあ、ちょっと気になったんだけど……月神は天理が作ったものじゃないし、結果として天理のことも裏切ったから今のテイワットには存在できないんだよな? なら、どうして龍王にはそういう縛りがないんだ?」
ニコの説明を聞き、真っ先に気になったのがそこだった。天理が作ったものではない、という観点から言えば龍王と月神は同じ事情を抱えている。しかし、これまで出会った龍王は皆存在が不安定になっている様子はなかった。大権を剥ぎ取られたままになっており、弱体化して口惜しさを滲ませている者はいたが、少なくとも勝手に力が流出して死にそうになっている者はいなかった。彼らとコロンビーナの差は何なのだろうか。
「うーん……私も龍についてはあまり詳しくないから、はっきりとしたことは言えないわ。ただ、推測するに龍王達は最後まで誰も裏切らなかった。その差かもしれないわ」
「それってつまり、月神はニーベルンゲンを裏切ったから……?」
月の三女神にとって致命的だったのは、裏切りを知ったニーベルンゲンによって兵器として改造されたことだ。こうなってしまったからこそ、天理も平和の条約を破棄してでも月を見捨てなければいけなくなった。だから、ニーベルンゲンを裏切ったのが全ての発端というのも間違った解釈ではないが──
「月は裏切り者だ」
「ウーレア?」
その声音はこれまでと明らかに何かが違った。反射的に全員の視線が集まり、そしてウーレアの双眸が灼きつくような熱を宿していることに気付く。普段のあどけない様子は鳴りを潜め、そこには確かに“龍王”がいた。
「造物主が被造物の裏切りを許さないのは当然のことだ。天理だってそうだ。天の使い達がたった一度の過ちで人類に入れ込んだ結果、天理は全ての配下を失墜させて喋ることも儘ならない存在へと貶めた……ニーベルンゲンが非道なわけじゃない。造物主にはそうする権利がある」
「お、落ち着けって! 別にニーベルンゲンを悪く言おうとしたんじゃないぞ……!」
慌ててパイモンが宥めようとするのを余所に、残りの者は口を挟むことも儘ならなかった。それほどまでに強烈な威圧感が放たれていたのだ。姿は幼い少年のままだというのに、巨龍を前にしたような感覚である。パイモンだけあまり気にしていないのは、これまで何度も龍と接してきたから慣れているのか、あるいはウーレアが無意識下でパイモンだけは威圧しないようにしているのだろうか。
「天理の手の者はその裏切りがやむを得なかったことであるかのように語るが、先代が聞けばおそらくはそう思わないだろう。先代はかつて天外へ出たニーベルンゲンの行方を尋ねるために月まで向かったが、彼女達は一様に口を閉ざした……本当に裏切りは天理が現れた後に始まったのか? そこにどんな意図があったにせよ、疑われるような振る舞いばかりしているからいざという時に誰も月を庇わなかった……そもそも天理さえ現れなければ、こんな騒ぎは全て起きてなかっ──」
ウーレアの状態がどんどん不安定になっているのは誰の目にも明らかだ。しかし、ニコでさえ気が昂っている龍王の精神に干渉するのは難しい。人間の脳に語り掛けるのとは訳が違うのだ。彼がリラックスした状態なら会話は成立するが、本気で拒まれたらその防御を突破してまで頭の中を透かし見ることはできない。
パイモンの呼びかけで正気に戻るのに賭けるしかないが、今のところ我に返る気配はない。旅人に一番懐いているため、旅人が呼びかければ可能性は高まるだろうが──先程から儀式中の三人はこちらの騒ぎに気付く様子がない。彼らの集中力が乱れて儀式が中断されないよう、ニコが魔法を使っているのだろう。
龍王がこの場で暴走したら儀式どころではなくなるため、最悪の事態が引き起こされる前には儀式の中断を選ばなければならないだろうが、三人にかかる負担を考えると中断はしたくない。それを誰かが指摘できればウーレアも旅人の身を慮って止まるかもしれないが、問題はそれを唯一安全に指摘できそうなパイモンがまだ気付く様子がないということだ。ニコなら秘密裏にパイモンの頭にだけ言葉を送ることはできるが、儀式中の三人を魔法で守りながら龍王に気付かれないようパイモンにだけ語り掛けるのは骨が折れる。せめて、誰かが危険を承知でウーレアの気を逸らしてくれたら──
「仕方のないことです。何せ、歴史は必ずしも真実を記録したものではなく、勝者だけが語ることを許されるものですから」
フリンズの声だ。ウーレアの意識が完全にそちらへ向いた。同時に、フリンズは喉を締め付けられたような錯覚を抱いた。フェイである自分ですら龍王を前にすればこのような状態に陥るのだ。危険を冒すのはやはり自分が適任だっただろうと、フリンズは痩せ我慢のように苦笑した。それに、確実に気を引くためとはいえ今のウーレアにとってかなり不愉快な発言をしたにも関わらず、辛うじて攻撃まではされていない。この中では旅人とパイモンに次いでウーレアと親交があるのはフリンズだ。フリンズは諸々の状況からすべきことを判断し、そしてニコもその隙を見逃すことはなかった。
「ウ、ウーレア! ここで何か起きたら、旅人が頑張ってるのが全部台無しになっちゃうから……気分が悪いなら散歩でもしよう!」
「!!!」
やはり名前もつけた旅人は一等特別に思っているのだろう。はっと我に返った途端、辺りに満ちていた威圧感は急速に薄れていった。天の使い側の言い分に納得したわけではないだろうが、ここで無理に抗議するよりも大事なことがあると考えたらしい。
「フリンズ……ごめんなさい」
「おや、僕は何ともありませんよ。ですが、気にされるようでしたら是非散歩に付き合っていただけませんか? 日頃夜回りで体を動かしていることが多いので、こうして見守るだけの仕事は性に合わないんです」
「……うん、ついてく。パイモンもごめんね」
「お、おう! 大丈夫だ、気にすんな!」
実際、パイモンは何も感じていなかったため、何故周りの皆が一斉に安堵したのかもよく分かっていない。だから、フリンズがウーレアを連れ出すのを静かに見送るだけだったが、他の者は足音が完全に聞こえなくなったところで大きく息を吐いた。
「肝が冷えたぞ……トワリンに近づいた時でさえあんな感覚に陥ったことはなかった」
「それはそうでしょうね。大権を手にした龍の強さは同じ龍と比べても数段強いもの。あれは世界の法則を形作る存在、この世の事象そのもの……天理は龍と戦ったけれど、龍王を完全には殺せなかった。それはテイワットを動かす上で彼らが持つ大権が必要不可欠だったからよ。彼らを相手取るのは山や嵐を素手で動かそうと目論むようなもの。人間が敵う相手じゃないわ」
わざわざエゲリアを作って原始胎海を見張らせ、水龍の代替わりを防いでいたように、大権がある限り龍王が蘇る可能性があることは天理とて分かっていた。龍を完全に殺すにはこの世から大権を消し去るしかない。しかし、テイワットを治めるため月と平和条約を結んだように、天理には大権なくしてテイワットを育む力はなかったのだ。ニーベルンゲンに勝てるだけの強さがあろうと、強さだけで世界を育てることはできない。
「そういうもんか。何にせよ、あの子の前で歴史の講釈を垂れるのはやめておいた方が良さそうだな」
「……まあ、そうね」
話好きなニコは若干不満げだが、龍王と事を荒立てるのがまずいのは事実だ。何より、ぶつかったとしてどちらかが納得できるとは到底思えないため、それなら最初から話さない方がいいだろう。天の使いからしてみれば龍は平和だった時代を破壊した存在であり、龍からしてみれば天理がテイワットに侵略してきたのが悪い。これらの意見は永遠に平行線を辿るだろう。
「というか、さっきからヤフォダが妙に静か……って、ヤフォダ!?」
「あら……龍王が放つ力に当てられてしまったようね。儀式に影響は出ていないし、そこまで強い放出ではなかったけれど……彼女はクーヴァキにもアレルギー反応が出ていたから、元々光界の力にほとんど耐性がないのだと思うわ。とはいえ、少しすれば目を覚ますでしょうからそこまで心配しなくても大丈夫よ」
「そうは言っても、このまま地べたに寝かせておくわけにはいかないだろう。パイモン、そっちの毛布を持ってきてくれ」
ファルカとパイモンがヤフォダを介抱する傍ら、ニコは儀式中の三人をもう一度確認した。誰にも影響は出ていない。それだけは不幸中の幸いだったと溜息を吐き、気持ちを切り替えることにした。ただでさえ今のナド・クライは問題が多いのだから、ひとまずは目の前の問題を一つずつ片付けていかなければならないのだ。