青春とは嘘であり、悪である。(連載)   作:10気筒VTEC

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浸透戦術 2

卒業式まで、残り数時間。 八幡は、留美という温かな牢獄の中で、ゆっくりと、しかし確実に「比企谷八幡」という個を溶かしていく。 その心地よさに、彼はもう、抗うことさえやめていた。

 

高架下の影の中、留美の腕は驚くほど優しく、そして逃れられないほど確かに八幡の背中に回されていた。

 

「……苦しいんでしょ、八幡」

 

胸元に顔を埋めたまま、留美が囁く。その声は雨音に溶けそうなほど静かだったが、八幡の鼓動に直接響いた。

 

「雪ノ下さんの望む『本物』は、きっと綺麗すぎて、八幡には眩しすぎるんだよ。……正しくいようとして、対等であろうとして、そうやって自分を削りながら歩くのは、もう限界だったんじゃない?」

 

八幡の身体が、微かに強張る。 雪ノ下雪乃との時間は、確かに幸福だった。だが、彼女と向き合うことは、常に己の醜悪な本質を突きつけられ、それを修正し続ける終わりのない自己研鑽でもあった。

 

「いいんだよ。正しくなくて。……独りで泥を被る八幡も、嘘をつく八幡も、誰かに失望される八幡も、私は全部知ってる。全部見てきた。……だから、私だけは絶対に、八幡を軽蔑したりしない」

 

留美は八幡の背中を、まるで幼子をあやすようにゆっくりとなぞる。

 

「あの人は、八幡の『正解』になりたいんだろうけど……私は、八幡の『ゴミ箱』になりたい。誰にも見せられない汚い気持ちも、罪悪感も、全部私に捨てて。私が全部、飲み込んであげるから」

 

その言葉は、聖母の慈愛のようでいて、同時に底なしの沼のような深淵を孕んでいた。

 

「……お前、そんなこと言って……後悔するぞ」

 

「後悔なんて、あのキャンプの夜に置いてきた。……八幡が私を助けてくれた時に、私のはもう壊れてたんだよ」

 

留美は少しだけ顔を上げ、八幡の顎に自分の頬を寄せた。

 

「卒業式まで、あと少し。……それまでは、高校生っていう皮を被ったままでいいよ。でも、私の腕の中にいる時だけは、無理して笑わなくていい。苦しまなくていい。……ただの、どうしようもない『比企谷八幡』でいて」

 

八幡は、何も言わずに留美の肩に顔を埋めた。 彼女の体温が、雪ノ下との誠実な日々に凍てついた心を、ゆっくりと溶かしていく。それは救いという名の堕落だったが、今の八幡には、その甘い毒こそが何よりも必要だった。

 

「……留美、お前は本当に……」

 

「しー、……今は、何も言わないで」

 

留美は満足げに目を閉じ、さらに深く八幡を抱きしめた。 高架下を通り過ぎる車のヘッドライトが、一瞬だけ二人を照らし、また深い闇へと置き去りにしていった。

留美の腕の中で、八幡の頑なだった心は、音を立てて崩れるのではなく、静かに、そして決定的に融解していった。

 

「……っ」

 

八幡は、留美の細い背中に回した腕に、無意識のうちに力を込めていた。 雪ノ下雪乃との「本物」を目指した日々は、常に自分を律し、高め、磨き上げ続ける修行のような時間だった。彼女の隣に立つために、己の醜悪さを必死に覆い隠してきた。

 

だが、留美の差し出したのは、その醜悪さごと自分を肯定し、泥濘の中で共に溺れるという救済だ。

 

「……留美」

 

「なに?」

 

「……俺は、最低だな」

 

自嘲気味に吐き捨てた言葉に、留美はくすくすと喉を鳴らして笑った。その笑い声には、獲物を完全に捕らえた確信が満ちている。

 

「知ってるよ。……でも、その最低な八幡を、私は誰にも渡さないから」

 

その瞬間、八幡の中で、明日という日への意味が劇的に変質した。 これまで、卒業式は「終わり」だった。奉仕部というモラトリアムに別れを告げる、厳かな、しかし重苦しい区切り。

 

だが今は違う。

卒業式さえ終われば。 この「総武高校の比企谷八幡」という、雪ノ下の期待に応え続けなければならない仮面を脱ぎ捨てられる。 正しくあることを義務付けられた檻の鍵が、明日、ついに開かれるのだ。

 

「……明日だな」

 

「うん。明日だね」

 

留美が八幡の胸に頬を寄せたまま、甘く囁く。

 

「明日が終われば、八幡は私のもの。……卒業証書と一緒に、正しさも全部捨ててきて。私が、もっといいものをあげるから」

 

八幡は、高架下の向こう側に広がる夜の街を見つめた。 街灯の光が雨に濡れた路面で乱反射し、まるで砕け散った「本物」の欠片のように輝いている。

 

これほどまでに卒業式が待ち遠しいと思ったことは、人生で一度もなかった。 それは希望に満ちた門出などではない。 自らの手で積み上げてきた「正解」をすべて放棄し、一人の少女が用意した、甘美で歪んだ「間違い」へと身を投じるための、カウントダウン。

 

「……ああ。明日が、楽しみだよ」

 

八幡の口から、今まで一度も発したことのない、心からの、そして最悪な響きを伴った言葉が零れた。

 

その言葉を聞いた留美の腕が、歓喜に震えるように、さらに強く八幡を締め付けた。 二人の影は、雨の夜の闇に溶け込み、もはやどちらがどちらの孤独を吸い上げているのか、判別がつかなくなっていた。

 

 

 

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