卒業式は終わり、最後のホームルーム。平塚先生の言葉が胸に刺さる。
「一人で背負おうとするな。それは、強さじゃない、ただの傲慢だ」
卒業証書を抱え、クラスメイトと名残惜しそうに言葉を交わす雪ノ下。俺は、彼女に近づくことができない。近づけば、嘘が露呈しそうで、その冷たい視線に射抜かれるのが怖かった。
「ヒッキー!」
由比ヶ浜が、俺の腕を掴んだ。
「ゆきのん、もうすぐ帰っちゃいそうだよ!早く、部室に!」
由比ヶ浜に背中を押され、俺は特別棟へと向かった。
奉仕部室。
扉を開けると、そこには、すでに雪ノ下雪乃がいた。 彼女は、窓際の席に座り、卒業証書をテーブルに置いている。俺に気づくと、冷たい、しかしどこか諦めたような瞳を向けた。
「……遅いわね、比企谷くん」
「……ああ」
部室には、俺と雪ノ下だけ。由比ヶ浜の気遣いで、二人の時間を作ってくれたのだろう。
雪ノ下は、重い沈黙の後、口を開いた。
「鶴見さんの件。あなたは、私たちに嘘をついた。そして、一人で、あの愚行に及んだ。私は、あなたのしたことの意味を、ずっと考えていたわ」
俺は、椅子に座ることもできず、ただ立ち尽くす。
「比企谷くん。あなたは、私が目指した『本物』の道のりから、逃げたのね。私が求める対等な関係、言葉を尽くして、共に間違いを正すという、あの約束を、あなたは破った」
その言葉は、責めているというより、事実を淡々と述べているようだった。
「……そうだ。俺は、お前を、裏切った」
俺が、そう認めた瞬間。雪ノ下の瞳の奥に、わずかな動揺が走ったように見えた。
「裏切り……。あなたは、そう言うのね」
雪ノ下は、一度目を伏せ、それからゆっくりと立ち上がった。
「比企谷くん。私が求めたものは、あなたが、私を守るために、自分を犠牲にすることではない。私の正しさが、あなたを追い詰めたのだとしたら、それは、私にも責任があるわ」
「雪ノ下……」
「……私は、あなたの自己犠牲を、許容することはできない。だから、私は、あなたに変わってほしいと、求め続けた。でも、それが、あなたにとって、重荷だったことも、理解できるわ」
彼女は、テーブルを挟んで、俺の前に立った。その顔は、冷徹な仮面を被っているようだったが、微かに震える唇が、彼女の感情を物語っていた。
「私たちは、もう、卒業よ。この場所で、お互いを必要とし合った日々は、もう終わる。……私たちの関係を、どうするつもり、比企谷くん」
それは、俺への結論ではなく、選択を問うものだった。 俺が、この場で、全てを告白し、関係を終わらせるか。 それとも、この嘘を抱えたまま、交際を続けるか。
俺の脳裏に、鶴見留美の顔が浮かんだ。俺の歪みを「優しい」と肯定し、背徳的な安堵を与えてくれる少女。雪ノ下との関係を清算すれば、俺は、留美との関係に、その身を沈めることができる。
だが、同時に。 俺の目の前には、俺の人生を、一番深く照らしてくれた、雪ノ下雪乃がいる。 彼女を失うことは、俺の青春のすべてを否定することに等しい。
俺は、この場所から逃げることを選んだ。
「……続けたい、と思ってる」
俺は、雪ノ下の瞳から目を逸らさずに言った。
「俺のやり方は、間違っていた。お前の優しさから逃げた。……だが、俺の心は、お前との『本物』を、諦めきれていない。これから、俺は、俺自身が変わる努力をする。……だから、猶予をくれないか」
雪ノ下の目が、大きく見開かれた。彼女は、俺の言葉が嘘か真実か、見極めようと、俺の腐った目をじっと見つめた。
「……あなたが、変わる、努力を?」
「ああ。お前の求める『本物』を、俺が理解し、対等に隣に立てるように。時間を、くれないか」
嘘だ。 俺は、時間稼ぎを選んだ。
雪ノ下は、数秒の沈黙の後、大きく息を吐いた。その吐息は、諦めにも、安堵にも聞こえた。
「……わかったわ。比企谷くん」
彼女は、静かに頷いた。
「私たちは、交際を続ける。大学が始まれば、物理的な距離もできる。その距離が、あなたにとっての猶予となるのでしょう。……ただし」
雪ノ下の瞳に、強い意志の光が宿った。
「もし、その期間に、あなたが、私との関係を欺き、この問題をうやむやにしようと企んだり、また自己犠牲に逃げたりしたなら。……その時は、私の方から、明確に、関係を終わらせるわ。私にとっての『本物』を、汚すことは許さない」
「……わかってる」
俺は、雪ノ下の「正しさ」という名の鎖に、再び繋がれた。
彼女は、一歩、後ろに下がった。そして、俺たち二人の、高校生活の終わりを告げるように、深々と頭を下げた。
「卒業、おめでとう。比企谷くん。……また、連絡するわ」
雪ノ下は、俺に、それ以上、個人的な接触を求めることなく、部室を出て行った。
俺は、一人残された部室で、スマホを取り出した。 鶴見留美からのメッセージ。
『八幡、今、どこ? 待ち合わせのカフェにいるよ。早く来てね。私だけが、八幡のこと、待ってるよ』
俺は、雪ノ下との交際関係を、表面上は維持したまま。 鶴見留美という、「間違い」への安堵を求めて。
俺は、スマホをポケットにしまい、雪ノ下との帰り道とは、全く違う、駅前のカフェへと、歩き出した。