特別棟を出た俺は、雪ノ下との交際を維持するという、新たな、そして最も重い嘘を背負っていた。自分の良心に唾を吐きかけるような選択だったが、雪ノ下を失うことの恐怖と、俺の歪みを否定されることへの抵抗感が、俺にこの道を選ばせた。
足早に駅前のカフェに向かう途中、スマホを握る手に汗が滲む。
(雪ノ下との関係を、どうやって、繕っていく……? 離れていれば、何とかなる、と。俺は、そう逃げたのか)
俺の心は、雪ノ下の言う通り、既に「安堵」を求めていた。そして、その安堵は、もう目の前にいる。
カラン、とカフェのドアベルが鳴った。
窓際の席。制服姿の鶴見留美が、俺に気づいて、嬉しそうに立ち上がった。
「八幡!」
彼女は、周りの目を気にする素振りもなく、俺の元へ歩み寄ってきた。
「ごめん、待たせた」
「ううん。全然。八幡が来てくれるなら、いくらでも待てるよ」
その言葉は、俺の罪悪感を麻痺させる、甘い毒だ。
席に着くと、彼女はすぐに、俺の手の甲に、自分の冷たい指先を重ねてきた。
「雪ノ下さんと、ちゃんと話せた?」
留美の視線は、俺の顔ではなく、重ねた指先に注がれている。その声は、心配を装っているが、どこか確認を求める響きがあった。
「……ああ。話した」
「そっか……。で?」
彼女は顔を上げ、期待と不安をないまぜにしたような、複雑な目を俺に向けた。
俺は、一瞬、ためらった。雪ノ下とは「別れた」と伝えるべきか。いや、それは雪ノ下を裏切るだけでなく、留美に対する新たな嘘になる。
「……交際は、続けることになった」
留美の手が、ピクリと震えた。一瞬、彼女の瞳から、それまでの甘さが消え失せ、強い怒りのような感情が湧き上がったのを感じた。
「……続ける、って。どういうこと?」
「そのままの意味だ。卒業したからって、すぐ別れるような、そんな薄っぺらい関係じゃない」
「でも、八幡は、私のために、自分を犠牲にしたんでしょ? 雪ノ下さんは、それを許さなかった。……それが、全部、なかったことになるの?」
彼女の口調は、感情的になっていた。俺が、彼女との共犯関係を、雪ノ下との「正しさ」を維持するための道具にしたのではないか、という疑念が、彼女の中で渦巻いているのが分かった。
(そうだ。俺は、雪ノ下を失うことも、お前を失うことも、両方恐れているんだ。この、最低な状況を、両立させようとしている)
俺は、コーヒーを一口啜り、落ち着きを装った。
「落ち着け、留美。……これは、俺たちの問題だ。雪ノ下との関係は、俺が、時間をかけて、ちゃんと精算するつもりだ」
「精算って、いつ? 大学に行って、離れ離れになって、フェードアウトするつもり? そうしたら、私が、八幡の逃げ場所になるの?」
留美は、俺の顔を、真剣に見つめた。彼女は、俺の歪みを愛すると同時に、その歪みが生み出す曖昧さを、ひどく嫌悪している。
「私は、八幡のそういう、中途半端なところが、嫌だよ」
「……」
「だって、私の前では、私のことを特別だって言って、雪ノ下さんの前では、彼女の求める正しい比企谷八幡を演じるんでしょ? 八幡は、どっちが、本物なの?」
彼女の質問は、雪ノ下との関係で、俺が最も問い続けた問いと、同じものだった。
俺の「本物」は、どこにある?
「……俺の、本質的な部分は、お前が受け入れた部分だ。雪ノ下との関係は、俺にとっての責任だ。それを、すぐに放り出すわけにはいかない」
俺は、留美の重ねられた手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「だから、もう少し、待ってくれないか。……お前が、俺の、本当の場所になるまで」
その言葉は、留美への甘い約束であり、雪ノ下への裏切りを肯定するものだった。
留美は、俺の目を見つめたまま、一瞬、呼吸を止めた。そして、その表情から、怒りが消え、勝利を確信したような、甘美な笑みが浮かんだ。
「……わかった。八幡が、そう言ってくれるなら、待つよ」
彼女は、俺の指を、強く握り返した。
やっと「安堵」を得られた心は、危険地帯へ足を踏み入れていることを忘却した。
しかし、得てしてハンターとは、獲物が油断したものである。
「でも、一つだけ。……私、八幡が責任を負わなきゃいけない特別な存在になるから。そしたら、もう逃げられないよ」
それは、俺の間違った青春への、奇襲攻撃だった。