青春とは嘘であり、悪である。(連載)   作:10気筒VTEC

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王子様

「……早く、私のことも、八幡の『本物』にしてよ」

 

留美のその言葉は、穏やかなカフェに、場違いなほど重く、湿り気を帯びて響いた。 彼女の細い指が、俺の腕を強く引き寄せる。制服のブラウス越しに伝わる体温は、昨日の雪ノ下のそれよりもずっと高く、俺の理性をじわじわと侵食していく。

 

「本物、か……。あいにく、俺が持っているそれは、もうボロボロで修復不可能だぞ」

 

俺は自嘲気味に笑い、飲みかけのブラックコーヒーを啜った。苦みが喉を焼く。雪ノ下との時間は、常に自分を律し、高め、磨き上げ続ける修行のようなものだ。彼女の隣に立つためには、「正しく」なければならない。だが、留美の隣では、俺はただの比企谷八幡として、欠陥だらけの生き物でいられる。

 

「いいよ、ボロボロで。……私が、その破片を全部拾い集めて、私だけの形に作り直してあげる。雪ノ下さんが望む『比企谷八幡』じゃなくて、私が愛している『醜くて、嘘つきで、優しい八幡』に」

 

留美はそう言うと、テーブルの下で、俺の膝の上に自分の手をそっと重ねた。 ただそれだけの、恋人同士のありふれた仕草。しかし、彼女の指先は震えており、その震えが俺のズボンの生地を通して、ダイレクトに罪悪感を揺さぶってくる。

 

「……お前、本当に俺のことが好きなんだな。いや、執着してる」

 

「そうだよ。千葉村のあの夜から、私の世界には八幡しかいないもん。……ねえ、八幡。大学、楽しい?」

 

唐突な問いに、俺は視線を窓の外へ向けた。

 

「楽しいわけないだろ。周りはキラキラした連中ばかりで、俺は相変わらず壁際で死んだ魚の目をしているだけだ」

 

「ふふ、安心した。八幡がもし大学で新しい居場所なんて見つけたら、私、その大学ごと燃やしちゃいそうだったから」

 

冗談に聞こえないのが、今の留美の恐ろしいところだ。彼女は、俺が「更生しないこと」を望んでいる。俺が孤独で、歪んでいて、誰からも理解されない存在であることを、彼女だけが肯定し、その孤独を独占しようとしている。

 

「……場所を変えるか。ここは、少し明るすぎる」

 

俺が立ち上がると、留美は満足げに微笑み、俺の後に続いた。

向かったのは、駅から少し離れた、人通りの少ない高架下の遊歩道だ。春の陽光が届かないその場所は、湿った土とコンクリートの匂いが立ち込め、俺たちの関係にはお似合いの日陰だった。

 

留美は俺の背中に回ると、迷いなく抱きついてきた。

 

「……八幡、雪ノ下さんの匂いがする」

 

彼女の声が、微かに震える。

 

「……昨日、会ったからな。飯を食った」

 

「……嫌だ。上書きしていい? 八幡の全部を、私の匂いで、私の記憶で、いっぱいにしてもいい?」

 

留美は俺のコートの中に手を滑り込ませ、俺の腰を強く、折れんばかりの力で抱きしめた。 彼女の額が俺の背中に押し当てられ、その熱量が伝わってくる。かつての雪ノ下の抱擁が「癒やし」なら、留美のそれは「束縛」だった。

 

「……留美、苦しいぞ」

 

「苦しければいいよ。……雪ノ下さんを裏切って、私を選んでいる痛み、ちゃんと感じてて」

 

留美は俺の正面に回り込み、俺の首筋に顔を埋めた。唇は重ねない。だが、彼女はわざとマフラーをずらし、俺の肌に鼻先を擦りつける。クン、と深く息を吸い込む音。まるで俺の体内に残る雪ノ下の残滓を、自分自身の存在で追い出そうとしているかのようだった。

 

「八幡、私不安だったの。…私は痛みを与えられない。あなたに私の存在を残せないんじゃないかって」

 

留美の手が、俺のシャツの襟元を掴み、そのまま自分の顔を寄せる。 彼女の瞳には、かつて千葉村で孤立していた少女の面影はなく、自分を救い、そして自分を「女」へと変えた人間を、共犯という名の鎖で繋ぎ止めておこうとする、一人の女性の情念が宿っていた。

 

「だから、こうして、私の印を刻み込ませて。……雪ノ下さんに触れられるのが、どこか申し訳ないって思っちゃうくらいに」

 

留美は俺の耳朶を、熱い吐息とともに甘噛みした。彼女の長い髪が俺の頬を撫で、彼女の小さな鼓動が俺の胸板にダイレクトに響く。その向こう側にある彼女の熱が、俺の脊髄を直接叩き、脳内を濁していく。

 

「っ……、う、く……!」

 

俺は天を仰ぎ、背後のコンクリート壁に後頭部を打ち付けた。 雪ノ下の凛とした後ろ姿が、一瞬だけ脳裏をよぎる。彼女への罪悪感。それは、今の俺にとって悦楽を増幅させるためのスリルでしかなかった。

 

留美は、俺が微かに震えるのを感じると、狂おしいほどの悦びを瞳に宿し、さらに深く、深く俺を抱きしめた。

 

「……あはっ、八幡。……私のこと、考えてるんだね。雪ノ下さんといる時も、私のこと、思い出してた?」

 

「……思い出さないわけ、ないだろ……。お前が、こんな風に、俺を……」

 

「いいよ、それでいい。……八幡の『本物』は、私とのこの汚い時間だけでいい。他の全部、捨てちゃえばいいんだよ」

 

留美は俺の肩に深く顔を埋め、勝利を確信したような深い溜息をついた。 その瞬間、俺の中の何かが、決定的な音を立てて決壊した。 熱い感覚が、内側から溢れ出し、俺の心を塗りつぶしていく。それは、俺が守ろうとした「比企谷八幡」という個の最後の一片が、留美という名の深淵に飲み込まていく。

 

長い沈黙。 雨の混じった風が吹き抜け、俺の熱を奪っていく。 留美は俺の胸元に顔を預けたまま、満足げに喉を鳴らした。

 

「……ふふ。……これで、今日も私と八幡は、お揃いだね」

 

彼女は顔を上げ、俺の頬をそっとなぞった。その瞳は、もはや少女のそれではなく、獲物を完全に支配した捕食者の輝きを帯びていた。

 

「ねえ、八幡。明日も、会ってくれる?」

 

「……ああ。……大学の、帰りにな」

 

「約束だよ。……もし破ったら、私、雪ノ下さんのところに行って、今の八幡がどんな顔をしていたか、全部教えてあげちゃうから」

 

留美はいたずらっぽく微笑み、俺のコートのボタンを丁寧に留め直した。 汚れを隠し、また「比企谷八幡」のフリをして、雪ノ下の元へ帰るための準備。

 

俺は、彼女に手を引かれるまま、暗い高架下から夕暮れの街へと歩き出した。 雪ノ下の待つ「光」の世界へ戻るために、俺はこれから何度も、この少女の「闇」を吸い続けるだろう。

 

「……さあ、帰ろう。八幡。……私の、大好きな、最低の王子様」

 

留美の笑い声が、冷たくなり始めた春の夜風に溶けていった。

 

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