大学生活が始まって数ヶ月。ゴールデンウィークを過ぎた頃、俺と雪ノ下雪乃の関係は、皮肉なことに安定していた。
俺は、雪ノ下に求められた通り、「変わる努力」を表面上は行った。サークル活動を始め、形式的ではあるが、友人と呼べる人間との交流を増やした。そのすべてを、LINEや、月に二度の夕食で、雪ノ下に報告した。
そして、雪ノ下も変わった。
「比企谷くんが、孤独な道を選ばないのなら、私も、あなたを責める言葉を選ぶ必要はないわ」
ある日、電話でそう言った彼女の声は、以前のような冷たい断罪のトーンではなかった。どこか、疲弊し、しかし安堵しているような響きがあった。
「私が、あなたの『正しい』関係の模範であろうとしすぎたのかもしれない。あなたが、私との関係を息苦しいと感じたのなら、それは、私にも要因がある。……これからは、もう少し、言葉を尽くさない、余白のある関係を、模索しましょう」
雪ノ下の性格は、たしかに軟化した。彼女は「正しさ」を突き詰めるのではなく、「関係の維持」を優先するという、彼女自身にとって、大きな譲歩をしたのだ。それは、俺との関係を失いたくないという、強い執着の裏返しでもあった。
(雪ノ下は、俺の嘘を、受け入れてしまった)
俺が変わる努力をすると言った時点で、彼女は既に、俺の誠意を信じることを選んだのだ。それが、俺を縛り付ける、最も強固な鎖となった。
俺たちの交際は、表向きは修復され、安定した。雪ノ下とは次第に円滑に接することができるようになり、由比ヶ浜は、その様子を見て心底安堵し、また俺たちの間で、楽しげに振舞うようになった。
だが、俺の精神は、この安定によって、逆に摩耗していった。
雪ノ下との時間は、俺にとって、完璧な嘘を演じ続ける舞台となった。彼女が求める「変わろうとする八幡」を演じ、細部にわたるまで、留美との密会や、俺自身の真意を隠し通す。彼女の信頼を得るたびに、俺の心は、深く暗い罪悪感に沈んでいった。
罪悪感を打ち消す場所が、鶴見留美との密会だった。
留美は、八幡の二重生活を知った上で、一切の不満や要求を口にしなくなった。
「雪ノ下さんと会ってきたの? ……ふふ、大変だったね」
駅前のカフェや、人通りの少ない大学のキャンパスで会うとき、彼女はいつも、俺の疲弊を労わった。
「留美は、本当に、それでいいのか」
ある日、高校生になったばかりの留美が、俺の隣で居眠りをしているのを見て、思わず尋ねた。彼女は、俺の隣にいるだけで満足そうにしている。
「いいよ、これで」
俺の肩に寄りかかったまま、留美は目を覚まさずに答えた。
「八幡は、嘘をつくとき、必ずため息を一つだけつくよね。雪ノ下さんの前で、すごく頑張ってるんだな、ってわかるもん」
「……お前、気づいてたのか」
「うん。でも、言わないよ。だって、八幡が私との時間を大切にしてくれるなら、それでいいもん。……雪ノ下さんに見せる八幡も、私に見せる八幡も、全部、八幡なんだから」
彼女は、俺の背徳も、嘘も、すべて「八幡の一部」として、無条件に肯定した。
俺はいっそ責めを求めるべき、と感じるくらいに。
「それに。八幡が、私のところに来るってことは、雪ノ下さんの『正しさ』じゃ、八幡の心は満たされないってことなんでしょ?」
留美は、そう言って、俺の空虚な心に、甘い毒を注入した。それが本心。それこそが彼女の唯一にして最も優先すべき行動原理。彼女の存在は、俺にとっての酸素になっていた。雪ノ下という名の重圧から逃れるための、唯一の呼吸。
留美が俺の関係の進展を迫ることはない。なぜなら、彼女にとって、俺のこの重圧からの逃避こそが、俺が彼女を必要としている、何よりの証明だったからだ。彼女は、雪ノ下との関係が続く限り、自分が八幡の「本物の逃げ場所」であるという、歪んだ優位性に安堵していた。