二重生活は、俺の精神を確実に削っていった。
雪ノ下との時間では、完璧な演技をしなければならない。 留美との時間では、その罪悪感と、俺の歪んだ本質を肯定される甘さに溺れなければならない。 どちらの関係も、俺の本当の自己を許容していなかった。
やがて、その歪みは、現実の生活に影響を及ぼし始めた。
大学の講義中、突然、俺は猛烈な吐き気に襲われるようになった。 夜は、どちらの彼女に送るべきか分からないメッセージをスマホのメモ帳に書き込み、そのまま朝を迎えることが増えた。 目覚めても、疲労は取れない。体は重く、常に頭痛がした。
(このままじゃ、ダメだ。どちらかを、選ばばければ。選ばなければ、俺は、また、最悪の形で、すべてを壊すことになる)
だが、どちらを選ぶこともできない。 雪ノ下を選べば、俺は俺の歪みを否定し、永遠に「変わる努力」を強いられる。 留美を選べば、俺は雪ノ下との「本物」を、自分の手で砕いた、裏切り者になる。
ある日。俺は、雪ノ下との電話中に、突然、意識が遠のくのを感じた。
「比企谷くん? どうしたの、急に黙って……。体調でも悪いの?」
雪ノ下の、わずかに心配そうな声が、遠く聞こえる。
「……いや。なんでもない。ちょっと、疲れた、だけだ」
俺は、そう答えたが、声が震えているのが自分でもわかった。
その数日後、留美と会っている時だった。
「八幡、どうしたの? ぼーっとして。眠い?」
留美が、俺の顔を覗き込む。
俺は、突然、目の前の彼女が、雪ノ下に見えた。そして、その雪ノ下が、留美の手を握っている俺を、軽蔑の眼差しで見ているような気がした。
「……やめろ」
俺は、思わず、留美の手を強く振り払った。
留美は、驚きと戸惑いの目で、俺を見つめた。
「……八幡?」
「……俺は、最低だ。お前を、雪ノ下を、両方、裏切ってる」
俺は、頭を抱え、カフェの椅子の上で、蹲った。
「もう、無理だ。どっちに、何を言えばいいのか、わからない。俺は、……俺は、どうすれば、いいんだ」
留美は、席を立ち、周囲の視線も気にせず、俺の隣に座り、その背中を、優しく、しかし力強く、抱きしめた。
「八幡……。大丈夫だよ。八幡は、何も間違ってない。八幡でいいんだよ」
彼女の甘い声が、俺の耳元で響く。その声は、俺の精神を落ち着かせる。だが、同時に、依存という名の泥沼へ、俺を深く引きずり込んでいく。
「休もう。少し、休もうよ、八幡。……誰にも、雪ノ下さんにも、由比ヶ浜さんにも、私たち二人の秘密を、知られない場所で」
俺は、抵抗できなかった。その時、俺の理性は、完全に限界を迎えていた。 俺は、鶴見留美の、その甘い「肯定」の腕に、深く身を委ねた。
カフェで留美に抱きしめられ、一時的な安堵を得た俺は、何とかその場を取り繕った。「最近、寝不足で」という陳腐な言い訳を、留美は疑うことなく、ただ「無理しないでね」と受け入れた。
彼女の無条件の肯定は、その瞬間は俺を救う。だが、カフェを出て一人になった瞬間、自己嫌悪が津波のように押し寄せる。俺は、雪ノ下との「正しさ」に耐えられず、留美の「甘さ」に依存しているだけだ。
この日を境に、俺の精神的な不安定さは、隠しきれないものになっていった。
大学の講義中、ふとした瞬間に、雪ノ下が俺を軽蔑する目と、留美が俺を肯定する目がフラッシュバックする。どちらが現実で、どちらが俺の罪悪感が見せる幻覚なのか、区別がつかなくなる。
そして、その異変は、雪ノ下雪乃との関係にも、明確な影を落とし始めた。
その週の週末。俺は、雪ノ下と二週間ぶりに会っていた。都内の、静かな喫茶店。彼女は、俺が「変わる努力」をしていることの証として、俺が提出したレポートを読んでいた。
「……よく書けているわ。あなたの視点は、やはり捻くれているけれど、的を射ている」
そう言って、彼女は柔らかく微笑んだ。 高校時代には、決して見せなかったような、穏やかな笑み。俺の「努力」を、彼女は心から信じ、受け入れようとしてくれている。
その笑顔が、俺の胸をナイフのように抉った。
「……そうか」
俺は、コーヒーカップを持つ手が、微かに震えていることに気づかれないよう、必死だった。
「比企谷くん?」
雪ノ下は、俺の異変に気づいた。彼女の表情から、穏やかさが消え、鋭い観察眼が戻ってくる。
「……顔色が、優れないようだけれど。大学、そんなに忙しいの?」
「いや……。まあ、レポートとか、色々とな」
「そう。……比企谷くん」
彼女は、カップを置き、テーブルの上で手を組んだ。
「あなたは、私に『猶予』を求めた。そして、私は、あなたが『変わる努力』をすることを信じると決めた。……でも、今のあなたは、努力をしているというより、何かに追い詰められているように見えるわ」
「……気のせいだ」
「いいえ」
雪ノ下の声が、強くなった。だが、それは非難ではない。純粋な心配だった。
「もし、あなたが無理をしているのなら、話してほしい。私は、あなたの『正しさ』を監視するために、ここにいるのではないわ。あなたの、隣に立つために、いるのだから」
彼女の軟化した態度は、俺の嘘を暴くためではなく、俺を救うために差し伸べられた手だった。 だが、俺は、その手を取ることができない。 この手に触れれば、この手が、留美の温度も知っていることが、バレてしまう。
「……大丈夫だ。ちょっと、疲れてるだけだ」
俺は、それしか言えなかった。 雪ノ下は、それ以上、追及しなかった。だが、その瞳の奥には、拭いきれない懸念が、確かに宿っていた。
帰り道、駅のホームで別れる間際、雪ノ下は言った。
「比企谷くん。あなたが、私に何かを隠しているのなら……それは、いつか、必ず、あなた自身を壊すことになるわ。私は、それを、一番、恐れている」
俺は、何も答えられなかった。