青春とは嘘であり、悪である。(連載)   作:10気筒VTEC

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二重生活の刑
反転


破綻の翌日・病室

意識を取り戻した時、俺は見慣れない白い天井を見上げていた。消毒液の匂い。病院だ。カラオケボックスで倒れた後、由比ヶ浜たちが救急車を呼んだらしい。

 

診断は、極度のストレスによる過換気症候群。要するに、精神的なものだ。

 

「……ヒッキー!」

 

病室のドアが勢いよく開き、由比ヶ浜が泣きそうな顔で飛び込んできた。その後ろから、青ざめた顔の雪ノ下雪乃が、静かに入ってくる。

 

「よかった……! 目、覚ましたんだね!」

 

「……由比ヶ浜。……雪ノ下。悪い、心配、かけた」

 

声が、うまく出ない。

 

由比ヶ浜がベッドサイドに駆け寄ろうとした時、雪ノ下が、そっとその肩を制した。

 

「由比ヶ浜さん。……少し、私に時間をくれるかしら」

 

「え……。う、うん。わかった。私、飲み物買ってくるね!」

 

由比ヶ浜は、二人の間のただならぬ空気を感じ取り、気を利かせて病室を出て行った。

 

静寂が落ちる。 雪ノ下は、ベッドの横に置かれたパイプ椅子に、静かに腰掛けた。 俺は、彼女の「断罪」を待った。俺の嘘がバレたのか。いや、違う。彼女の目は、俺を責めてはいなかった。

 

「……ごめんなさい」

 

雪ノ下は、深く、深く、頭を下げた。

 

「……は? なんで、お前が謝るんだ」

 

「私よ」

 

彼女は、顔を上げた。その美しい瞳は、強い自責の念に濡れていた。

 

「私が、あなたを追い詰めた。……私が、あなたに『変わる努力』を強いたから。あなたが、私の求める『正しさ』に応えようとして、無理をしていたことに、気づけなかった。……本当に、ごめんなさい」

 

違う。そうじゃない。 俺が倒れたのは、お前のせいじゃない。お前と留美との間で、最低な二重生活を続けた、俺の弱さのせいだ。

 

だが、俺は、その真実を口にできない。

 

「……お前のせいじゃ、ない」

 

「いいえ、私のせいよ」

 

雪ノ下は、俺の言葉を遮った。彼女は、俺が倒れた原因を、「自分の過度な要求」だと、完全に思い込んでいた。

 

彼女は、震える手を伸ばし、ベッドのシーツ越しに、俺の手を握った。 その手は、冷たかったが、力強かった。

 

「比企谷くん。……もう、いいのよ」

 

「……え?」

 

「もう、無理に『変わる』必要はないわ。あなたが、あなたらしくいられることが、一番、大切だから」

 

雪ノ下は、俺の嘘を見抜いたのではなく、俺の嘘を、真実だと信じたまま、その嘘ごと、俺を受け入れようとしていた。

 

「私が、間違っていたわ。あなたの歪みを、正そうとすること自体が、私の傲慢だった。……これからは、私が、あなたの歪みに、あなたの弱さに、寄り添うから」

 

彼女は、そう言って、俺の手を握る力を強めた。

 

俺は、絶望した。 雪ノ下は、軟化し、俺に寄り添おうとしている。 だが、その優しさの土台となっているのは、「俺が、彼女のために無理をして倒れた」という、巨大な勘違いだ。

 

俺は、この期に及んでも、真実を言えなかった。 「いや、俺、他の女と二股かけてて、その罪悪感で倒れました」 などと、言えるはずがない。

 

俺は、雪ノ下のその「勘違い」に、乗るしかなかった。

 

「……わかった」

 

「比企谷くん……」

 

「これからは、もう、無理はしない。……だから、お前も、自分を責めるな」

 

俺は、人生で最悪の嘘をついた。 雪ノ下は、その言葉に、わずかに安堵したように、泣きそうな笑顔を見せた。

 

彼女の優しさが、俺の嘘を、より強固なものにした。 俺の精神は、回復するどころか、雪ノ下という名の「善意」によって、さらに深い闇へと追い詰められていく。

 

 

その頃。鶴見留美は、八幡が倒れたという事実を、由比ヶ浜のSNSの、鍵付きアカウントの投稿(『ヒッキーが倒れた。マジ焦った。ゆきのんも私も、これからはもっとヒッキーを支えなきゃ』)によって、間接的に知っていた。

 

(……八幡が、倒れた?)

 

留美の血の気が引いた。 すぐにLINEを送る。『八幡、大丈夫? 生きてる?』

 

既読は、つかない。

 

彼女は、病院に駆けつけることができない。 雪ノ下や由比ヶ浜のように、公に、彼の隣に立つ資格が、自分にはないことを、痛いほど理解していた。 自分は、八幡の「逃げ場所」。日陰の存在だ。

 

(私のせい……?)

 

留美は、自室のベッドの上で、膝を抱えた。 八幡は、最後に会った時、明らかに疲弊していた。

 

(私が、八幡の歪みを、肯定しすぎたから? 私が『そのままでいい』って言い続けたから、八幡は、雪ノ下さんの前で嘘をつき続けるしかなくなって、それで……)

 

留美の思考は、雪ノ下とは真逆に、しかし同じように、自責の念へと向かった。 雪ノ下は「正しさ」で八幡を追い詰めたと思い、留美は「甘さ」で八幡を追い詰めたと思った。

 

(でも……)

 

留美は、唇を噛んだ。

 

(でも、私には、それしかできない。私が『正しさ』を説いたら、八幡は、私のところになんて、来てくれない)

 

彼女の「肯定」は、八幡への愛であると同時に、八幡を自分に縛り付けるための、唯一の鎖だった。

 

(八幡が、苦しいのは、雪ノ下さんがいるからだ。雪ノ下さんが、八幡を『正しい道』に戻そうとするから、八幡は苦しむんだ)

 

留美は、関係の進展を迫ることはしない。 だが、彼女の心の中には、八幡を苦しめる原因に対する、静かで、冷たい敵意が芽生え始めていた。

 

(大丈夫だよ、八幡。……早く、元気になって。元気になったら、また、私のところで、休んでね。八幡の『本物』は、私だけが、わかってるから)

 

彼女は、八幡からの連絡を、ただひたすらに待ち続けることを選んだ。

 

更なる重圧

俺は、数日で退院した。 大学に戻ると、俺を取り巻く環境は、一変していた。

 

「ヒッキー! 無理すんなよ! このノート、取っといたから!」

 

「比企谷くん。この間のレポート、教授が褒めてたわよ。でも、次の課題は、私が手伝うわ」

 

由比ヶ浜と、雪ノ下。 二人は、俺が「無理をして倒れた」という共通認識のもと、完璧な連携で、俺を「保護」し始めた。

 

雪ノ下は、俺の体調を気遣い、電話やLINEの頻度を増やした。その内容は、以前のような緊張感はなく、ただ、ひたすらに優しい。

 

「比企谷くん。今日は、よく眠れそう?」

 

「何か、食べたいものはある? 今度、作って持っていくわ」

 

その優しさの一つ一つが、俺の首を絞める。 俺は、この優しさを受ける資格のない、裏切り者だ。 だが、今さら真実を告白すれば、精神的に立ち直ろうとしている(と彼女たちが思っている)俺は、彼女たちを二重に裏切ることになる。

 

(もう、戻れない)

 

俺は、雪ノ下と由比ヶ浜の「善意」という名の檻に、完全に閉じ込められた。

 

そして、その檻の中で、俺のスマホが、静かに振動する。 鶴見留美からだ。

 

『八幡、体調どう? 私、八幡に会いたくて、もう限界。今夜、少しだけ、電話できない? 声が聞きたい』

 

俺は、雪ノ下からの『今夜は早く休んでね』というメッセージと、留美からの『声が聞きたい』というメッセージが並んだ画面を、ただ、見つめることしかできなかった。

 

雪ノ下の優しさに応えるためには、留美を切り捨てなければならない。 留美の甘さに逃げるためには、雪ノ下の信頼を、決定的に踏みにじらなければならない。

 

俺の精神は、回復するどころか、二人の優しさと善意によって、より逃げ場のない、完璧な地獄へと、追い詰められていく。

 

「……はは」

 

乾いた笑いが、一人きりのアパートの部屋に響いた。

 

「どうすりゃ、いいんだよ……これ」

 

俺は、どちらのメッセージにも返信できないまま、ただ、スマホを握りしめた。

 

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