退院後の比企谷八幡は、肉体的には回復したが、精神的にはさらに不安定になっていた。大学への復帰は果たしたものの、常に周囲の視線に怯え、電話の振動一つに過剰に反応する。
雪ノ下雪乃は、その八幡に、かつてないほど寄り添っていた。
「比企谷くん。この間の講義のノートよ。休んでいた分、遅れを取り戻す手伝いをさせて」
彼女は、八幡のアパートを訪れ、手作りの栄養食を差し入れ、学習のサポートを買って出た。それは、高校時代に彼女が由比ヶ浜に頼んでいた「奉仕」の役割を、今度は自分が担っているかのようだった。
ある日の夕方。八幡のアパート。雪ノ下は、八幡が倒れた原因を自分の過度な要求だと信じ込んでいるため、以前の鋭利な「正しさ」を封印していた。
「比企谷くん。今日は、無理して勉強しなくてもいいわ。少し、散歩でもしない?」
雪ノ下は、窓の外の夕焼けを見つめながら、穏やかな声で言った。
「……別に、いい」
「そう。……わかったわ。無理はさせない。あなたがそう望むなら、静かに、隣にいるわ」
彼女は、八幡の横に静かに座り、そっと俺の肩に触れた。
「比企谷くん。私が、あなたに『変わってほしい』と求めたのは、あなたが、私にとって大切な存在だからよ。あなたが、自分を大切にしてくれないと、私が、悲しいわ」
その言葉は、純粋な愛と、優しさで満ちていた。 その優しさが、八幡の心を締め付ける。
(お前は、俺の嘘の上に、その優しさを乗せている。お前の優しさが、俺を、この嘘の檻に、閉じ込めているんだ)
八幡は、雪ノ下にその裏切りを告白して、この鎖を断ち切るべきだと頭では理解していた。しかし、献身的に寄り添う彼女を前に、真実を告げて、彼女の自己否定と悲嘆の顔を見ることに、耐えられなかった。
「……ありがとう」
八幡がそう絞り出すと、雪ノ下は、まるで幼い子供を慈しむように、優しく微笑んだ。
「いいのよ。私は、あなたが元気になってくれるなら、それでいいわ」
その笑顔は、八幡の心にとって、最も重い責任となった。彼の精神は、雪ノ下の愛情という名の重圧に、ゆっくりと押し潰されていく。
雪ノ下が八幡を献身的に支えている間、鶴見留美は、アパートの部屋で、八幡からの連絡を待っていた。
八幡が倒れた後、彼は留美からの連絡を、一切無視していた。雪ノ下からの善意の鎖が、留美への連絡という、唯一の逃げ道を、断ち切っていたからだ。
二週間後。留美は、限界を迎えた。
(雪ノ下さんのせいで、八幡は、私から離れようとしている)
彼女は、八幡が倒れたのは「雪ノ下の正しさから逃れられなかったから」だと解釈していたため、雪ノ下への敵意は増すばかりだった。
ある夜、留美は、八幡に電話ではなく、アパートの住所宛にメッセージを送った。
『八幡、明日の夕方、大学の最寄り駅の東口で待ってる。連絡、返さなくてもいいから。私に、ただ会いに来て。八幡の心の重荷を、全部、私に預けて』
それは、八幡の意志を問わない、無言の呼び出しだった。
翌日。雪ノ下との自習の約束が終わった直後。 八幡は、雪ノ下が帰ったことを確認し、アパートの部屋で、留美からのメッセージを呆然と見つめた。
(行くな。行ったら、お前は、雪ノ下を、完全に裏切ることになる)
理性が叫ぶ。だが、雪ノ下の優しさで満たされたこの部屋の空気、彼女の愛情という名の重圧から、俺は逃げたかった。
八幡は、雪ノ下に気づかれないよう、ひっそりとアパートを抜け出した。
東口のロータリー。制服姿の留美が、一人、俯いて立っていた。
「……留美」
俺が声をかけると、彼女は顔を上げ、涙ぐんだ目で俺に飛びついてきた。
「八幡……! 会いたかった……! ずっと、心配で……!」
留美は、俺の胸に顔を埋め、声を出さずに泣いた。
「雪ノ下さんに、無理やり会わされてたんでしょ? 大丈夫だよ。八幡は、私といるときは、何も演じなくていいから」
彼女は、俺の体調を回復させようとする雪ノ下の献身を、俺を再び「正しい八幡」に押し戻そうとする強制だと解釈していた。
「……留美。俺は……」
「わかってる。何も言わなくていいよ」
留美は、俺の唇に、そっと指を当てた。
「八幡が、私のところに来てくれた。それだけで、十分だよ」
彼女は、八幡の手を取り、人通りの少ない路地へと誘った。
「雪ノ下さんが、八幡を監視しようとするなら……私たちは、もっと、秘密の場所を作ればいいだけだもん」
彼女の瞳は、八幡を自分だけのものにしようとする、独占欲と、深い愛情に満ちていた。 八幡は、雪ノ下の献身と、留美の甘美な誘惑という、二つの極端な愛に引き裂かれ、もはやどちらの関係も、彼の精神を救うことはなかった。