話は、こうだった。 鶴見留美のいる生徒会は、現在、次期生徒会長選挙の真っ只中にある。 問題は、その立候補者二人(袖ヶ浦いすみと東金ちとせ)の対立が、単なる政策論争に留まっていないこと。 発端は、些細な三角関係だったらしい。生徒会内部の男子を巡って袖ヶ浦と東金が揉め、それが派閥争いに発展。男は早々にフェードアウトしたが、対立だけが残った。
そして、その対立は、最も現代的で、最も陰湿な舞台へと移行した。 SNSだ。
「学校裏サイト、なんてものじゃありません。もっとオープンな……匿名で使える質問箱とか、鍵もかけないSNSのアカウントで、お互いへの中傷合戦が始まってるんです」
留美が差し出した資料は、その「中傷合戦」のスクリーンショットだった。 『袖ヶ浦は男に振られた腹いせで立候補してる』 『東金こそ、内申点稼ぎしか頭にない』 『ていうか、どっちもブス』 稚拙だが、悪意に満ちた言葉の羅列。それが、生徒会長選挙という公のイベントと結びついて、拡散されている。
「最初は、その二人とその取り巻きだけだったんです。でも、面白がった一般生徒が加わって……もう、誰が誰を叩いているのか、収拾がつきません」
「……で、鶴見はどういう立場なんだ?」
俺が尋ねると、留美は唇を噛んだ。
「私は、中立でした。どちらにも与せず、SNSでの中傷はやめるように、と。……そしたら、今度は私がターゲットになりました」
資料の最後の一枚。 そこには、鶴見留美に対する言葉が並んでいた。 『鶴見副会長、正論ぶっててウザい』 『どうせ自分は卒業だから高みの見物かよ』 『こいつも昔イジメられてたんだって』
「…………」
俺は息を呑んだ。 過去の傷まで掘り起こされ、攻撃の対象とされている。 彼女は、かつての雪ノ下と同じように、そしてかつての鶴見自身の反省をもとに「正しさ」を振りかざした結果、再び孤立させられようとしていた。
「先生方は?」
雪ノ下が静かに問う。
「匿名ですし、生徒間の『ちょっとした悪口』くらいにしか……。選挙が終われば収まるだろう、と」
「そんなわけないだろ……」
一度火がついた悪意は、そう簡単には消えない。選挙が終われば、今度は「あいつが当選したのは不正だ」とか「落選したあいつのせいだ」とか、新たな火種が生まれるだけだ。
「私、どうしたらいいか、わからなくて……。また、あの時みたいに、私が我慢すれば、私が『慣れ』れば、丸く収まるのかなって……」
彼女のまっすぐだった瞳が、再び、あの夏の日の「澱み」に覆われかけていた。
「……そんなことはないわ」
雪ノ下が、きっぱりとした声でそれを遮った。
「あなたが我慢する必要はないし、間違っているのは、あなたではない。そのSNSでの中傷行為よ。これは、学校側がきちんと対応すべき問題だわ」
「で、でも……」
「まずは証拠を集め、生徒会として正式に教師に介入を要請しましょう。匿名アカウントの特定は難しいかもしれないけれど、これだけの騒ぎになれば、学校側も動かざるを得ないはずよ」
雪ノ下は、いつものように正しく、論理的な解決策を提示する。
「私も手伝いますよ、一応、現役生徒会長として。そういうのは教師をどう動かすかがキモですから」
一色も、珍しく打算抜きに乗っかっているように見えた。
「そうだね! 小町も手伝うよ! 頑張ろう、留美ちゃん!」
小町も拳を握る。
三対一。いや、当事者の留美も、その「正しさ」に安堵したような表情を浮かべている。 これでいいはずだ。 雪ノ下が、いろはが、小町が、正しい方法で、時間をかけて解決するだろう。 俺の出る幕はない。 俺のやり方は、もう、必要ない。であれば…
俺は席を立とうとした。
「……比企谷、さん」
呼び止めたのは、鶴見留美だった。 彼女は、雪ノ下たちではなく、まっすぐに俺を見ていた。
その目は、安堵などしていなかった。 それは、懇願だった。 『正しさ』では間に合わない、と。 『きれいごと』では救われない、と。
彼女は、わかっているのだ。 雪ノ下たちのやり方では、時間がかかりすぎる。そして、仮に教師が介入して表面的な解決を見たとしても、SNSの裏で燻る悪意や、一度貼られた「正論ウザい」というレッテルは消えないことを。 根本にある、人間関係の歪みは、取り除けないことを。
俺は、大きく、長く、息を吐いた。 そして、いつものように、自嘲気味に呟いた。
「……ま、お前らがやる『正攻法』と並行して、俺は俺で『裏口』を探してみるわ。保険みたいなもんだ」
「…比企谷くん?」
雪ノ下が、訝しげに俺を見る。まるで見透かされているようだ。
「いや、ほら、SNSって言っても、どうせ発信源は限られてるだろ。そういうのを特定する『専門家』を知ってるから、そっちに話通しとくだけだ」
「専門家……って、まさか材木座さん?」
「あいつは専門家じゃなくてただの厨二病だ。……違う。もっと、こう、プログラミングとかに強いやつだ」
俺の脳裏に浮かんでいたのは、あの無気力なゲーム部部長、平塚先生の甥だか何だかいう、あの男だった。あいつなら、匿名アカウントのIPアドレスくらい、何とかできるはずだ。…多分。
「……せんぱい。なんか、目が昔に戻ってません? 死んだマグロみたいな」
いろはがジト、とこちらを見る。
「気のせいだ。目が腐ってるのは生まれつきだ。 だいたいマグロなんて死ぬまで泳ぎ続けなきゃだろ。 そらそんな目にもなる」
一瞬の静寂が訪れ、今度は雪ノ下と視線が交錯する。
「…比企谷くん、でも、無茶は……」
雪ノ下が何か言いかけたが、制すように言う。
「わかってる。俺は、俺ができることをやるだけだ。……じゃ、ちょっと連絡取ってくる」
俺は部室を出た。 廊下の冷気が、火照った思考をわずかに冷やす。
嘘だ。 専門家(笑)に頼るつもりなど、毛頭ない。 あんなもの、特定したところでどうなる。吊し上げたところで、新たな火種になるだけだ。 俺がやろうとしていることは、もっと単純で、もっと悪質で、もっと「俺らしい」やり方だ。
鶴見留美は、俺に「期待」した。 あの夏、俺が見せた、「自己犠牲」という名の劇薬を。 そして俺は、愚かにもその期待に、応えようとしていた。
雪ノ下雪乃という、「本物」の関係性を手に入れたはずの俺が。 またしても、たった一人で、すべてを背負うという、愚かな選択を。
気分は、なぜか高揚していた。そうか、「比企谷八幡」が帰ってきたのか。