雪ノ下の献身的な支えが始まって一週間。俺の生活は、表面上は回復期にあった。だが、内実は腐り落ちていた。雪ノ下の優しさという重圧から逃れるため、俺は鶴見留美との秘密の逢瀬を再開していた。
雪ノ下がアパートから帰ったのを見計らい、あるいは大学の講義の僅かな空き時間を見つけて、俺は留美に会う。
「八幡、無理しないでね」
そう言って俺の健康を気遣う雪ノ下からのメッセージを受け取った直後に、
「八幡、会えて嬉しい」
そう言って俺の腕に絡む留美の体温を感じる。
この背徳的な二重生活は、俺の精神を、回復とは程遠い、別の形の緊張状態に晒し続けていた。雪ノ下への罪悪感は、留美の全肯定によって麻痺させられ、その麻痺が解けたときに、より強烈な自己嫌悪となって俺を襲う。その繰り返しだった。
そして、その微細な綻びを、見逃さない人間がいた。
由比ヶ浜結衣は、安堵していた。 八幡が倒れたと聞いた時は、心臓が止まるかと思った。だが、雪ノ下が「私が彼を支える」と決意し、八幡もそれを受け入れているように見えた。高校時代、あれほどこじらせていた二人が、ようやく素直に向き合えている。そう、信じていた。
(よかった。ヒッキーが倒れたのは大変だったけど、でも、これで、ゆきのんとヒッキー、本当に大丈夫になったかも)
だが、その安堵は、大学のキャンパスで八幡の姿を見かけるたびに、小さな違和感へと変わっていった。
(……なんか、ヒッキー、変)
確かに、雪ノ下の手料理のおかげか、顔色は少し戻っている。しかし、倒れる前とは違う種類の「焦り」が、彼の全身に張り付いていた。 講義が終わると、誰よりも早く教室を出ていく。 ラウンジで一人でいる時も、本を読むふりをしながら、数分おきにスマホの画面をチェックしている。
(ゆきのんと、連絡とってるのかな? ……でも、それにしては、なんか、盗み見るみたいな……)
由比ヶ浜の勘が、警鐘を鳴らしていた。これは無理をしている人間の顔ではない。これは、何か隠し事をしている人間の顔だ。
その日、俺は大学のラウンジの隅で、留美からの『今日の夜、電話できる?』というメッセージにどう返信するか、頭を悩ませていた。今夜は、雪ノ下が「勉強の進捗を見に行く」と宣言している。
(無理だ。どうやって断る。雪ノ下がいる、とは言えない。かと言って、無視すれば留美がまた不安になる)
思考が堂々巡りになった瞬間、明るい声が、俺の罪悪感を突き刺した。
「ヒッキー! やほ!」
「……由比ヶ浜」
顔を上げると、由比ヶ浜が、少し不安そうな、しかし努めて明るい笑顔で立っていた。
「どしたの、そんなとこで。また、ぼっち?」
「……ほっとけ」
「もー。……ねえ、ヒッキー。この後、ちょっと時間ある? お茶しない?」
「いや、俺は……」
断ろうとした俺の言葉を、由比ヶ浜は遮った。
「ダメ。ちょっとだけ。……私、ヒッキーに、話したいことあるから」
その声は、いつもの甘えた響きではなく、有無を言わせない、真剣なものだった。
キャンパス内のカフェ。向かい合って座ると、由比ヶ浜は、ストローをかき混ぜながら、なかなか本題を切り出さなかった。
「……で、話ってなんだ」
俺が痺れを切らして尋ねると、由比ヶ浜は、意を決したように顔を上げた。 その瞳は、まっすぐに俺を射抜いていた。
「ヒッキーさ。……なんか、隠してない?」
心臓が、冷たい手で掴まれたように跳ねた。
「……なんのことだ」
「わかんないけど! でも、絶対、何か隠してる! 倒れる前とも、違う。ゆきのんには『無理しないで』って言われてるのに、ヒッキー、なんか、ずっとソワソワして、焦ってる!」
由比ヶ浜の、天然ゆえの核心を突く言葉。 俺は、動揺を隠すために、冷めたコーヒーを口に含んだ。
「別に、焦ってねえよ。課題が、溜まってるだけだ」
「嘘!」
彼女の声が、強くなった。
「嘘だよ! ヒッキー、今、目が泳いだ! ……ねえ、ヒッキー。私、ゆきのんから全部聞いてるんだよ。ゆきのんが、ヒッキーのために、どれだけ頑張ってるか。ヒッキーが倒れた時、ゆきのん、自分がヒッキーを追い詰めたんだって、泣いてたんだよ!」
「……っ」
雪ノ下が、泣いていた。 その事実が、俺の罪悪感を、さらに抉る。
「それなのに、ヒッキーが、またゆきのんに隠し事して、無理してるなら……私、許せない! ヒッキーが、ゆきのんを裏切るなら、私が、ゆきのんのために、ヒッキーを怒る!」
由比ヶ浜は、涙目になっていた。彼女の「善意」は、俺たちの関係を守るために、今、俺を「敵」として糾弾しようとしていた。
(まずい。ここで、留美のことがバレたら、全てが終わる。雪ノ下は、俺を許さない。由比ヶ浜も、軽蔑するだろう。俺は、本当に、独りになる)
俺の頭は、高速で回転し、そして、最悪の答えを導き出した。 この場を切り抜けるための、彼女たちが、絶対に踏み込めない、聖域の嘘を。
俺は、わざと、深くため息をつき、苦悩に満ちた表情を作った。
「……由比ヶ浜。お前だから、言うけどな」
「え……?」
「……家の、問題だ」
「家?」
「……小町だよ」
その名前を出した瞬間、由比ヶ浜の表情が、怒りから同情へと変わった。
「小町ちゃんが、どうかしたの!?」
「……大学に入ってから、あいつ、少し、変わっちまってな。……いや、俺が、変わったせいかもしれん。……とにかく、最近、兄妹仲が、うまくいってない。昨日も、電話で、かなりキツく言い合いになって……」
嘘だ。小町とは、昨日も「今度の週末、うまいもん食わせろ」という、いつも通りのLINEをしたばかりだ。
「だから、スマホを気にしてたのか……。小町ちゃんから、連絡来るかもって……」
由比ヶ浜は、完全に、俺の嘘を信じ込んだ。 雪ノ下との関係。留美との関係。そのどちらよりも、俺と小町との関係は、彼女たちにとって、深く、アンタッチャブルなものだった。
「……なんで、そんな大事なこと、言ってくれないの! ゆきのんにも、言ってないんでしょ!」
「言えるかよ。あいつは、今、俺が倒れたことで、自分を責めてるんだ。これ以上、別の心配、かけさせたくねえだろ」
雪ノ下を気遣う、という、さらなる嘘の上塗り。
「……ヒッキー……」
由比ヶ浜は、泣きそうな顔で、俯いた。
「……そっか。……そっか、小町ちゃんのことだったんだ……。ごめん、ヒッキー。私、何も知らないで、ヒッキーのこと、疑って……」
「……いや、いい。悪かった、お前にも、心配かけた」
俺は、完璧に、この場を切り抜けた。 雪ノ下への嘘を守るために、由比ヶ浜に嘘をつき、その嘘の盾として、俺の最も大切な妹を使った。
由比ヶ浜は、「小町ちゃんのこと、私でよければ相談乗るから!」と、その善意をさらに燃やしながら、カフェを去っていった。
一人残された俺は、テーブルに突っ伏した。
(……最低だ)
自己嫌悪で、吐き気がする。 嘘が、嘘を呼んだ。雪ノ下の献身が、由比ヶ浜の善意が、俺を、嘘つきの中の嘘つきに、仕立て上げた。
もう、どこからが本当で、どこからが嘘なのか、自分でもわからない。 俺は、もはや、雪ノ下の優しさにも、由比ヶ浜の善意にも、向き合う資格がない。
俺のスマホが、静かに震えた。 ディスプレイには、『留美』の二文字。
『今日も会いたい。八幡の声が聞きたい』
俺は、その画面を、見つめた。 ……ああ、そうだ。 俺の「本当」は。 俺の、この、嘘まみれの、最低な本質を、それでも「いいよ」と受け入れてくれる、この場所(留美)にしかない。
俺は、ふらふらと立ち上がり、留美との待ち合わせ場所へ向かうため、カフェを出た。 精神の均衡は、もはや、限界だった。