由比ヶ浜結衣は、カフェで八幡と別れた直後、雪ノ下雪乃に電話をかけた。その声は、八幡の嘘をすっかり信じ込んだことによる安堵と、新たな心配とで、震えていた。
「ゆきのん……! ごめん、私、ヒッキーのこと疑ったりして……!」
「由比ヶ浜さん? 落ち着いて、どうしたの」
「ヒッキー、やっぱり悩んでたんだよ! でも、ゆきのんのせいじゃないの! ……小町ちゃんだって! 小町ちゃんと、うまくいってないんだって……!」
電話口で、雪ノ下は息を呑んだ。 比企谷くんと、小町さん。あの、誰よりも強く結びついていたはずの兄妹が。
「……そう。だから、彼は、あんなに……」
雪ノ下の中で、カチリと音がして、すべてのピースがはまった(と、彼女は思った)。 八幡が倒れたのは、自分のプレッシャーのせいではない。最も大切な家族との間に亀裂が入った、その深刻なストレスのせいだ。そして彼は、自分を責めている私に、その事実を隠した。
(……彼は、私を、まだ『他人』だと思っている)
雪ノ下は、自分が彼を支えると言いながら、その実、彼の聖域である「家族」の問題に、踏み込めていなかったことに気づいた。八幡が倒れたのは、自分が「変わる努力」を強いたからではなく、自分が、彼の本当の苦しみに気づけなかったからだ。
「ありがとう、由比ヶ浜さん。教えてくれて」
「う、うん! 私も、小町ちゃんのこと、心配だし……」
「ええ。……彼は、私たちが思うより、ずっと多くのものを一人で背負っている。由比ヶ浜さん、このことは、彼には内緒にしてちょうだい。彼が、自分から話してくれるまで、私たちは、気づかないふりをしましょう」
「うん、わかった!」
電話を切った後、雪ノ下は、静かに決意を固めた。
(彼が話すのを待つだけでは、また彼は独りで壊れてしまう。……私から、彼を支える『責任』を果たさなければ。そのためには、小町さんのことも……)
雪ノ下は、八幡の「嘘」という名のパンドラの箱に、善意の手をかけようとしていた。
その頃、鶴見留美は、八幡との逢瀬を重ねていた。 由比ヶ浜と別れた八幡は、逃げるようにして彼女の元へ来た。その表情は、以前にも増して疲弊し、暗い影を落としていた。
「八幡、大丈夫? また、何か言われたの?」
留美は、八幡の精神的疲弊の原因が、雪ノ下や由比ヶ浜からの「圧力」にあると、まだ信じていた。彼女は、八幡を優しく抱きしめ、その歪みを全肯定する。
「大丈夫だよ。八幡は、何も悪くない。雪ノ下さんたちが、八幡の優しさに、気づかないだけだよ」
その言葉が、八幡にとってどれほど甘美な麻薬であり、同時に、どれほど重い依存を生んでいるか、彼女はまだ気づいていなかった。
変化が訪れたのは、数日後のことだった。 留美は、八幡に会いたくて、連絡もなしに彼が通う大学のキャンパスを訪れていた。高校の制服姿は目立つため、物陰から八幡の姿を探していた時だった。
中庭のベンチで、八幡と由比ヶ浜が話しているのが見えた。 留美は、とっさに身を隠した。
(また、由比ヶ浜さん……。八幡を問い詰めてるんだ……)
だが、聞こえてきた会話は、彼女の予想とは全く異なるものだった。
「……だから、ヒッキー。無理しないでって! 小町ちゃんのこと、ゆきのんも、すっごい心配してるんだからね!」
(小町ちゃん……?)
「ゆきのんなんて、昨日、『比企谷くんを支えるには、まず、彼の大切なご家族のことを、私が理解しなくちゃいけない』とか言って、昔、小町ちゃんが好きだったっていってたもの、買いに行ってたんだよ!」
留美は、息を呑んだ。 雪ノ下雪乃が、八幡の妹のために? あの、冷たいと思っていた彼女が?
「ヒッキーが、ゆきのんに何も言わないから、ゆきのん、自分が責められてるみたいに感じて、でも、ヒッキーを信じようって……。あんなに優しいゆきのん、私、初めて見たかも……」
由比ヶ浜の声は、泣きそうだった。
留美の頭の中で、何かが崩れ落ちた。 雪ノ下さんは、八幡を追い詰めてなんかいなかった。 彼女は、八幡が倒れた原因を、自分のせいだと悩み、それでも八幡を支えようと、不器用な優しさで、必死に行動していた。
八幡が苦しんでいるのは、雪ノ下の「圧力」のせいじゃない。 八幡が苦しんでいるのは、その雪ノ下の「善意」と「信頼」を、裏切っているからだ。
そして、その裏切りの共犯者は、自分だ。
(私が……。私が、八幡の逃げ場所になることで、八幡を、嘘つきにさせてる……?)
八幡が自分のもとに逃げてくるのは、自分が彼を理解しているからではなく、自分が、彼の「嘘」を、無条件に肯定する、都合のいい存在だからだ。 八"幡は、私に依存することで、雪ノ下さんという『本物』から、逃げてるだけなんだ。
留美の胸を、八幡への強い好意と、それと同じくらい強い、自分自身への罪悪感が、同時に突き刺した。
(私が、八幡を、壊してる……?)
彼女は、八幡に声をかけることもできず、その場から逃げ出した。
善意の踏み込みと、嘘の破綻
その日の夜。俺のアパートに、雪ノ下が訪ねてきた。手には、可愛らしいパンダのラッピングが施された紙袋を持っていた。
「比企谷くん。体調は、どう?」
「……ああ。まあ、普通だ」
「そう。……これ、よかったら」
差し出された紙袋。中には、高そうな洋菓子と、そして、小さなキーホルダーが入っていた。
「……なんだよ、これ」
「由比ヶ浜さんから、小町さんが好きだと聞いて。……その、迷惑だったかしら。でも、あなたが倒れてから、小町さんも、きっと、心配していると思って」
雪ノ下の目が、俺をまっすぐに見つめる。その瞳は、優しさと、心配に満ちていた。
「あなたが、私に話してくれないのは、仕方ないわ。私は、まだ、あなたの家族ではないから。でも、比企谷くん。私は、あなたの『恋人』でしょう?」
彼女は、一歩、俺に近づいた。
「あなたが、小町さんのことで苦しんでいるのなら、私にも、その苦しみを、半分、背負わせてほしいの」
雪ノ下の、あまりにも真摯な、善意の言葉。 由比ヶ浜から、俺の嘘を聞き出し、俺を支えるために、彼女なりに考え、行動してくれた結果だった。
その善意が、俺の最後の理性を、粉砕した。
(やめろ。そんな目で、俺を見るな)
俺は、雪ノ下の差し出した紙袋を、受け取ることができなかった。
「……いらねえよ」
「え……?」
「そういうの、いらないって言ってるんだ」
俺は、自分でも驚くほど冷たく、低い声で言った。
「なんで……。私は、ただ、あなたの力に……」
「お前の、そういうところが、重いんだよ」
言ってしまった。 俺の口からこぼれたのは、嘘を守るための、最悪の「本音」だった。
「俺は、お前に、何も求めてねえ。家族の問題は、俺の問題だ。お前が、首を突っ込むな」
雪ノ下の顔から、血の気が引いた。彼女の瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれた。 俺の拒絶が、彼女の善意を、ナイフのように切り裂いた。
「……比企谷、くん……」
「わかったら、帰ってくれ。今日は、疲れてる」
俺は、彼女に背を向けた。 雪ノ下は、数秒間、立ち尽くしていた。紙袋が、彼女の手から滑り落ち、カサリ、と乾いた音を立てた。
彼女は、何も言わなかった。 ただ、静かにアパートのドアを開け、出て行った。
ドアが閉まった瞬間、俺は、その場に崩れ落ちた。
(……終わった)
俺は、雪ノ下の、あの、必死の優しさを、踏みにじった。 嘘を守るために。留美との関係を守るために。 違う。ただ、俺の、この、どうしようもない弱さを、隠すためだけに。
雪ノ下は、傷ついただろう。だが、彼女は、愚かではない。 今日の、俺の、この常軌を逸した拒絶。
由比ヶ浜から聞いた「小町との不仲」という情報と、俺の、この過剰な反応。 その二つが、彼女の中で、必ず、一つの疑念へと繋がる。
「比企谷くんは、本当に、小町さんのことで悩んでいるのか?」
俺の嘘は、もう、破綻寸前だった。