ある疑念が俺に冷や水を浴びせる。
「比企谷八幡」は歓迎されるのか? そうではない。
これまで、奉仕部での日々で学んだはずだ。自分を犠牲にするやり方では誰も救えない。
「本物」を求めるには安直ではいけない。
…そう、正しくあらねばならない。
雪ノ下雪乃は、比企谷八幡の道しるべであるのだから。
…そう、だよな?
「聞いてますー? せんぱーい」
一色の声で我に返える。どうやら、比企谷八幡は思考を止めていたらしい。
しかし、問題解決に俺の思考はもはや不要…
「ああ、それで、どうなったって?」
「学校の先生たちが対応して、SNSにおける取り締まりが始まったのよ。 誹謗中傷を行った場合には厳しい処罰が下るそうだし、実際に指導は始まったわ」
雪ノ下が引き継ぐ。学校を外部から動かし、実際に効果を上げたわけか。これで解決に向かうだろう。
「…」
視線を向けると、鶴見の顔が晴れていない。訴えるような眼差しはさらに強く、鋭くなっていた。その視線に答え、微かにうなずく。
結局、その場では奉仕部はそのまま鶴見を通して学校と連携していくこととなった。奉仕部と一色が連携し、バックアップするとして散会した。
「奉仕部のためには、彼女たちが主導していくべきだわ」
俺はうなずく。この問題は、もはやOB・OGである自分たちの手を離れた。
その目は問題の解決よりも、奉仕部の成長を主眼に据えている。
俺は、苛立ちと失望と共に高揚感に支配されて喉を動かす。
「俺は少し野暮用があるから、先に帰ってくれ」
「どうしたの? 今日は新しくできたカフェに行きたいと思っていたのだけれど」
雪ノ下の微かに甘えるような声に罪悪感を抱いた。
「…平塚先生に呼ばれてな、時間もかかるらしいし明日にでもどうだ」
「わかったわ、また夜に連絡してね」
そうして別れ、踵を返す。
奉仕部の部室から少し離れた空き教室に彼女はいた。
「よう」
声をかけると、視線が交差した。目に映ったのは驚愕とも安堵ともとれる曖昧な眼差し。
「久しぶり、です。 …比企谷…さん」
二人で言葉を交わして気づくのは、大人びていること。言葉遣いという表面的なものでなく、芯の通った精神的な成長。芯が通ってしまったが故の、トラウマの強烈な負担と疲弊。そして、何かへのためらいだ。
「それで、SNSのことなら俺にはわからないぞ。 なにせ繋がる相手がいないからな」
調子が出てきた。そうだ、これが彼なのだ。俺は「比企谷八幡」を否定できなかったのではなく、する気がなかったのか。雪ノ下雪乃と共にあっても、本質は変わらない。それに気づき、苦しみと熱に浮かされながら返答を待つ。
しかし、そんなことには気づかないように
「やっぱり、変わらないですね。 でも、だからこそあなたに頼りたいと、考えています」
計画は、数日を要した。 俺は雪ノ下たち奉仕部の面々には、「専門家(笑)が検証中」とだけ伝え、表面上は彼女たちの「正論ルート」に付き合いつつ、独りで水面下で準備を進めた。
準備といっても、たいしたことではない。 必要なのは、スマホ一台と、いくつかの捨てアカウント。そして、悪意を凝縮させるための「触媒」だけだ。
俺はまず、鶴見留美の中学校の生徒が使っているSNSに、複数の匿名アカウントで潜入した。 そして、袖ケ浦派と東金派、両方の「悪口」を、これ見よがしに収集し、拡散した。 それだけではない。 俺は、意図的に、第三の悪意を注入した。
『そもそも、袖ケ浦も東金、どっちもどっちだろ』 『こんな低レベルな選挙やってる学校、終わってる』 『ていうか、副会長(鶴見留美)が一番陰湿って噂』
火に油を注ぐどころではない。ガソリンを撒き散らし、ダイナマイトを放り込むような行為だ。 学校から強制的に蓋をされ、酸素を求めていた中傷合戦は、俺という「扇動者」の登場によって、爆発的に激化した。 もはや、袖ケ浦対東金、という構図ではない。 全生徒を巻き込んだ、匿名の泥沼だった。
当然、教師たちも保護者たちも、この異常事態に気づく。 『うちの子の学校は、なんて酷いんだ』 『ネットリテラシーはどうなっている』
そして、俺は最後の仕上げにかかった。 俺が「扇動」に使ったアカウントの一つに、意図的に「ヒント」を残したのだ。
『どうせ総武の奴らにはわかんねーよ』
「総武」。 この地域で「総武」といえば、俺たちの通う総武高校だ。 ご丁寧にも、俺のアカウントのプロフィール欄には、総武高校の制服の写真までアップしておいた。
これでいい。 問題は、「生徒会内の三角関係のもつれ」でも「SNSでの中傷合戦」でもなくなる。 問題は、『他校の悪質な高校生(=比企谷八幡)が、面白半分でよその中学の生徒会選挙を荒らし、中傷を扇動した』という、単純な「外部からの攻撃」という構図に切り替わる。
教師やPTAは、内部のゴタゴタを追及するよりも、このわかりやすい「外部の敵」を糾弾する方に動くだろう。 生徒たちもそうだ。内輪で揉めていたはずが、共通の敵の出現によって、奇妙な連帯感が生まれる。
「俺たちの学校を荒らしやがって」と。
そして、その「外部の敵」が、総武高校の生徒である、と。 鶴見留美に相談されていた、奉仕部の、比企谷八幡である、と。 そう特定されるのは、時間の問題だった。
俺は、俺自身の評判と、残りわずかな高校生活と引き換えに、この問題を解消する。 鶴見留美への攻撃は止むだろう。彼女は「被害者」の一人になるからだ。 袖ケ浦と東金の対立も、この大騒動の前ではうやむやになる。
ああ、完璧だ。 実に、俺らしい、最低で、最悪の、自己満足な解決策だ。
「……何を、しているの」