俺が、例の「総武」のヒントを投下した、その夜。 自宅の部屋で、やり遂げた疲労感に浸っていた俺の元に、雪ノ下雪乃から電話がかかってきた。 その声は、冬の空気よりも、なお冷え切っていた。
翌日、奉仕部室には、俺と雪ノ下だけがいた。 小町と一色には、雪ノ下から「二人で話があるから」と連絡が入れたらしい。 重苦しい沈黙。先にそれを破ったのは、雪ノ下だった。
「……説明してちょうだい、比企谷くん」
彼女は、自分のスマホの画面を俺に向けた。 そこには、昨日までとは比べ物にならないほど荒れ狂う、例のSNSのタイムラインが映し出されていた。 そして、ご丁寧に、「総武の奴」と特定され始めている、俺の捨てアカウントも。
「……見た、まんまだ」
視線を合わせることはできた。声を出すことも。しかし、半身がうまく動かない。
「なぜ…。わからないわ。…なぜ、こんなことをしたの」
雪ノ下はひどく動揺していて、そして憤怒している。そう、わかっていたことだ。予想できたことだ。覚悟していたことだ。しかし、積み上げてきたと思っていたものは、あまりにも脆かったことに気が付いていなかった。
「……それが、一番早くて、確実だと思ったからだ」
「早くて、確実?」
雪ノ下の声のトーンが、一段階、低くなる。
「あなたがやったことは、ただの放火よ。問題を解決するどころか、より大きく、より悪質にしているだけじゃない」
「火事には火事だ。中途半端な消化活動より、いっそ燃え尽きさせた方が早いこともある。……それに、これで火元は『内部』じゃなく『外部』になる。あいつらの対立は、これで終わる」 「その『外部』に、あなた自身がなるというの!?」
雪ノ下が、テーブルを強く叩いた。 珍しく、感情的な、強い所作だった。
「あなたは、また、そうやって……!」
彼女は、悔しそうに唇を噛み、涙ぐんでいるようにさえ見えた。
「また、そうやって自分を切り捨てる。自分が悪者になれば、自分が傷つけば、それでいいと思ってる! あなたは、何も変わっていない……!」
それが、彼女が最も言いたかったことだったのだろう。 自己犠牲への逆戻り。自らを勘定に入れず、むしろ非合理なまでに自らを貶める。「比企谷八幡」の必殺技。
「……変わる必要があったのか? 俺は俺だ。俺のやり方は、これしか知らない」
「あるわ! 変わる必要があったの!」
雪ノ下の叫びが、狭い部室に響く。
「私たちは、言葉を尽くすと、理解し合うと、そう決めたはずでしょう!」
そう、「本物」を望んだのは俺だ。雪ノ下雪乃の人生を歪めるという提案をしたのは俺だ。正しさを望んだのは、俺だ。
しかし、弁明できない。だから言及するのは相談がなかったこと。 俺が独断で、彼女に何も告げず、この愚行に及んだこと。
「……お前を、巻き込みたくなかった」
それは、本心だった。 この、汚くて、最低なやり方に、雪ノ下雪乃という、どこまでも正しく、清廉な存在を、巻き込むわけにはいかなかった。「比企谷八幡」の暴走に。
だが、その言葉こそが、最大の引き金だった。
「……巻き込みたく、なかった……?」
雪ノ下は、信じられないものを見るような目で、俺を見た。
「あなたは、まだ、そんなことを言うのね」
「……」
「あなたが傷つくやり方を選ぶということは、私を傷つける方法を選ぶということと、同じなのよ」
気づかされる。それが、俺たちの「本物」の関係性だったはずなのだ。 一方が負う痛みは、もう一方の痛みでもある。 俺は、それを、理解していなかった。いや、理解していて、あえて踏みにじった。
「あなたが、自分を犠牲にして、悪者になって、傷ついて、平気でいられると、私が、そう思っているの……?」
「……それは……」
「そうやって、私を『守った』つもりになって、私を『巻き込まなかった』つもりになって……。あなたは、私との関係までも犠牲にしたんだわ」
絶望したような、か細い声だった。 俺は、鶴見留美を救うために、雪ノ下雪乃を裏切った。 そういうことだった。
「……俺は、ただ……」
ただ、なんだ。何が言えるというのか。
「もう、いいわ」
雪ノ下は、静かに首を振った。
「あなたのやり方は、理解できない。……いいえ。理解したく、ない」
その言葉は、かつて俺が、文化祭の時に、彼女に突きつけた拒絶の言葉と、まったく同じ響きを持っていた。
立場が、逆転している。 俺が、彼女を拒絶し。 今、俺が、彼女に拒絶されている。
雪ノ下は、コートを羽織ると、俺に背を向けた。
「少し、頭を冷やすわ。……あなたも、自分のしたことの意味を、よく考えた方がいい」
バタン、と。 部室の扉が閉まる音は、やけに大きく響いた。
一人残された部室で、俺はパイプ椅子に深く沈み込んだ。 ……間違えた。 また、俺は、間違えた。 本物、だなんて、ちゃんちゃらおかしい。 俺は、結局、何も学んでいない。
誰かを救おうとして、一番大切な人間を、一番酷い形で傷つけた。
自嘲の笑いが漏れる。
「……は。最低だな、俺」
自己犠牲? 違う。これは、ただの自己満足であり、傲慢だ。 雪ノ下を理解したつもりになって、その実、何もわかっていなかった。
俺は、どれくらいそうしていただろうか。 特別棟は、すでに放課後の喧騒が嘘のように静まり返っている。 冬の日は短い。窓の外は、もう茜色に染まり始めていた。
重い体を起こし、自販機でマックスコーヒーでも買って帰るか、と。 そう思って、部室の扉に手をかけた、その時だった。
「……あの」