控えめな、声。 扉を開けると、そこには、鶴見留美が立っていた。 制服姿のまま。いつからそこにいたのか、彼女の指先は赤くなっていた。
「……鶴見」
相変わらず、体は重く、頭は回らない。心が、ここにはない。
「……ごめんなさい」
彼女は、そう言うなり、また、深々と頭を下げた。
「私、が……あんなこと、頼んだから……」
「……聞いてたのか」
「……はい。全部、じゃないですけど……雪ノ下、さんが、怒って出ていくところを……」
気まずい沈黙が落ちる。いまさら何を、これはお前が望んだことだ。やり方も、結果もわかっていたはずだ。葛藤も振り切り頼んだのだろうが。これは、俺の結果だ。
「……お前のせいじゃない。俺が勝手にやったことだ」
「でも……!」
「いいんだよ。これで、お前のところの問題は、一応、解決だろ。あとは、俺が総武の教師に絞られて、あっちの中学に謝罪して、終わりだ」
俺は、努めて軽く、自嘲的に笑ってみせた。 それが「比企谷八幡」のプライドだから。
「……安いもんだ。どうせ卒業する身だしな」
そう、代償なんてこんなものだ。犠牲など。「正しさ」など。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、そんなふうに、笑うんですか」
鶴見留美は、俯いていた顔を上げた。 その瞳は、怒っているようでもあり、泣きそうでもあり……そして、かつて俺が持っていたような、強い、強い光を宿していた。
「あなたは、何も、まちがってない」
「……は?」 何を、言っているんだ、こいつは。 間違えたから、雪ノ下は怒って出て行ったんだろうが。 俺のやり方は、あの人の正しさとは、相容れないものだったんだろうが。
「だって、あなたは、私を助けてくれた。あの時も、今も」
「……助けた、ね。やり方が最悪だったけどな」
「いいえ」
鶴見は、一歩、俺に近づいた。 潜んでいた自分が、救いを求める。
「あなたのやり方じゃなきゃ、ダメだったんです。……私、わかってたから。雪ノ下さんたちの『正しい』やり方じゃ、間に合わないって。私の心は、もう、折れちゃうって」
彼女の瞳が、まっすぐに俺を射抜く。 それはあの頃の、救いを求める弱々しい目ではない。 中学三年生、鶴見留美という一人の人間が、明確な意志を持って、俺を、「比企谷八幡」を選んだ目だった。
「あなたは、自分が傷つくことをわかってて、それでも、私を選んでくれた」
「……買い被りすぎだ。俺はただ、そうするのが一番手っ取り早いと思っただけだ」
そして、そうしたいと思ってしまった。かつての「比企谷八幡」を肯定したかったから。
「……ううん。あなたは、優しいから」
その言葉に、俺は息を呑んだ。 優しい? 俺が? その言葉は、俺にとって、最も遠い場所にある評価のはずだ。
「……比企谷さん」
鶴見は、震える手で、俺のコートの袖を掴んだ。 ちょうど、昨日、雪ノ下雪乃が掴んだ、同じ場所を。
「私は、ずっと……あなたのことが」
その先を、彼女は言わなかった。 だが、言わなくても、わかってしまった。
ああ、そうか。 こいつも、そうなのか。 こいつも、かつて俺と同じ、同類だったのか。
俺はかつて、誰かにそうしてもらいたかった。 自分の歪みを、欠落を、間違いを、それでも「いい」と、丸ごと肯定してくれる誰かを待っていた。おそらく、今も。
鶴見留美は、雪ノ下雪乃とは違う。 雪ノ下は、俺の歪みを「正そう」とする。俺と「対等」であろうとする。だから、俺の自己犠牲を許さない。それが、彼女の「本物」だ。 だが、鶴見留美は。 彼女は、俺の「自己犠牲」そのものを、肯定する。 俺の歪んだやり方を、美しいものとして、正解として受け入れようとしている。
雪ノ下との「正しさ」を維持する関係に、俺は、どこかで息苦しさを感じていたのかもしれない。 「本物」を維持するための、あの、薄氷を踏むような緊張感に、疲弊していたのかもしれない。
だから。 目の前にいる、この少女の、「比企谷八幡」を肯定してくれる、歪んだ好意が。 その瞳が。 とてつもなく、甘美なものに思えてしまった。
俺は、コートの袖を掴む彼女の冷たい手を、振り払うことができなかった。 雪ノ下を傷つけた、この手で。
「……風邪、引くぞ。とりあえず、中、入れ」 「……うん」
俺は、鶴見留美を、誰もいない奉仕部室に招き入れた。 雪ノ下の淹れた紅茶の香りが、まだ、微かに残っている部屋に。