俺の「炎上工作」は、案の定、総武高校とあちらの中学校、両方の知るところとなった。 俺は平塚先生に死ぬほど説教され、雪ノ下と、なぜか由比ヶ浜も同席した場で、先方の中学校に正式に謝罪した。
俺が「主犯」ということで、鶴見留美への追及は一切なく、生徒会の選挙も「外部の妨害による異常事態」として、一旦、白紙に戻されたらしい。 俺は、卒業まで自宅謹慎……とはならなかったが、奉仕部室への出入りは厳禁、という生温い処分が下った。
雪ノ下とは、あの謝罪の日以来、まともに話していない。 LINEは既読スルー。電話にも出ない。 教室で顔を合わせても、彼女は静かに目を伏せるだけだった。 俺たちの間にあったはずの「本物」は、ガラス細工のように、脆く、ひび割れていた。
卒業式が、数日後に迫った、冷たい雨の降る放課後。 俺は、昇降口で傘を開きながら、スマホを取り出した。 雪ノ下への、何度目かわからない『話がしたい』というメッセージは、やはり既読のまま、返信がない。
俺はため息をつき、別の相手にメッセージを送る。
『今から、行く』
すぐに、返信が来た。
『待ってます』
俺は、雪ノ下との帰り道とは逆方向へ、傘を傾けて歩き出した。
向かう先は、駅前のチェーンのカフェ。
カラン、とドアベルが鳴る。 店の奥の、窓際の席。 制服姿の少女が、俺に気づいて、小さく手を振った。 鶴見留美だ。
あの日、部室で二人きりになってから、俺たちは、こうして、密かに会うようになっていた。
「すまん、待ったか」
「ううん、私も今来たとこ」
彼女は、そう言って、はにかむように笑った。 雪ノ下とは違う、あどけなさと、年齢不相応な危うさをない交ぜにしたような笑顔。
俺は、運ばれてきたブラックコーヒーを一口啜る。 甘ったるいマックスコーヒーを選ぶ気には、到底なれなかった。
目の前の少女は、俺の歪みを映す鏡だ。 彼女は俺に、かつての俺自身と同じ、純粋で、歪んだ好意を向けてくる。 そして俺は、雪ノ下との「正しさ」に疲弊した、この心で、その好意を拒絶することができずにいる。
雪ノ下との関係は、間違っていたのだろうか。 いや、違う。 間違えたのは、俺だ。 わかっている。わかっているのに、俺は、この安易な「肯定」から、目を逸らすことができない。窓の外は、雨が強くなっていた。 卒業までの、残りわずかな時間。
俺は、雪ノ下との関係を清算できないまま。 彼女に裏切りに対する謝罪も、弁明も、できないまま。 こうして、自分を「肯定」してくれる少女との、危険な逢瀬を重ねている。
ふと、彼女がココアを啜りながら俺をじっと見ていることに気づいた。
「……なんだよ」
「ううん。……ねえ、」
彼女は、カップをソーサーに置くと、テーブルの上で手を組んだ。 そして、悪戯っぽく、しかし真剣な目で、俺にこう言った。
「二人きりの時は、敬語、やめてもいい?」
「……は?」
9
「それに、『比企谷さん』じゃなくて、『八幡』って呼びたい」
その言葉は、唐突だったが、計算された響きを持っていた。 俺の心臓が、雪ノ下とは違う種類の音を立てる。
「……好きにしろよ。前はそう呼んでたじゃねえか。」
気恥ずかしさを吐き捨てる。動揺を隠すように踏み込む。
「…つーか、俺も『鶴見』じゃなくて『留美』でいいか」
「うん、いいよ。……八幡」
初めて呼ばれた名前は、ひどく耳慣れず、同時に、何か禁忌に触れたような感覚を伴った。
「……なんだよ」
「ううん。呼んでみただけ」
留美は、そう言ってくすくす笑う。 その仕草は、もう、あの夏の日の小学生ではなかった。 ブレザーの胸元は、中学生として相応の膨らみを持っている。化粧こそ薄いが、整った顔立ちは、彼女が「女」であることを明確に主張していた。
「……私のこと、どう思う?」
「どう、とは」
踏み込んではいけない、その先は。
「雪ノ下さんと、私。……どっちが、八幡のこと、わかってると思う?」
核心を突く質問。 俺は言葉に詰まった。 雪ノ下は、俺を「正そう」とする。 留美は、俺を「肯定」する。 どちらが俺を「わかっている」か、など。
「……八幡は、優しいから」
俺が答える前に、留美が続けた。
「優しいから、自分を犠牲にする。でも、雪ノ下さんは、それが嫌なんだよね。……わかるよ。大事な人に傷ついてほしくないもん。……でもね、」
彼女は、テーブル越しに、そっと手を伸ばしてきた。 俺の、コーヒーカップを持つ手とは反対の、テーブルに置かれたままの手。 その冷たい指先が、俺の指先に、触れた。
ビクッと体が跳ねそうになるのを、なんとか抑える。
「……私だったら、八幡がそういう人だって、わかってるから。……それごと、受け止めるよ」
息が詰まる、心臓に、頭に、全身に血が巡る。自分の中で眠っていた。いや、眠らされていた何かが這い出てくる。
「……お前、まだ中学生だろ。わかったような口、きくな」
それを阻止する、最後の抵抗。
「中学生だから、ダメ?」
留美は、指を絡めてくることはせず、ただ、俺の手の甲を、彼女の指先で、そっと撫でた。
「私、もうすぐ卒業だよ。そしたら、八幡と同じ、高校生」
「……」
「……高校生になったら、私のこと、ちゃんと『女』として見てくれる?」
彼女の言葉が、脳を焼く。正常な思考をするシナプスが、焼き切られる。
俺には、雪ノ下雪乃という、交際相手がいる。 目の前にいるのは、年下の、まだ中学生の少女だ。 やっていることは、どう考えても、間違っている。そのはずだ。
だが。 雪ノ下に「拒絶」された、この歪んだやり方を。 目の前の少女は、「これこそがあなただ」と、その冷たい指先で、肯定している。 この接触は、俺にとって、モルヒネのようなものだった。
「……悪いこと、してるみたい」
留美が、わざとらしく、そう囁いた。
「……そうだな。悪いこと、だ」 俺は、彼女の手を振り払うことが、できなかった。