それから、卒業式までの数日間。 俺と雪ノ下の関係は、修復されないままだった。 教室での空気は、凍りついている。 由比ヶ浜が、何度も心配そうに俺たちを交互に見ていたが、彼女の優しさをもってしても、この深い亀裂はどうにもならなかった。
雪ノ下は、何を考えているのか。 彼女は、俺からの謝罪を待っているのか。 それとも、もう、俺との関係そのものに見切りをつけたのか。 俺には、それがわからなかった。 いや、わかるのが、怖かった。 彼女の「正しさ」と向き合うことが、怖かったのだ。
そして、俺は、留美との密会を続けた。 カフェだけではない。 人通りの少ない、海浜公園のベンチ。 市立図書館の、郷土資料室の隅。 俺たちは、共犯者のように、人目を忍んで会った。
留美は、会うたびに、大胆になっていった。 私服で現れた日は、中学生とは思えないほど、体のラインがわかるニットを着ていた。
「これ、高校生になったら着ようと思ってたんだけど。……八幡に、一番に見てほしくて」
そう言って、俺の隣にぴったりと身を寄せた。
「寒いね」
そう言って、俺のコートのポケットに、自分の手を滑り込ませてきたこともあった。 ポケットの中で、俺の手を握る。 そのぬくもりに、俺は、どうしようもない安堵を覚えてしまっていた。
「八幡は、卒業したら、どうするの?」
「……都内の大学だ」
「そっか。……遠く、行っちゃうんだ」
「……千葉から通う」
「よかった」
彼女は、心底、安堵したように息をついた。
「私、頑張って、八幡と同じ大学、目指そうかな」
「……馬鹿言え。お前、まだ高校生だろ」
「馬鹿じゃないよ。……私、本気だもん」
留美は、俺の肩に、こつん、と頭を乗せてきた。 甘い、シャンプーの匂いが、鼻腔をくすぐる。
「……雪ノ下さんとは、もう、話さないの?」
彼女は、時折、こうして雪ノ下の名前を出した。 それは、俺の罪悪感を刺激すると同時に、「私なら、あなたを傷つけない」という、無言のアピールでもあった。
「……あいつは、俺のやり方が、許せないんだよ」
「うん。……知ってる。あの人、すごく『正しい』人だもんね」
「……」
「でも、八幡は、『正しく』なんかないじゃん」
その言葉は、ナイフのように俺に突き刺さった。
「私と、同じ。……歪んでる。だから、わかるよ」
「……お前も、大概、性格悪いな」
「八幡に言われたくない」
そう言って、彼女は笑う。 この、共犯関係。 傷を舐め合うような、歪んだ肯定。 雪ノ下雪乃との、あの、息苦しいほどの「正しさ」と「本物」の探求とは、対極にある、安易で、背徳的な安らぎ。
俺は、もう、戻れないのかもしれない。 雪ノ下との、あの、冬の日の自販機の前のような、不器用だが、確かに温かかった、あの場所へは。
「ねえ、八幡」
留美が、俺の肩から顔を上げ、じっと俺の目を見つめてきた。 その距離は、危ういほどに、近い。
「卒業、おめでとう」
「……まだだろ」
「練習」
彼女は、そう言うと、ふっと、目を伏せ。 そして、ゆっくりと、顔を近づけてきた。
「……待て」
俺は、とっさに、彼女の肩を押さえた。
「……なんで?」
留美は、潤んだ瞳で、俺を見上げる。 その目は、拒絶されたことを、わずかに、非難していた。
「……お前は、まだ、中学生だ」
それが、俺の、最後の理性だった。 雪ノ下雪乃への、最低限の、裏切りにならないための、一線。
「……そっか」
留美は、あっさりと身を引いた。 だが、その口元には、勝利を確信したような、微かな笑みが浮かんでいた。
「……じゃあ、高校生になったら、いいんだね?」
「……」
俺は、答えられなかった。
卒業式は、明日だ。 雪ノ下雪乃と、最後に言葉を交わしてから、一週間以上が経っていた。 俺のスマホには、もう、雪ノ下からの着信も、メッセージも、何も、入ってこなくなっていた。
やはり、俺の青春ラブコメは、どこまでいっても、まちがっている。 俺は、俺自身の手で、手に入れたはずの「本物」を、粉々に砕き、そして、新たな「間違い」に、沈もうとしていた。