卒業式を、明日に控えた夜。 私の部屋は、しん、と静まり返っている。 机の上には、明日提出するだけの状態になったいくつかの書類と、もう使わなくなる参考書の束。そして、液晶画面が暗転したままのスマートフォン。
(……返信は、ない)
最後に彼――比企谷くんとメッセージを交わしたのは、いつだったか。 彼が、あの中学校へ謝罪に行った日。ううん、違う。それは一方的な業務連絡のようなものだった。 私たちが、私たちの言葉で話したのは、あの奉仕部室で、私が彼を詰問した、あの日が最後。
『あなたは、私との関係までも『犠牲』にしたんだわ』
そう言い放って、私は部室を出た。 怒りよりも、深い、失望に、全身が凍りついていた。 彼は、また、あの方法を選んだ。 私たちが、あれほどの時間をかけて、言葉を尽くして、ようやく手に入れたはずの「本物」を、彼は、いとも容易く、踏みにじった。
『お前を、巻き込みたくなかった』
その言葉が、今も、耳の奥で、私を苛む。 なぜ、わからないの。 あなたが一言、「相談がある」と言ってくれれば。 たとえ、あなたのやり方が間違っていたとしても、二人で、もっといい方法を、探せたはずなのに。 あなたが「巻き込まない」という選択をした時点で、あなたは私を「信頼していない」と、そう言っているのと同じだということに。
あなたが傷つくことを、私が平気で見ていられると、本気で思っていたの……? あなたが悪者になることで守られる世界に、私が、何の痛みも感じずに、いられると……?
スマートフォンを、手に取る。 トーク履歴を開く。 私から送った、『話がしたいわ』という、数日前のメッセージ。 その横には、無慈悲な『既読』の二文字が、ついているだけ。
彼は、謝ってこない。 あの謝罪の日、由比ヶ浜さんの前でさえ、彼は、あの中学校の教師には頭を下げても、私には、一言も、なかった。 ただ、あの、すべてを諦めたような、腐った目のまま、そこに立っているだけだった。
(……謝って、ほしいわけじゃない)
違う。違うわ。 謝罪の言葉が欲しいのではない。 あなたが、なぜ、またあの方法を選ばなければならなかったのか。 私に相談できなかった、その理由を。 あなたの弱さを、あなたの葛藤を、あなたの言葉で、聞きたかった。
なのに、あなたは、また、黙り込む。 そうやって、一人で、すべてを終わらせたつもりになる。
嫌な予感が、胸をよぎる。 彼が、私から、離れていく。 私たちが築いた「本物」は、彼にとって、息苦しいだけの、窮屈な檻だったのかもしれない。 私の「正しさ」は、彼の歪みを、ただ、矯正しようとするだけの、暴力だったのかもしれない。
だから、彼は、逃げるの?
(比企谷くん……)
明日、私たちは卒業する。 この制服を着て、あの校舎で顔を合わせる、最後の日。 私たちは、どんな顔をして、会えばいいというの。 私たちが、あれほど求めた「本物」は、こんなにも脆く、簡単に、壊れてしまうものだったの……?
スマートフォンの画面は、暗いまま、私の不安を映しているだけだった。
卒業式前日。俺は、雪ノ下との関係を修復できないまま、最後のホームルームを終えた。
由比ヶ浜は、今日一日、俺の隣から離れなかった。昇降口を出たところで、彼女は俺の手を掴む。
「ね、ヒッキー。明日、必ず、卒業式が終わったら、ゆきのんを捕まえてよ。……部室に。もし、ゆきのんが来なかったら、私が連れてくるから」
俺は、由比ヶ浜の優しさが痛かった。彼女は、俺たち二人が、まだ「本物」の関係を諦めていないと信じている。そして、その優しさを、俺は利用している。
「……わかった。明日、部室で待つ」
俺は、雪ノ下との関係を、ここで終わりにすることはできなかった。それは、俺が築き上げたかった「本物」の証明であり、何より、雪ノ下を傷つけることが、俺自身を完全に否定することになると、わかっていたからだ。
しかし、その維持は、俺にとって大きな重圧となっていた。
スマホをポケットにしまいながら、俺は由比ヶ浜に背を向けた。 雪ノ下との帰り道とは逆方向へ。
向かう先は、駅前のチェーンのカフェ。 俺のスマホには、既に鶴見留美からのメッセージが入っている。
『八幡、もうすぐ着く?待ってるね』
俺は、雪ノ下との「正しさ」を、ガラス細工のように脆いまま維持するために。そして、留美の「肯定」という麻薬的な安堵を求めるために。
この、二重生活を続けることを、選んだ。