青春とは嘘であり、悪である。(連載)   作:10気筒VTEC

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第二章 不自由の刑
浸透戦術 1


 

雪ノ下雪乃に拒絶され、奉仕部という居場所さえ失った俺にとって、放課後の冷たい雨は、自らの愚かさを冷徹に突きつける装置でしかなかった。

 

「……はぁ」

 

駅前の安チェーン店の片隅。結露した窓の向こうで、家路を急ぐ総武高の生徒たちの傘が、色とりどりの花のように流れていく。その中に、雪ノ下の後ろ姿を探してしまう自分を、俺は心の底から呪った。

 

「八幡、またそんな顔してる」

 

向かいからかけられた声に、思考の霧が晴れる。 そこにいたのは、かつての澱みを意志の強さへと変えたはずの、しかしどこか危うい光を宿した少女――鶴見留美だった。

 

「……そんな顔、ってどんなだよ」

 

「自分だけが世界で一番最低だって、酔いしれてるみたいな顔。……嫌いじゃないけど」

 

留美は、ぬるくなったコーンスープを一口啜り、俺を試すような視線を送ってくる 。 中学三年生。一ヶ月後には義務教育を終える彼女は、会うたびに「子供」の仮面を脱ぎ捨てていた。

 

「雪ノ下さんと、まだ話してないんでしょ?」

 

核心を突く質問。俺は答えず、冷めたブラックコーヒーで喉を焼いた。 雪ノ下は俺の自己犠牲を、彼女への裏切りだと断じた。対等であることを望み、共に歩むことを誓ったはずの「本物」の関係において、俺の独断は最大級の侮辱だったのだろう 。

 

「あの人は、正しいからね。八幡を正そうとする。……でも、私は違うよ」

 

留美がテーブル越しに、そっと手を伸ばしてくる。 俺の、テーブルに置かれたままの右手に、彼女の冷たい指先が触れた。

 

「私は、八幡が誰かのために泥を被るのが好き。……それが、私の知ってる『比企谷八幡』だから。間違いだって、歪んでるって言われても、私はそれを綺麗だと思う」

 

その言葉は、雪ノ下との「正しさ」に疲弊した俺にとって、猛毒のような甘さを持って染み渡った。 雪ノ下が俺の欠陥を治すべき病だと見なすなら、留美はそれを自分の一部として愛でようとしている。

 

「……お前、本当に性格悪いな」

 

「八幡にだけは言われたくない」

 

留美はくすくすと笑い、指を絡めてくることはせず、ただ俺の手の甲をなぞった。 その小さな、しかし確実な接触に、俺は雪ノ下との生活では得られなかった「安堵」を感じてしまっていた 。

 

「ねえ、八幡。高校生になったら、もっと自由になれるかな」

 

「……さあな。高校は中学より少しだけ広くて、その分、少しだけ不自由な場所だぞ」

 

「ふふ、八幡らしい。……でも、私は楽しみだよ。八幡が吸ったのと同じ空気を吸って、こうして悪いことができるようになるんだもん」

 

留美の瞳が、雨の日の薄暗い店内で、妖しく光った。 俺たちは今、間違いなく「共犯者」だった。 雪ノ下との「本物」を、俺自らの手で粉々に砕き、その破片の上で、俺を全肯定してくれる少女と傷を舐め合っている 。

 

「……悪いこと、しよ。」

 

留美が、耳元で囁くように言った。

 

「……そうだな。悪いこと、だ」

 

俺は、彼女の指先を振り払うことができなかった。 窓の外で、総武高の校章が入った傘が通り過ぎていく。それが誰の傘なのか、俺はあえて、確認しようとはしなかった 。

 

冷たい雨の混じる高架下。 そこに佇む比企谷八幡と鶴見留美。

 

留美は不敵に微笑むと、躊躇いなく八幡の懐へと潜り込んできた。

「おい、離れろって。風邪引くし、誰かに見られたら……」

 

「誰も見てないよ。それに、我慢できない」

 

留美の声は微かに震えていた。それは寒さのせいではなく、彼女の内側に渦巻く強烈な執着の熱によるものだった。

 

「留美、お前……」

 

八幡が突き放そうとするよりも早く、留美の小さな手が八幡の首筋に回り、指先が素肌に触れる。冷たい外気とは対照的な、そのあまりにも熱い体温に、八幡の思考が白く濁る。

 

「雪ノ下さんは、八幡を信じてるから、こうして独りにさせるんだよね。……でも私は信じてない。八幡がいつか、どこか遠くに消えちゃいそうで、怖いもん。だから、今ここで『私のもの』だって証拠がほしいの」

 

留美は八幡の胸元に顔を埋めたまま、その体を強く押し付けてくる。厚いコート越しでも伝わってくる、若々しくもしなやかな体の曲線。彼女の鼓動が、自分の心音と同期していく感覚。

 

「……卒業式まで、あと数日だって言っただろ」

 

「言葉なんていらない。ねえ、八幡。……触って。壊してもいいから」

 

留美は八幡の右手を強引に取り、自分の薄い腰へと導いた。 抗おうとする理性とは裏腹に、八幡の指先は彼女の体温を求めてしまう。彼女の「歪み」を、そして自分への「執着」を、肌で感じることの甘美な解放感。

 

「……っ」

 

八幡は、自分の指が留美の制服の生地を強く掴むのを自覚した。 雪ノ下雪乃との間にあった、あの清廉で、対等で、それゆえに苦しかった「本物」とは対極にある、泥濘のような密着。

 

留美は満足げに喉を鳴らすと、八幡の顎を上向かせ、その瞳をじっと見つめる。彼女の瞳には、かつて千葉村で見せた孤独な少女の面影はなく、ただ一人の男を共犯関係に引きずり込もうとする、残酷なまでの「女」の光が宿っていた。

 

「……前よりずっと、いい顔してる」

 

留美の唇が、八幡の唇に触れるか触れないかの距離まで近づく。 八幡は、自分がもう、この少女から逃げるための理由を失いかけていることを悟っていた。卒業式という最後の境界線さえも、彼女の熱によって溶かされ、消えていく。

 

雨音だけが支配する高架下で、二人の影は、分かちがたく一つに重なろうとしていた。

高架下の薄暗がりの中、互いの体温だけが異常なほど鮮明に伝わってくる。 八幡は、自身の腰に回された留美の手の熱に浮かされそうになりながらも、辛うじて残った理性の残滓をかき集め、掠れた声で告げた。

 

「……待て。これ以上は、条件がある」

 

留美の動きが止まる。彼女の瞳が、至近距離で八幡を射抜いた。その視線には、拒絶への恐怖と、それ以上に深い渇望が混ざっている。

 

「条件……?」

 

「ああ。…キスはしない。中学生に許されないこともだ。これだけは譲れない。……俺が、まだ俺でいるための、最後の境界線だ」

 

それは、雪ノ下雪乃への未練であり、同時に自分を壊しきれない臆病者の盾でもあった。卒業式を迎えるまでは、物理的な一線を越えることだけは、自分という存在が完全に瓦解することを意味していた。

 

留美は一瞬、不満げに眉を寄せたが、すぐにその表情を和らげ、どこか慈しむような、残酷なほど優しい微笑みを浮かべた。

 

「……いいよ。八幡らしいね。そんなに怖がらなくても、私は逃げないのに」

 

留美は八幡の言葉に従い、それ以上の侵略を止めた。しかし、代わりに彼女は、八幡の体に自身の全てを預けるように、深く、深くその身を沈めてきた。

 

「じゃあ、こうさせて。……これなら、条件違反じゃないでしょ?」

 

留美は八幡の両腕を自分の背中に回させると、彼の胸板に顔を埋め、全身で彼を包容した。 厚いコート越しでも伝わる、彼女の柔らかな肉体の感触と、首筋をなでる吐息。

 

「……っ」

 

八幡の腕に、力がこもる。唇を重ねず、ただ抱き合うだけ。その行為は、魂の根源的な部分を侵食していくような感覚を伴っていた。

 

「あったかいね、八幡……」

 

留美の声が、八幡の胸に響く。 制約が、逆に互いの匂いや鼓動を過敏にさ、肌の触れ合う面積を愛おしく思わせる。

 

「……お前、本当に……」

 

「ずるいのは、お互い様だよ。……私はこうして、八幡の『中身』だけを先に全部もらっちゃうんだから」

 

留美の腕が、八幡の背中でさらに強く結ばれる。 それは救済の抱擁であり、同時に獲物を締め上げる蛇のトグロのようでもあった。

 

八幡は、彼女の髪に顔を埋め、目を閉じた。 雪ノ下の残滓は、もうここにはない。あるのは、一人の少女による、歪んだ肯定という名の泥濘だけだ。

 

 

 

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